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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第四章:セラウィンへの旅路

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第41話 誰が王を望むのか

 アッシュはしばらく沈黙した後、布に包まれた箱を取り出した。


 フィリシアはその姿をじっと見つめ、やがて低く呟いた。


「やはり……運命なのね。最終的に、それはあなたの手に戻ってきた」

「……だが、俺には開けられない。中に何があるのかもわからない。第一、なぜこれが連邦の手に渡った?」

 アッシュの声は冷たく研ぎ澄まされていた。


「それは……私にもわかりません」

 フィリシアは首を振り、険しい表情で続けた。

「私がカスティアに来たのも、本来はブレグからこの品を引き渡されるためだったのです。ですが彼は街中で謎の死を遂げ、同時に正体不明の勢力と巡検隊までが、箱を狙って動いていました」


「……ますます厄介になってきたわね」

 リゼリアがぼそりと呟く。


 アッシュは鋭くフィリシアを見据え、核心を突くように問うた。

「最終的に――この箱は、誰に渡すつもりだ?」


 フィリシアはひとつ名を告げた。

「……エミールよ」


「……エミール?」

 アッシュは顔を上げ、驚きを隠せなかった。

「騎士団の記録官か? ……つまり、それを王国に返すということじゃないのか?」


「違います」

 フィリシアの声はきっぱりとしたものだった。


「エミールもあなたの味方です。彼は密かに、アエクセリオン殿の死について調査を続けています。私たちは真実を突き止めたい――そして、あなたを王として推挙したいのです」


 その言葉は、静かな室内に石を投げ入れたように、瞬く間に波紋を広げた。


 リゼリアは思わず眉を跳ね上げた――「王に推挙する?」

 世間の者にとっては驚愕すべき提案だろう。だが、彼女の心に最初に浮かんだのは――ただ「馬鹿げている」という感想だった。


 この男が王になるなど、一度だって考えたことがない。

 世界中が彼の頭に王冠を押しつけようとしたところで、彼はそれを冷たくはねのけるだけだ。


 彼女はそっと頭を傾け、視線の端でアッシュをうかがった。

 予想通り、彼はただ深く息を吸い込み、無言で窓際の片隅へと歩いていった。

 リメアが彼の動きに合わせて頭をもたげ、足元へと寄ってくる。


 アッシュはその頭鱗に手を置き、低く、しかしはっきりとした声で言った。

「……お前たちは、何もわかってない。俺が望んでいるのは、あの子を東へ連れていくことだけだ」


 背を向けたままの肩は、緊張のせいでまっすぐに張っている。

 言葉は冷たく、鋼のように硬かった。


「王国に戻る気などない。罪を晴らす必要も感じていない。――王になるつもりなんて、最初からないんだ」


 フィリシアは黙したまま、彼の背中を見つめていた。

 そして、静かに問うた。


「……それでも、アエクセリオン殿の死の真相を、あなたは知りたくないのですか?」


 アッシュは一切動かない。その背中はまるで氷の壁のように、問いかけも感情もすべてを拒絶していた。

 リゼリアからは彼の表情は見えなかった。ただ、その沈黙が持つ重みと、押し込められた感情が、船室全体に重く漂っていた。


 フィリシアはやがて視線を外し、リゼリアに目を向けた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、柔らかくも揺るぎない声で告げた。

「……少し、考えてください」


 そう言って、フィリシアは静かに部屋を出ていった。

 リゼリアはアッシュの背中を見つめたまま、何かを言おうとしたが、結局一言も発しなかった。


 そのまま、彼女も執務室を後にする。ただ一言だけ、フィリシアに声をかける。

「少し、船の中を歩いてきます」


「侍女に同行させます」

 フィリシアは頷いた。



 扉が閉まると、船室の中は波の音だけが微かに響く静寂に包まれた。


 アッシュは依然として背を向けたまま、拳を握りしめていた。

 その白くなった指先が、内に押し殺した感情の強さを物語っていた。


 やがて、彼の足元からかすかな鳴き声が上がった。

 リメアが顔を上げ、銀青色の瞳が灯りに微かに反射する。

 その口は動いていなかったが、声はアッシュの意識の中に直接届いた。


 【ノアディス……あたしじゃ、足りないと思ってる?】


 それは、自信のなさと恐れを押し殺してようやく紡がれた、震えるような声だった。


 【アエクセリオンみたいに……一緒に戦えないって、思ってる?】


 アッシュはわずかに息を呑んだ。

 「ノアディス」と呼ばれたのは、これが初めてだった。

 その名前はまるで刃のように、彼の胸を深く切り裂いた。


 だが彼はすぐに答えず、ただ額を押さえる。

 リメアは静かに彼を見上げ、尻尾を身体に巻きつけながら、さらに言葉を紡ぐ。


 【あたし、まだ小さいから……だからって、弱いままでいたくない。

 ……待ってくれるなら、もっと強くなる】


 アッシュは目を伏せ、指先に力がこもる。

 胸の奥からこみ上げるものを、押し殺すかのように。


 そして、低く絞り出すように言った。

「……そうじゃない」

【……自分を、あいつと比べるな】


 リメアは瞬きを一つし、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、小さく息を吐き、再び彼の足元に身を伏せた。


 船室は再び、静寂に包まれる。

 波の音だけが、まるで何かを諭すように、ゆるやかに響いていた。

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