第41話 誰が王を望むのか
アッシュはしばらく沈黙した後、布に包まれた箱を取り出した。
フィリシアはその姿をじっと見つめ、やがて低く呟いた。
「やはり……運命なのね。最終的に、それはあなたの手に戻ってきた」
「……だが、俺には開けられない。中に何があるのかもわからない。第一、なぜこれが連邦の手に渡った?」
アッシュの声は冷たく研ぎ澄まされていた。
「それは……私にもわかりません」
フィリシアは首を振り、険しい表情で続けた。
「私がカスティアに来たのも、本来はブレグからこの品を引き渡されるためだったのです。ですが彼は街中で謎の死を遂げ、同時に正体不明の勢力と巡検隊までが、箱を狙って動いていました」
「……ますます厄介になってきたわね」
リゼリアがぼそりと呟く。
アッシュは鋭くフィリシアを見据え、核心を突くように問うた。
「最終的に――この箱は、誰に渡すつもりだ?」
フィリシアはひとつ名を告げた。
「……エミールよ」
「……エミール?」
アッシュは顔を上げ、驚きを隠せなかった。
「騎士団の記録官か? ……つまり、それを王国に返すということじゃないのか?」
「違います」
フィリシアの声はきっぱりとしたものだった。
「エミールもあなたの味方です。彼は密かに、アエクセリオン殿の死について調査を続けています。私たちは真実を突き止めたい――そして、あなたを王として推挙したいのです」
その言葉は、静かな室内に石を投げ入れたように、瞬く間に波紋を広げた。
リゼリアは思わず眉を跳ね上げた――「王に推挙する?」
世間の者にとっては驚愕すべき提案だろう。だが、彼女の心に最初に浮かんだのは――ただ「馬鹿げている」という感想だった。
この男が王になるなど、一度だって考えたことがない。
世界中が彼の頭に王冠を押しつけようとしたところで、彼はそれを冷たくはねのけるだけだ。
彼女はそっと頭を傾け、視線の端でアッシュをうかがった。
予想通り、彼はただ深く息を吸い込み、無言で窓際の片隅へと歩いていった。
リメアが彼の動きに合わせて頭をもたげ、足元へと寄ってくる。
アッシュはその頭鱗に手を置き、低く、しかしはっきりとした声で言った。
「……お前たちは、何もわかってない。俺が望んでいるのは、あの子を東へ連れていくことだけだ」
背を向けたままの肩は、緊張のせいでまっすぐに張っている。
言葉は冷たく、鋼のように硬かった。
「王国に戻る気などない。罪を晴らす必要も感じていない。――王になるつもりなんて、最初からないんだ」
フィリシアは黙したまま、彼の背中を見つめていた。
そして、静かに問うた。
「……それでも、アエクセリオン殿の死の真相を、あなたは知りたくないのですか?」
アッシュは一切動かない。その背中はまるで氷の壁のように、問いかけも感情もすべてを拒絶していた。
リゼリアからは彼の表情は見えなかった。ただ、その沈黙が持つ重みと、押し込められた感情が、船室全体に重く漂っていた。
フィリシアはやがて視線を外し、リゼリアに目を向けた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、柔らかくも揺るぎない声で告げた。
「……少し、考えてください」
そう言って、フィリシアは静かに部屋を出ていった。
リゼリアはアッシュの背中を見つめたまま、何かを言おうとしたが、結局一言も発しなかった。
そのまま、彼女も執務室を後にする。ただ一言だけ、フィリシアに声をかける。
「少し、船の中を歩いてきます」
「侍女に同行させます」
フィリシアは頷いた。
扉が閉まると、船室の中は波の音だけが微かに響く静寂に包まれた。
アッシュは依然として背を向けたまま、拳を握りしめていた。
その白くなった指先が、内に押し殺した感情の強さを物語っていた。
やがて、彼の足元からかすかな鳴き声が上がった。
リメアが顔を上げ、銀青色の瞳が灯りに微かに反射する。
その口は動いていなかったが、声はアッシュの意識の中に直接届いた。
【ノアディス……あたしじゃ、足りないと思ってる?】
それは、自信のなさと恐れを押し殺してようやく紡がれた、震えるような声だった。
【アエクセリオンみたいに……一緒に戦えないって、思ってる?】
アッシュはわずかに息を呑んだ。
「ノアディス」と呼ばれたのは、これが初めてだった。
その名前はまるで刃のように、彼の胸を深く切り裂いた。
だが彼はすぐに答えず、ただ額を押さえる。
リメアは静かに彼を見上げ、尻尾を身体に巻きつけながら、さらに言葉を紡ぐ。
【あたし、まだ小さいから……だからって、弱いままでいたくない。
……待ってくれるなら、もっと強くなる】
アッシュは目を伏せ、指先に力がこもる。
胸の奥からこみ上げるものを、押し殺すかのように。
そして、低く絞り出すように言った。
「……そうじゃない」
【……自分を、あいつと比べるな】
リメアは瞬きを一つし、それ以上は何も言わなかった。
ただ、小さく息を吐き、再び彼の足元に身を伏せた。
船室は再び、静寂に包まれる。
波の音だけが、まるで何かを諭すように、ゆるやかに響いていた。




