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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第四章:セラウィンへの旅路

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第44話 選ばれぬ者たちの選択

 アッシュは静かに甲板へと出た。夜はすでに深く、海風が塩気を帯びて顔を打ち、船室に漂っていた重苦しい空気をわずかに吹き払ってくれた。


 遠方にいた竜の編隊はすでに姿を消し、波打つ海面には月光が降り注ぎ、白く砕ける波が銀のかけらのようにきらめいている。


 彼は手すりにもたれながら、手のひらにまだ微かに残るリメアの鱗のぬくもりを感じていた。

 だが、脳裏には先ほどリゼリアが口にした言葉が、繰り返すように響いていた。


 『竜は本来、自分で選べるんでしょう?』


 アッシュの指は白くなるほどに握り締められていた。

 魔女の戯言だと自分に言い聞かせていた。だが、心のどこかが、疼いた。

 触れてはならぬと封じてきた、古い傷口が、かすかに開いたようだった。


 その時――甲板に足音が響く。


「……ノアさま」


 フィリシアの声だった。

 彼女は薄手のマントを羽織り、金の髪を夜風に揺らしながら歩み寄ってきた。

 距離を詰めすぎることなく、彼の隣に静かに立ち、視線を同じく海へと向ける。


「最近……あまりお話しされませんね」

 その声は探るようであり、そっと問いかけるようでもあった。

「王国のこと、何かお悩みなのでしょうか」


 アッシュは彼女を見ずに、淡々と答えた。

「……元から、口数は多くない」


「違います」

 フィリシアの声には、かすかな笑みと、拭いきれぬ寂しさが混ざっていた。

「幼い頃のあなたは、たくさん話してくれました。私に、いろいろなことを」


 アッシュは少し間を置き、眉をひそめた。

「そうか……覚えてないな」


「そう言われると……まるで……」

 彼女は一瞬、言葉を飲み込むようにしてから、静かに言葉を継ぐ。

「まるで、恋をしていたのは私だけだったみたいです」


 アッシュはようやく彼女に視線を向けた。

 冷静で、しかしその言葉には遠慮がなかった。


「……まだ、あの婚約を気にしてるのか? ただの政略だ。今の君にとって何の得にもならない。破棄した方がいい」


 海風が吹き抜け、会話の間に短い沈黙を生んだ。


「私は、そうは思いません」

 フィリシアは静かに、しかし力強く言った。

 夜の中、その青い瞳はひときわ強い光を湛えていた。


 アッシュは微かに驚き、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「……そんな縛りに囚われて、いいのか?」

 その瞬間、頭の奥にリゼリアの言葉がまた蘇る。


 『その契約は、竜を縛るもの? それとも人を縛るもの?』


 喉が詰まり、息が一瞬止まった。


「それは、私自身の《《選択》》です」

 フィリシアのはっきりとした声が、彼の思考を断ち切った。


 夜風の中、二人の対話は鋭い刃のように交差する。

 誰が選ぶのか。なぜ選ぶのか。


 ――そして、選ぶということが持つ「重さ」。


 アッシュは長く黙した。

 波が船の側面に打ち寄せ、夜の闇が幾重にも降り積もるようだった。


 フィリシアはその場を離れず、なおも柔らかく、しかし明瞭に言葉を続けた。

「ノアさまは先ほど、婚約は政略だとおっしゃいました。でも、私がそれを受け入れているのは、政治のためではありません」


「私は、あなたと並んで歩きたい。セラウィンの王女としてではなく――一人の人間として」


 アッシュの眉間が深く寄る。反論しようとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。


 フィリシアはそのまま彼を見据え、鋭い視線を向ける。


「あなたは、『王国に戻る気はない』『罪を晴らす気もない』『王になる気もない』とおっしゃったわ」

「でも、本当にそうなのですか?」

「……竜王の死。反逆の真相。世界が勝手に《《あなた》》を定義しようとしている、その全てを――本当に、どうでもいいと思ってるの?」


 アッシュは視線を落とし、欄干に手をついた。

 指先が白くなるほど、強く握られていた。

 しばらくの沈黙の後、かすれた声で言う。


「……気にはなる。だが、どうにもならない。結果は決まってる。俺にできる選択なんて、リメアを戦場から遠ざけることしかない」


「違うわ」

 フィリシアの声が鋭く強まる。

「それは《《責任》》であって、《《選択》》じゃない」


 アッシュははっと息をのむ。


「本当の選択とは、あなたがまだ……《《何か》》を握っていたいと思えるかどうかよ」

「真実か、未来か――それとも、《《誰か》》か」


 その最後の言葉だけは、囁くように小さく。だが、それまでよりもはるかに強く響いた。

 一瞬、空気が凍りついた。まるで海の音さえ、彼女の言葉を聞き逃すまいと沈黙したようだった。


 彼女の問いは、彼の心の最も触れてはならない場所に、正確に突き刺さった。

 アッシュは応えることができず、胸の奥が引き裂かれるような痛みに襲われ、言葉を失った。


 彼の呼吸は乱れ、喉の奥までこみ上げた言葉は、形にならなかった。

 夜風が吹き抜け、乱れた髪の下にある目元の動揺を、そっと隠していった。


 フィリシアはしばらく彼を見つめていたが、やがて視線を外し、落ち着いた口調で言った。

「……何にせよ、目的地まではまだ数日かかります。その時までに――どうか、ご自身の答えを見つけてください」


 彼女は静かに一礼し、背を向けて歩き出す。

 ドレスの裾が夜風に揺れ、足音とともに波音の彼方へと消えていく。


 甲板にはアッシュひとりだけが残された。


 彼は遠い闇の海原を見つめ、なおも白くなるほど手すりを握りしめていた。

 木が軋む音が、沈黙の中に微かに響く。


 そして――脳裏に聞こえた、かつての誰かの声。

 遥か戦場の裂け目から響いてきた、低く、静かな言葉。


『お前が王である必要はない。

 ただ――

 彼女が飛び立つ時、振り返る必要がないようにしてやれ』


 アッシュは目を閉じた。

 胸の奥に痛みが残り、それでも、深く息を吐き出した。


 空がわずかに明るくなりはじめ、雲の切れ間に光が差す。

 海面が銀白にきらめいた。


 ――この長い夜が、ようやく明けようとしていた。

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