第40話 竜王を継ぐもの
空気が一気に張りつめた。
リメアは異変を察し、低く警戒音を漏らしながら鱗をふるわせた。朝の光の中で、その体がわずかに震えている。
だがアッシュは、まるで予想していたかのように深いため息をつき、静かに貴族式の礼を取った。
その口調は冷静ながらも、礼を欠かない。
「フィリシア王女。……お久しぶりです。ここで再会するとは思いませんでした。」
フィリシアの視線がかすかに揺れたが、彼女はあくまで王女としての気品を崩さず、同じように一礼した。
「ええ、まさかお姿をこうして拝見できるとは……あの報せを聞いたときは、胸が張り裂けそうでした。……でも、今こうして無事を確認できて、本当に安心しました。」
「……王女?」
リゼリアは呆然と呟き、ようやく目の前の女性の正体を理解する。だがすぐに我に返り、鋭い眼差しでアッシュを見つめた。
「ちょっと待って、帰国って……彼を王国に連れ戻す気なの?」
そしてアッシュを振り返り、詰め寄るように言った。
「……あなた、ずいぶん落ち着いてるじゃない!」
その時、彼女はフィリシアの耳がわずかに赤く染まっていることに気づいた。
リゼリアの心にひっかかるものが走る。
(なによ、なんで私が彼らの関係を問い詰める側になってんのよ。アッシュ、まさか私を騙してた?)
フィリシアは一つ深く息を吸い、瞼を伏せてから静かに告げた。
「この件は……話せば長くなります。出航してから、ゆっくりご説明いたします。」
そう言って、甲板に控えていた侍従たちに一声かけ、自らは踵を返す。
「出航の準備をしてまいります。すべて整いましたら、またお話ししましょう。」
海風に揺れるスカートの裾をなびかせながら、彼女の姿は船尾へと消えていった。
しばしの沈黙の後、リゼリアはアッシュを横目に見やり、どこか意地悪そうな笑みを浮かべた。
「……知り合いだったのね? しかも、けっこう親しげ?」
アッシュは欄干にもたれかかり、変わらず淡々と答えた。
「子供の頃、一度だけ会った。……もし彼女が自分の名を名乗らなければ、気づくこともなかっただろうな。」
「へぇ〜、じゃあ、さっきの演技は無駄だったってこと?」
リゼリアはわざと語尾を伸ばし、手をひらりと広げてしゃがみ込み、リメアの相手をするふりをした。
「せっかく頑張って演じたのに、内心では全部わかってたんじゃん。……最悪。」
アッシュは彼女を見下ろし、いつもの落ち着いた声で静かに言った。
「でも、俺たちは勝負に勝ったかもしれない。……少なくとも、王女は敵ではなさそうだ。」
リゼリアは一瞬目を見開き、顔を上げる。
リメアも首を傾げて、じっとアッシュを見つめた。
だが彼はふたりを見ず、遥か遠くの海を静かに見つめていた。
その瞳の奥は、深く、読み取れない何かを湛えていた。
<もう、海に出るの?>とリメアが尋ねる。
リゼリアは小さくうなずく。
すると銀白の小さな竜は喜んだように彼女の周りを跳ね回り、尾を「パタパタ」と打ち鳴らした。
さっきまでの緊張を、すっかり忘れてしまったようだった。
アッシュはその様子を見て、ふっと口元を緩めた。
その笑みを見逃さなかったリゼリアは、心の中で微かに動揺したが——
何も言わずに、目を伏せて、笑みをそっと瞳の奥にしまい込んだ。
船室の奥にある執務室には、壁に航海図と王国の紋章が掲げられており、
分厚いガラス越しに海の光が差し込み、空間に重厚で冷静な空気を漂わせていた。
フィリシアは執務机の奥に座り、相変わらず落ち着いた表情で言った。
「私たちはまず、セラウィン国に戻ります。航路はおよそ一週間。」
アッシュの視線は冷たく鋭く走り、その言葉は淡々としていながらも核心を突いていた。
「セラウィンと王国の関係を考えれば、王女であるお前が『反逆者』を助けるのは……立場に響くんじゃないか?」
フィリシアは逆にわずかに微笑み、しかしその声音は揺るがなかった。
「だからこそ、あなたを助けなければならないのです——あなたの『反逆』の罪を晴らすために。」
アッシュはしばし沈黙し、指先を足元のリメアへと落としながら、低い声で尋ねた。
「証拠はここにある。……お前はどうするつもりだ?」
フィリシアは銀白の竜を見つめ、一瞬だけその目に優しさが浮かんだが、すぐに冷静な光を取り戻した。
「第七王子にかけられた罪は、『竜王を暗殺し、竜王の秘宝を奪った』というものです。
……でも、その『秘宝』とは、竜王の卵ではなく——『すべての竜族を従わせる宝』だった可能性がある。」
アッシュは一瞬言葉を失い、眉をひそめた。
「すべての竜を従わせる宝? そんな話、初耳だ。……そもそも、そんな物が本当に?」
「全ての竜をまとめるのって、そもそも竜王の役目じゃないの?」
リゼリアが口を挟んだ。疑念を隠さない声だった。
フィリシアは静かに息を吸い込み、ゆっくりと語り始めた。
「千年前、竜族と人族の間で『霊火災戦争』が勃発し、世界は滅亡寸前まで追い込まれました。
最後に、人族の始祖と聖女が竜王と契約を交わし、両種族の力を《共律封印》によって束縛したのです。
その時から、この封印は王国の建国の礎となりました。」
その声には、深い余韻が宿っていた。
「それ以来——竜王に選ばれた者が、王国の王となるのです。」
リゼリアは眉をひそめ、皮肉を交えた調子で言う。
「つまり、『竜王の名を継ぐ者』が王になるってこと? なら次の王はノアディス王子で決まりだったんじゃないの? じゃあ今は?」
アッシュは首を横に振り、欠伸をしているリメアに視線を落としながら淡々と言った。
「今までは、確かに竜王は王国の第一王子を選び続けてきた。でも……今回は違った。竜王は——選ばなかった。そして、死んだ。」
フィリシアの目が鋭くなり、声を潜める。
「だからこそ、王位継承は混迷を極めている。
……そこで、『竜王に代わり、竜族を従わせる』という伝説の遺物が持ち出された。
民を納得させるための方便かもしれませんが……それは実在するのです。
そして——その遺物は、今あなたの手にある。」
「リメアじゃなくて?」
リゼリアは疑わしげにフィリシアを見た。




