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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第四章:セラウィンへの旅路

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第39話 波の向こうにあるもの

 朝の海風はほのかな塩の香りを含み、舷窓を通して船室へと忍び込んできた。遠くからはロープの擦れる音と船鐘の響きが聞こえ、まるで港の新たな一日を告げるリズムのようだった。


 アッシュが目を覚ました時、船は潮の流れに合わせてわずかに揺れていた。すぐそばには規則的な呼吸——リメアが丸くなって眠っており、尾が時おりベッドの端をゆるく撫でていた。


 アッシュは無意識に手を伸ばし、胸元のバッグに触れる。箱と他の道具が無事にあることを確認すると、ようやく上体を起こした。


 向かいのベッドでは、リゼリアが鏡の前に座り、銀の櫛で淡い紫の巻き髪をゆっくりとすいていた。船の揺れに合わせるように、髪がふわりと波打つ。


 鏡越しにアッシュをちらりと見たが、声をかける様子はなく、髪先をそっとまとめ、肩の前に流した。


 アッシュはベッドから降り、絨毯の上に足をつける。その足音は完全に吸い込まれ、外からかすかに聞こえる波音と甲板の命令声だけが、朝の空気に緊張感を残していた。


 ほどなくして、昨夜と同じ給仕が扉をノックした。

「お二人様、フィリシア様がお呼びです。」


 給仕に案内され、狭い通路を抜けて外に出ると、海風が一気に頬を撫でてきた。甲板は朝の光を受けて湿った木肌を光らせ、帆は風を受けてばたばたと音を立て、水夫たちが貨箱を運び、ロープを引いていた。


 フィリシアは船の中央に立ち、背後には高く掲げられた二つの旗——王国の金の竜翼とセラウィンの青銀の海鳥がたなびいている。


 昨夜と同じ、簡素ながらも上品なドレスをまとい、金髪は海風に揺れながらも、彼女の立ち姿はこの甲板の一部であるかのように自然だった。


 彼女は近づいてきた二人を見ると、軽くうなずき、礼儀正しい口調で口を開いた。

「少し遅れてしまいましたが、まずは自己紹介を。私はフィリシア、王国とセラウィンの合同使節団の者です。」


 その視線が自然に二人へ向けられる。

「お二人は、どうお呼びすれば?」


 リゼリアはアッシュを一瞥し、彼が静かにうなずいたのを確認してから、微笑んで答えた。

「私はリゼリア、こちらはアッシュ。そして——この子はアルビノのロングスロートリザード、リメアです。」


 リメアはアッシュの足元に伏せており、見慣れない環境にやや警戒を見せつつも、銀青の瞳で海とマストをじっと見回していた。


 フィリシアは小さくうなずき、ふたりの間に視線をとどめながら、礼儀を崩さず問いかけた。

「お二人の……ご関係は?」


 「夫婦です。」

 リゼリアは即答し、さらに付け加えた。

「このリザードを連れて、珍しい魔物を探しながら旅をしています。」


 フィリシアの唇がほんのわずかに動き、眼差しに微かな波が走った。

「夫婦……」


 貴族の作法として、客人の私生活に深く立ち入るべきではない。だが、その視線はどうしても二人の間に留まってしまう。


 「旅の日々は……自由で素敵なのでしょう?」

 彼女の口調はあくまで柔らかく、何気ない会話のように聞こえるが、実のところ探りの一手だった。


 「ええ、不便なことも多いですが、それも含めて楽しいです。」

 リゼリアは軽く笑ってそう答えながら、アッシュの腕に手を添えて甘えるような仕草を見せる。


 ——「明日はお前の出番だ」と言ってたのって、こういうことだったのね。

 心の中で苦笑しながら、リゼリアの唇には意味ありげな笑みが浮かんだ。


 フィリシアの表情から、ふっと探るような色が消え、目線を港の方へと戻す。

 そして、口調を少し変えて、さらりと話題を切り替えた。


「昨夜の港……思っていた以上に複雑でした。今、あらゆる勢力があなた方を探しています。」


 「私たちを?どうしてでしょう?」

 リゼリアは目をぱちくりさせ、まるで何も知らない旅人のように問い返した。


 甲板では水夫たちが忙しなくロープを巻き、帆の調整を行っていた。重い木箱は次々と甲板に運ばれ、滑車で船倉へと降ろされていく。マストの点検、積み荷の確認——号令と足音が入り混じり、空気には出航前特有の緊張と秩序が漂っていた。


 アッシュは黙っていたが、ついにリゼリアの手をそっと払い、フィリシアに向き直る。


 「……目的は、その箱だろう?」

 彼の声は冷たく、余計な言葉を挟まない。


 フィリシアは視線を戻し、彼と目を合わせたまま、すぐには答えなかった。

 その時、側近の護衛が近づき、小声で彼女に報告する。


「フィリシア様、出航の準備が整いました。いつでも出発できます。」


 フィリシアは静かにうなずき、変わらぬ落ち着きを保ったまま、何も言わなかった。


 リゼリアの心がざわつき、思わず問いかけてしまう。

「……じゃあ、私たち、降りた方がいいんですか?」


 フィリシアの表情がわずかに陰りを見せたが、声色は相変わらず穏やかだった。


「申し訳ありませんが……お二人には、この船を降りていただくことはできません。——ノアさま、どうか私と共に王国へお戻りください。」


「ノア……?」

 リゼリアは一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を引き締め、皮肉げに眉を上げて笑った。


「なるほど、最初から知ってたってわけね? さっきまでよくも白々しく……」

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