第5話 刻まれた印
夜が明けきらぬ薄暗さの中、アッシュは無言で野営の跡を片付け、リメアを伴って歩き始めた。
東の山道は朝の冷気を帯び、道端の草葉には露が光っている。
昨夜立ち寄った宿駅の前を通ると、まだ数人の旅人が門前であくびをしていた。
眠気まじりか、出発の準備か――いずれにせよ、昨日の喧騒は消え、今はただ冷えた木の扉と、油燈の煙の匂いだけが漂っていた。
アッシュはリメアの手を引かず、地図を確認しながら黙々と歩いていた。
リメアはその横をぴょんぴょんと跳ねたり、道端の甲虫を爪先でつつき、鳥を追いかけたり。
それでも、彼女の姿は常にアッシュの視界にあり、彼も特に咎めはしなかった。
半ばまで登った頃――リメアがふいに立ち止まった。耳膜がぴくりと震える。
【……まえ、なにかいる。においがする。】
アッシュが顔を上げたと同時に、山風が血の匂いを運んできた。
生臭く、焦げた血の匂いが――紛れもなく、死と炎の痕跡だった。
そこには、荒れた灌木と、折れた車軸の荷馬車が斜めに傾いていた。
車体は割れ、天幕は引き裂かれ、地面には暗赤色に染まった鎧姿の傭兵たちが横たわっていた。
昨夜の宿駅で見かけた者たちだ。
馬車の脇では、二頭の狼型魔物が、死体を食い荒らしていた。
その背には、昨日見たものと同じ、焦げたような刻印がちらりと光る。
アッシュはリメアに目配せする。
【木のかげに。】
リメアが素早く後退するのを見届けると、彼は剣を抜き、岩陰を使って一気に接近した。
――一閃。
剣が唸り、最初の狼の喉元を裂いた。
熱い血飛沫が舞い、続けざまにもう一頭を蹴り倒す。
反撃の隙も与えず、鋭く剣を突き立てると、動きは途絶えた。
周囲に異常がないのを確認した後、アッシュは死体を調べ、目を細めた。
【やっぱり……昨日のと同じ印だ。】
リメアが近寄り、声をひそめる。
「……ああ。」
アッシュは剣先で焼け焦げた印の部分を切り取り、革袋に収めた。
「相変わらず粗雑な即席刻印だな。」
彼は馬車の残骸へと歩き、破れた天幕をめくった。
荷箱がいくつも散らばっている。
中には日用品も散らばっていたが、一部には冷たく脈打つ鉱石と、古い符文の刻まれた破片が詰まっていた。
アッシュは眉をひそめ、手で鉱石の表面をなぞる。
冷たく、微かに震えていた。
【これ……魔物が好きなやつ?】
「好きというより……引き寄せられるのかもな。」
そのとき――
森の奥から、低く、長い咆哮が響いた。
それは、特定の方向からではなく、四方八方から押し寄せてくるような音。
次の瞬間、茂みが激しく揺れ、豹のような体格の魔物たちが飛び出してきた。
その瞳は死んだような灰白色に濁り、肩にはまたもや焦げた印。
焼けた毛と血の臭気をまとい、唸りながらアッシュたちに突進してくる。
アッシュは即座にリメアを背後に庇った。
剣を横に構え、最初に飛びかかってきた一頭を受け止める。
金属と爪がぶつかり、火花を散らす。
その重さはまるで岩が盾にぶつかったかのようだった。
アッシュは力を受け流すように身をひねり、刃を持ち上げて前脚を裂いた。
同時に、もう一頭が側面から迫る――
彼は片手で魔導銃を抜き、親指で符文を起動。
暗金の輝きが一瞬閃き、
「――ッ!」
乾いた爆音が湿った空気を弾き、弾丸が豹の肩を貫く。
肉が裂け、血と泥が飛び散った。
残る二頭はひるまない。
むしろ、なにかに駆り立てられたように唸りを上げ、正面から一斉に突っ込んでくる――
――その瞬間。
森の奥から、低く長い歌声が聞こえてきた。
の旋律は霧のように広がり、空気を震わせ、耳と骨を共鳴させた。
アッシュにはその言葉の意味はわからなかった。
だが、その律動は――どれほど忘れようとしても、決して消えぬものだった。
龍語だった。
魔物たちの動きがぴたりと止まる。
前足を浮かせたまま、肩が震え、呼吸は荒いが動こうとしない。
そして――
灰白の瞳に揺らぎが走る。
やがて、まるで糸に引かれるように身体を反転させると、魔物たちは一斉に森の奥へと消えていった。
枝葉がはじけ、落ち葉が舞い、足音だけを残して。
アッシュはその場に立ち尽くし、胸を大きく上下させた。
――息切れではない。
それは、怒りだった。
この声を――彼は、知っている。
忘れもしない。
彼から、光も、温もりも、そして「最も大切なもの」までも奪った存在――
その声だった。
「っ……!」
彼は突然リメアを振り返り、強く、思いきり抱きしめた。
【きゃっ!?】
思わず、彼の腕の中でリメアの爪が地面にひっかき傷を作るほどだった。
【な、なに!? アッシュ、ど、どうしたの!?】
アッシュの声が、低く、でも怒鳴るように響く。
「聞くな!耳を塞げ……その声を、聞くな……!」
その震える声は、まるで命令というより、願いのようだった。
リメアは驚いたまま、何も言えず、ただ抱きしめられていた。
尾は腕に挟まれ、翼膜は背に押しつけられて動けない。
アッシュの心音が彼女の体に伝わる。
それは――戦いの時とは違う、混乱したリズムだった。
怒りとも、恐怖とも、両方が入り混じったような、荒々しい心拍。
【……なにが、あったの……?】
彼女の瞳が揺れ、尾が地面をそっと叩いた。
それは初めて見るアッシュの姿に対する、戸惑いと恐れが混じった問いだった。
アッシュはリメアの目をじっと見つめ、数秒間、何かを確認するように目を離さなかった。
そして、ようやく力を緩めながら、呟いた。
「……何でもない。」
だが、その声には張りつめた糸のような緊張が残っていた。
リメアは爪先でそっと後ずさり、耳を伏せ、尾で地面に小さな円を刻んだ。
彼女は分かっていた。
あの歌声の主は――
あの、紫の気配をまとう少女だ。
でも、それはふたりだけの秘密。
約束だから、アッシュには言えない。
だから彼女は、ただ目を伏せて、黙っていた。
アッシュは剣と銃を収めると、山道から外れた林道へと向きを変えた。
そこは地図に載っていない、深い森への入り口。
彼の足取りは、怒りに背中を押されているように速く、重かった。
まるで――あの声の主を、必ず見つけ出すとでもいうかのように。