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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第四章:セラウィンへの旅路

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第45話 戦場を選ぶ者

 アッシュが扉を開けて船室に戻ると、灯火が静かに揺れていた。

 リメアはベッドの傍らに丸まっていたが、すぐに頭をもたげ、青い瞳が彼の姿を映し出す。


 ――【アッシュ】

 低く響く彼女の心声が、そっと届く。

 【……本当は、東へ行きたくないんじゃないの?】


 アッシュの足が止まり、しばしの沈黙ののち、手を伸ばしてリメアの首の鱗に触れた。

 掌には、温かな息づかいが感じられる。


「ただ……お前を戦場には立たせたくないだけだ」

 その声は静かで、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。


 だが、その言葉を口にした途端、心の奥に小さなざわめきが生まれた。


 ――本当に、リメアのためだけか?


 それとも、あの夜――アエクセリオンが倒れた、あの血と炎の記憶から逃れたいだけではないか?

 アッシュは、リメアが空の竜群を見上げていた時の目を思い出す。

 あの瞳には、確かに何かが宿っていた。


 【だから、あたしもあなたのために戦う】


 それは、竜族に刻まれた本能と記憶――


 彼の呼吸が微かに止まる。


 ――もしかすると、リメアが本当に望んでいるのは「戦うこと」なのかもしれない。


 そして、自分はただ……その道から引き離してきただけなのではないか。

 自分自身の傷を、彼女に投影していただけではないか。


 アッシュは目を伏せたまま、鱗の上をそっと撫でた。

 その疑念を、言葉にすることはなかった。


 その時――

 甲板の上から、突然鋭い号笛の音が響き渡る。


「――海獣だ! 右舷下の海域に異常あり!」


 船体がぐらりと揺れ、床板が微かに軋む。

 リメアが翼を立てて身を起こし、瞳孔が一瞬で細くなった。

 喉の奥から低く、唸るような音が漏れる。


 アッシュは眉をひそめ、すぐに扉を押し開けて甲板へ駆け上がる。

 遠くの海面では、黒い大波が渦を巻きながら盛り上がり、巨大な影が水面を割って現れる。


 それは分厚い鱗甲に覆われた巨大海獣だった。

 鯨に似ていながら、八本の触腕を持ち、口器の開閉からは冷たい光がこぼれている。


 水夫たちは一斉に後退し、誰かが叫んだ。

「深淵の八腕だ! このままじゃ、船ごと引きずり込まれる!」


 マスト脇の魔導通信器が震え、押し殺したような声が響く。

「前方に海獣を確認。支援が必要か?」


 甲板の水夫たちの目が輝き、歓声が上がりかけたが――

 すぐに通信器の声が続いた。

「……ただし、王女様は先ほど、『護衛は不要』と仰っていた」


 期待は一瞬で氷の底に沈んだ。

 甲板に重い沈黙が落ちる。


「必要ありません!」

 フィリシアの声が冷たく澄み、はっきりと通る。

 彼女は手を振り下ろしながら命じた。

「帆を固定して! 魔導弩を展開! 動揺せずに陣形を保て!」


 護衛たちは即座に列を整え、水夫たちは甲板に設置された大型の魔導弩を押してくる。

 弦の溝に刻まれた魔紋が順に光を灯し、青い光が浮かび上がる。


 アッシュはマストに吊るされた通信器を見上げ、静かにリゼリアに言った。


「……出てこないのも当然だ。あの種の竜は『八腕』には向いていない。海に引きずり込まれたら、竜の方が危ない」


「……つまり、自力でやるしかないのね。私の歌で……」

 リゼリアが言いかけたその瞬間、船体が大きく傾き、彼女の身体がよろめく。


 アッシュは素早く彼女の腰を抱いて支えた。

 その動きは自然で、だが断固としていた。


 彼の目はすでに荒れ狂う海面を見据えていた。

 その声には静かながらも絶対的な力が宿っている。


「……船室に戻れ。ここは危険だ」


「……じゃあ、あなたは?」

 リゼリアは悔しそうに食い下がる。


「俺に任せろ」

 それだけ。余計な言葉はなかった。


 リメアが低く吼え、尾を甲板に打ちつける。

 彼女の瞳は、波間の怪物をまっすぐに見据えていた。


 ――【あたしが、みんなを守る】

 その心声がアッシュの中に響き、かつてないほどの決意が込められていた。

 銀青の鱗が緊張で逆立ち、翼の先が微かに震えている。

 いつでも飛び出せる構えだった。


 アッシュは彼女の首に手を置いた。

 力は込めず、ただ静かに――それは無言の合図だった。

 「まだ出るな」とも、「抑えろ」とも言わず、ただそっと息を吐く。


 リゼリアはその姿を見て、はっとした。


 その場にあるのは――同じ頑なさ。

 アッシュも、リメアも、誰一人として退くつもりなどなかった。


 波が爆ぜた。

 巨大な影が水面を破り、凄まじい勢いで現れる。

 海獣の大顎が開かれ、裂けるような咆哮を放つ。

 数丈の波が立ち、船体を襲う。


 アッシュは即座に判断を下し、魔導銃を抜いた。

 銃口から圧縮された魔力が迸り、光弾となって海浪の中心へ撃ち込まれる。

 爆発のような衝撃が波を削ぎ、わずかに勢いを抑えた。


 しかし、次の瞬間――八本の触腕が同時にうねりを上げ、甲板へと襲いかかる。

 木材が砕ける音、水夫たちの悲鳴が響く。


 リメアが高く吼えた。

 翼が大きく広がり、風が海水を細かく砕いて雨に変える。

 彼女の身体が跳ね上がり、船縁を越えて空中へ。


 喉の奥で白い息が凝縮され、熱光の柱となって放たれる。

 それが触腕に直撃し、眩い蒸気と焦げた匂いが広がる。


 アッシュは胸に鈍い痛みを覚え、低く吐き捨てた。

「……馬鹿竜」


 フィリシアは混乱する水夫たちを手で制し、その目がリメアの姿をしっかりと捉えていた。

 その瞳が、一瞬きらめく。


 彼女は小さく呟くようにして、護衛に命じた。

「……リメアを守って」

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