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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第四章:セラウィンへの旅路

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第42話 偽りと誓い、そして影

 甲板を吹き抜ける海風が頬を打つ。

 一瞬の沈黙の中、聞こえるのは甲板を忙しなく行き交う水夫たちの足音と、縄と帆が擦れる音のみだった。


 最初に口を開いたのはフィリシアだった。抑えた語調の中に、抑えきれない想いがにじんでいた。


「リゼリアさん、もう一度だけお聞きしてもよろしいでしょうか……あなたとノアさまは――本当にご夫婦なのですか?」


 リゼリアは手を軽く振り、唇に浮かべたのはどこか曖昧な、皮肉めいた微笑だった。

「もちろん嘘よ。ただの方便、口から出まかせってやつ。……でも、フィリシア様がこんなに気にするとはね?」


 その笑みには、明らかなからかいが含まれていた。

 フィリシアの表情が微かに揺らぐ。まるで何か核心を突かれたように、思わず語気が強くなる。


「気にならないわけがありません! もし本当にノアさまがご結婚されていたら――その方は王妃になるのです!」


 リゼリアはその言葉の裏にある、もう一つの意味を見逃さなかった。

 目を細めると、さらに深く微笑みを浮かべ、静かな口調で返した。


「けれど、今はもう竜王はいない。王位は第一王子が継ぐはずでしょ? それに、彼ははっきりと言っていたわ。『王になる気はない』と。

 ……それでも、彼の結婚相手が気になる理由は、表向きとは違うんじゃない?」


 フィリシアの喉が小さく鳴る。そして、決意を固めたように一つ咳払いし、口を開いた。

「……実は、私はノアディス王子と婚約しています」


 リゼリアは眉をわずかに上げたが、その声に驚きはなかった。むしろ、興味を引かれたかのような調子で続けた。

「それは不思議ね。彼は罪人のはずなのに、セラウィンは婚約を破棄しなかったの?」


 フィリシアは視線を落とし、平静な声の中に複雑な想いを滲ませながら答えた。

「もともとその婚約は、あまり重く見られていませんでした。私たちが生まれる前から定められていたもので、相手は第七王子……どう見ても、ノアさまがセラウィンに婿入りする形でした。でも、その後――」


 リゼリアが言葉を継ぎ、鋭い笑みを浮かべた。

「その後、彼が『竜王の選ばれし者』になった?」


 フィリシアは目を上げ、その瞳に一瞬光を宿し、誇り高く、力強い声で言った。

「そうです。そして、王国の英雄にもなった。だからこそ、私は彼に相応しい存在になると決めたのです――商業を学び、セラウィンを豊かにすることを目指して」


 リゼリアは何気なく口にしたが、その声はどこか柔らかくなっていた。

「……それは、大変だったわね」


 少し間を置いてから、さらに静かに言葉を添える。

「商売をする女性自体が稀少なのに、しかも貴族の令嬢ともなれば、『ふさわしくない』と見られることも多かったでしょう? きっと、苦労されたのでしょうね」


 フィリシアは唇を引き結び、しかしその眼差しはより強くなっていた。

「それでも構いません。……私は、どんなことがあってもノアさまをお支えします」


 そう言い残し、彼女は踵を返して船室へと歩み去る。

 侍者に何事かを指示しながら、背中を見せていった。


 リゼリアはその場に留まり、去っていく後ろ姿を見送りながら、ふっと唇の端を上げてつぶやく。


「……支える、ね。果たして、それは彼のためか――それとも、自分のためか」


 淡い紫の髪を指にくるくると巻きつけながら、目元にわずかな悪戯っぽさが浮かぶ。

 ——この話、帰ったらあの男にからかい半分で聞かせてみようかしら。ちょっとは面白い反応が見られるかもしれないわね。


 ◇


 数日にわたる航海の中で、甲板に漂う塩の香りとタールの匂いは、次第に当たり前のものになっていった。

 波に揺れる船体のリズムは、外界の騒がしさすら忘れさせるほど、規則正しく静かだった。


 アッシュは毎朝、甲板で体をほぐし、船の護衛たちと交代で剣を交えていた。

 最初こそ護衛たちは彼を軽んじていたが、すぐに気づいた――その剣筋は無駄がなく鋭く、瞬く間に距離を詰めてくる。

 本気ではないとはいえ、その背に纏う圧は、見る者すべての背筋を冷やした。


 リゼリアの船上生活は、彼とは対照的だった。

 昼間は船の手すりにもたれて読書をし、あるいは甲板に寝転んで陽を浴びる。ときおり、こんな調子で口を挟む。


「そんなに剣振ってたら、船が真っ二つになるんじゃない?」

 軽口ではあるが、アッシュの視線がわずかに向けられることもある。


 リメアはというと、まさに自由そのものだった。

 果てしなく続く海に興味津々で、しばしば海鳥の影を追いかけて甲板を駆け回り、その尾で水夫たちを慌てさせる。


 時には首を伸ばして波間に息を吐き、飛び散ったしぶきに水夫たちがくすくすと笑う場面もあった。


 フィリシアは甲板に顔を出すこともあり、水夫たちと小声で言葉を交わしたり、航海図の前で操舵手と進路の確認をしていた。


 アッシュとリゼリアには一定の距離を保ち、無理に踏み込むこともなく、かといって遠ざけることもない――まるで、何かの時を静かに待っているかのようだった。


 しかし、船の上も常に平穏というわけではなかった。


 ある日、水夫の一人が甲板の端でひそひそと囁いた。

「……航路が変わってる。これ、北へ向かってないか?」

「しっ、声を落とせ。殿下には殿下のお考えがあるんだ」


 アッシュはその言葉を耳にしたが、何も言わず、ただ剣を納めると船首の方角を無言で見つめた。

 四日目の朝――夜明け前の薄明かりの中、甲板に突如として号笛の音が鳴り響いた。


 見張りの水夫が叫ぶ。

「――竜影だ! 前方の空に、竜の群れが接近してる!」


 その直後、重々しい咆哮が空を震わせる。

 雲の間から響くそれは、まるで山が動き出したかのような威圧をもって、海原全体を覆った。

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