第43話 契約の影
甲板が一瞬ざわめいた。
「……王国の騎士団か?」誰かが緊張した声でささやく。
「まだわからない……野生の竜か、飼い慣らされた竜かも……」
フィリシアの表情は変わらないまま、すぐに身を翻し命じた。
「アッシュ、まずリメアを船室へ避難させて。私が対応します」
アッシュは視線だけを上げ、動かずにリメアを自分の側に寄せた。
その時、船首のマスト脇で光が走る。
銅と黒曜石を組み合わせた円盤状の魔導器――その中心に半透明の結晶片が浮かび、淡い青光を放ちながら声を響かせた。
金属のような反響を伴った声だった。
「こちらは王国天翔部隊第四分隊。我ら、団長ゲルハルト・エーデフェルトの命により、セラウィン国の商船を護衛するために来訪した」
「第四分隊……」
アッシュが低く呟き、眉をひそめる。
「暗鋼騎士か。中位竜で編成された通常部隊だな。貴族の指揮官はいない」
フィリシアの目に一瞬、計算の色がよぎる。
彼女は一歩前へ出て、透き通る声を通信器へと届けた。
「私はセラウィン国の王女フィリシア。この船は私が直接指揮している。護衛は不要です」
短い沈黙。
やがて、冷たく硬い男声が返ってきた。
「カスティア港での騒乱について報告を受けている。我々には、この船の安全に懸念を抱く合理的な理由がある。護衛を辞退されるとしても、乗船検査は許可していただきたい」
甲板に緊張が走る。
水夫たちは顔を強張らせた。――この船には王国とセラウィンの両方の旗が掲げられている。理屈の上では、彼らの要求にも一理ある。
フィリシアの瞳に冷たい光が一瞬走る。しかし、声は揺るぎなかった。
「あなた方の任務は王国領海の巡視であり、同盟国の船を干渉することではない。それは越権行為です」
通信器の向こうはしばし沈黙し、より高位の命を待っているかのようだった。
その間にも竜の編隊は低空へと迫り、中位竜の青銅と墨緑の翼が海面を圧し、船体が波間で軋み震えた。
水夫たちは手綱を握る手に力を込め、顔色を失っている。
リメアが低く唸り、鱗を逆立てる。
「……動くな」アッシュはその首筋に手を置き、静かに言った。
フィリシアは後退しなかった。
彼女は声を張り上げ、ひとつひとつの言葉をはっきりと通信器に届ける。
「第四分隊、よく聞きなさい。この船は二国の旗を掲げているが、主権は我が方にある。あなた方が強行して乗船すれば、王国とセラウィンの同盟関係に対する挑発行為となります。それがあなた方の本意ではないと、私は信じています」
沈黙が、数呼吸の間続いた。
やがて、抑えた不満を含んだ声が通信器から返ってきた。
「……この件はそのまま上に報告する。しかし、これ以上の異変があれば、第四分隊は強行介入も辞さない」
直後、竜たちの編隊は高度を上げ、遠方で旋回して監視へと切り替えた。
圧迫感が徐々に薄れ、水夫たちはようやく一斉に息を吐く。
フィリシアは振り返り、変わらぬ落ち着きを見せて命じた。
「予定どおり航路を進めなさい。慌てることはありません」
リメアはまだ低く呼吸し、銀白の鱗を立たせたままだった。
その瞳は遠空を睨み、喉奥から押し殺した唸りを洩らしている。まるで、いつでも相手の咆哮に応じようとしているかのようだった。
「同族を近くで見るのは、初めてか?」
アッシュはその首筋に手を置く。
リメアの翼膜が小さく震え、やがて無理やり抑え込んだ。
心の声が途切れ途切れに、アッシュの頭の中に響く。
【……大きい。あたしと……違う】
アッシュはしばし黙り、掌で鱗をなぞるように撫で、静かに言った。
「……悪いことじゃない」
リゼリアは遠空にまだちらつく竜影を見やり、眉を上げる。
「ずいぶん派手な『挨拶』ね。……これでますます気が抜けなくなったわ」
海風が吹き抜け、縄の軋む音が低く響く。
まるで、この航路がまだまだ平穏にはならないことを告げるかのように。
◇
夜が深く降り、海面には船灯と星明りが交錯する微光だけが残っていた。
昼間の騒動を経て、甲板はいつもより静かで、風の音さえ際立っている。
船室では油灯が揺らめき、淡い黄の影を落としていた。
アッシュはベッドの端に身を預け、剣と魔導銃を手元に置いたまま目を閉じている。
リゼリアは窓辺に身をもたせ、淡紫の長髪が灯火にちらちらと光っていた。
床ではリメアが身を丸め、銀白の鱗を冷ややかに青の光らせている。
静かにしていた彼女は、ふと目を開き、低い心声を響かせた。
【……アッシュ】
アッシュは目を開き、そちらを向く。
リメアは翼を縮め、ためらいがちに言葉を続けた。
【今日、空で見た竜たち……とても強そうだった】
アッシュは一瞬黙し、平静な声で、否定の余地もない事実のように答えた。
「奴らは戦場で鍛えられた竜だ。竜王に従い、人間と共に戦い、鋭く、強くなった。王国の者にとって、竜に選ばれることは無上の栄誉だ」
リメアは小さく鳴き、瞳孔を細める。
【だから、あたしもあなたのために戦う】
リゼリアが横目で二人を見ながら、ふいに口を開いた。
「竜は本来、自分で選べるんでしょう? 誰に従うか、決めるのは自分」
アッシュは一瞬驚き、すぐに頷いた。
「そうだ。竜が決める」
リゼリアはすぐに続ける。
「だって、竜王がずっと王国のために戦ってきたから、竜たちも人間も、それが当たり前だと思ってきただけじゃないの?」
アッシュは眉をひそめ、硬い声で返した。
「それが千年前に結ばれた契約だ。竜王が王を選び、人と竜が共に王国を守る――何が問題だ?」
「あなた自身は、どう思ってるの?」
リゼリアは軽い調子を装いながら、まっすぐに彼を見つめる。
「その契約は……竜を縛るもの? それとも人を縛るもの?」
アッシュの視線はリメアに落ちる。
銀青の鱗が灯りの下できらめく。
彼は知っている。リメアが生まれた時、本能のまま自分を繫名者に選んだことを。
本当は、もっと「良い選択」ができたはずなのに。
彼はふと気づいた。自分は一度も、彼女に「選ぶ」機会を与えたことがなかった、と。
「どうして黙ってるの?」
リゼリアの声に、冷たい響きが混じる。
「やっと、自分の間違いに気づいた?」
アッシュはゆっくりと顔を上げた。
表情は再び冷たく硬いものに戻っていた。
「……魔女、いつ俺に口出しを許した? これは王国のことだ。お前が口を挟むべきじゃない」
リゼリアの息が詰まり、胸に怒りがこみ上げる。
彼女は冷笑して、それ以上何も言わず、どさりと座って背を向けた。
しばらくして、背後から低い声が届く。
「……お前、あいつを助けるって約束したよな?」
リゼリアは目を見開き、勢いよく振り返った。
だが見えたのは、扉を出ていくアッシュの背だけだった。
扉が「バタン」と閉まり、船室は沈黙に包まれた。
「……どうしたの、彼?」
彼女は低く呟く。
リメアが頭を上げ、どこか沈んだ声を返した。
<一人にしてほしいって。あたしに、ついてこないでって>
彼女はリゼリアのそばに寄り、額をそっと当てた。
リゼリアはため息をつき、その頭鱗に手を伸ばす。
「……ほんと、あの人は馬鹿ね」




