第38話 封鎖された甲板の下で
護衛たちはすぐに道を開け、貨箱の積まれた狭い通路を抜けていく。
波の音が足元に近づくにつれて、港の喧騒が遠ざかっていった。
王国の金の竜翼旗とセラウィンの青銀の海鳥旗を掲げた船が、魔導灯をともして桟橋に静かに停泊している。甲板も舷梯も、灯りではっきりと浮かび上がっていた。
アッシュの視線は船首と周囲を素早く走った。巡検隊も港の作業員も、護衛と旗の示す権威によって外縁に押しとどめられている。この一帯に、海風を裂くような「入ってはならぬ」境界線が引かれているのがわかる。
甲板に足を踏み入れると、潮の香りに焦げたタールとロープの匂いが混ざり合い、一気に鼻をついた。護衛は彼らを導いて船内へ。柔らかな明かりが揺れる通路は、外の混乱をまるで嘘のように閉ざしていた。
フィリシアは歩みを止めて振り返り、落ち着いた声で言う。
「ここはしばらく安全よ。今夜は船で休んで。状況が落ち着いてから、行き先を決めましょう。」
アッシュは彼女の顔に視線を留め、冷静な口調で問う。
「なぜ俺たちを助ける?」
フィリシアはすぐに答えず、風で乱れた金の髪を指先で耳にかけ、静かに言った。
「港にこれ以上の騒ぎは不要だし……私の船を揉め事に巻き込みたくないだけよ。」
彼女の視線がリメアを掠め、口元にほんの少し笑みが浮かんだ。
「特に──竜が一匹。制御を失えば、どこの国にとっても頭痛の種になるわ。」
リゼリアは眉を上げ、笑みと探るような視線をアッシュに向けた。
「このお嬢さん、ただの助け舟ってわけじゃなさそうね。」
アッシュは何も答えず、懐の箱をより深く押し込んだ。まるで、次の一手を測るかのように。
フィリシアはそれ以上多くを語らず、ただ護衛に命じた。
「彼らを客室へ案内して。」
「かしこまりました。」
護衛たちはすぐに動き、三人を船の奥へと導く。
揺れる灯火が長い廊下に影を落とし、船体を通して聞こえる波の音は、静かに、けれど確かに打ち続けていた。
それはまるで──この夜が決して穏やかには終わらないと告げているかのようだった。
客室の扉が背後で閉まり、外の足音は次第に遠ざかっていった。壁の木材には柔らかな灯りが映り込み、港の喧騒とは隔絶された別世界のようだった。
船体は穏やかな波に揺られ、時折、ロープが擦れる音とマストの低い唸りが微かに響く。
リメアは部屋の隅に身を縮め、尻尾をゆっくりと動かしながら、警戒心を露わにして辺りを見回していた。
それを見たリゼリアは少し笑い、からかうように首を傾けた。
「大きな船に乗りたいって、あんなに騒いでたのに?今はすっかり縮こまってるわね。」
リメアは小さく鳴いた。
<てっきり、上で海風に吹かれながらのんびりするのかと思ってた……でもこれじゃ、閉じ込められたみたい。>
アッシュはその意味がわからず、横目でリゼリアを見る。
「なんて言ってる?」
「閉じ込められた気分だってさ。」リゼリアは口元をゆるめ、くすりと笑った。
「閉じ込められた、ね……」
アッシュは淡々とつぶやき、視線を固く閉ざされた客室の扉に向けた。その声には、何かを探るような含みがあった。
部屋の明かりは穏やかだったが、窓はなく、厚い木の壁が外の音を遮っている。時折聞こえる足音は、まるで巡回しているかのように規則的だった。
アッシュの視線は、壁の隅にある通風口に向かう。それは一見適当につけられたように見えるが、人が這って通れる程度の大きさがある。しかし、その先はおそらく海だ。
リメアは壁際にぴたりと身を寄せ、鼻先を小さく震わせる。海水とタールの匂いに混じって、金属と薬草のような匂いが微かに漂っていた。尻尾がゆっくりと、重く床を叩く。
耳びれがわずかに開き、水と木の壁を通して遠くの声を拾っているようだった。内容までは聞き取れないが、沈んだ緊張感が音ににじんでいる。
「今の状況、どう見る?」リゼリアが後ろを振り返りながら訊いた。
アッシュは壁に体を預けたまま、落ち着いた口調で答える。
「俺たちは王国の商船に乗っている。フィリシアの立場はまだ見えない。……俺をそのまま送り返す可能性もある。」
「逃げるなら今のうちじゃない?」リゼリアが眉を上げる。
「今逃げたところで、どこへ行く?」アッシュは首を横に振った。
「縛られてないってことは、まだ交渉の余地があるってことだ。お前は少し休め。」
「ずいぶん冷静ね。……フィリシアを知ってるから?」リゼリアはじっと彼を見つめ、探るように言った。
アッシュはその問いに正面から答えず、装備を外し、上着を脱いで、そのまま休む体勢に入った。
「だからこそ、落ち着いていられるの?」リゼリアはさらに追い打ちをかける。
「状況を見て判断しているだけだ。」アッシュの口調は淡々としていた。
その時、給仕が食事を運んできた。フィリシア様のご配慮だと伝えられ、今夜はここでゆっくり休むようにとのことだった。彼女は明朝、改めて面会すると。
給仕が出て行くと、リゼリアは声を潜めて言った。
「手際が良すぎる……まるで最初から準備してたみたい。」
アッシュは木箱をそっと横に置いた。
「それも、この箱が目当てなら、奪えば済む話だ。わざわざ俺たちを残す必要はない。」
【これ、食べていい?】
リメアは持ってこられた肉の匂いを嗅ぎながら訊いた。
「ああ、食べていい。」アッシュは変わらぬ調子で答えた。
リゼリアは彼をじっと見て、半分笑いながら言った。
「彼女、リメアが“竜”だってことも知ってたのよ?それなのに、まったく警戒しないあなたの方が不自然だわ。」
「不自然か?」アッシュはさらりと返し、野菜と果物の皿を彼女の前に押し出した。
「食べろ。食べたら早く休め。明日はお前の出番だ。」
リゼリアは唇の端をわずかに動かしたが、結局黙って皿を受け取った。
部屋には、ナイフとフォークが皿を軽く叩く音だけが残り、波の音が船体を通して低く響いていた——まるで、明日に訪れる新たな波を予告しているかのように。




