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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第三章:中立港都市カスティア

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第36話 封鎖の影

 アッシュたちは東の波止場を抜け、「霧灯」茶館へと向かった。

 巡検隊の検問所を通り過ぎるとき、アッシュは数本の視線が自分の背中に突き刺さるのをはっきり感じた。だが、誰も声をかけてくる者はいなかった。


 角を曲がったところで、アッシュはふと足を止めた。

 そしてリゼリアに向かって静かに言った。


「リメアを連れて裏通りで待っててくれ。」


 リゼリアは問い返すことなく、片眉を上げて頷いた。

 代わりに、リメアが顔を上げてまばたきしながら尋ねた。

【どうして?】


「……この件は、ますます厄介になってきた。」

 アッシュは低く、淡々とした口調で続けたが、その声には拒否できない力がこもっていた。

「もし俺がしばらく戻らなかったら、安全な場所を探して身を隠せ。」


 リゼリアは口元にわずかな笑みを浮かべながら、手綱を取った。

「じゃあ、なにか美味しいものでも探してみようか。」


 リメアは不満そうな顔を見せたが、されるがままリゼリアに引かれて路地の奥へと消えていった。


 アッシュは彼女たちの背を見送ったあと、再び前を向いて歩き出す。



 茶館の扉を押し開けた瞬間、馴染みのある香辛料と湿った木の香りが鼻を突いた。

 カヴィは壁際の席に座り、髭面の商人と何やら低声で話していたが、アッシュの姿を見つけると、潮の満ち引きのように自然な笑みを浮かべた。


「おや? またすぐに来てくれるとはね。」

 彼は手で空席を示しながら言う。

「それとも……あの道を進む覚悟ができたのか?」


 アッシュは黙って椅子を引き、動きに無駄なく腰を下ろした。

 そして、布に包まれた木箱を机の上に置いた。


「これはヘルンの持ち物だ。お前なら、開け方を知ってるはずだ。」


 カヴィの視線がゆっくりと布の上に落ちる。

 その笑みは、何かが刺激されたかのように深まった。

「もう試してみたのか?」


 アッシュは否定せず、ただ一言。

「魔力を注いでも反応しない。」


「じゃあ、俺にはどうにもできないな。」

 カヴィは両手を広げ、どこか誠実そうな口調で続けた。

「魔導器に詳しいわけじゃない。ただ……ある種のものは、十分な魔力を与え続ければ、そのうち勝手に開くこともある。もっとも、代償は……自分で判断してくれ。」


 アッシュはその言葉には乗らず、話題を切り替えた。

「ブレグのことを調べた。どうやら……ただの使い走りだったみたいだな。」


 カヴィは軽く眉を上げ、気にした様子もなく答える。

「確かに。彼はここの人間じゃない。」


 アッシュはしばし黙し、目を伏せた。

「……さっき、お前は『ヘルンに知らせに行く』って言ったな。それ、嘘だろ。お前、あいつらのことなんか知らない。」


 カヴィはふっと笑い、まるでこのやり取りを楽しんでいるようだった。

「さあ、どうかな?」


 その時だった。

 茶館の外から、規則的な靴音と金属のぶつかる音が響いてきた。波のように押し寄せてくる気配。外から誰かが怒鳴った。


「巡検隊だ! 封鎖検査!」


 カヴィの顔色は変わらず、ただ後ろの扉を指差しながら、他人事のように言った。

「行け。ここは俺がなんとかする。」


 アッシュは箱の上に手を置き、立ち上がる動作の中で素早くそれを懐に戻した。

 厚布越しに指先へ伝わる微かな熱に、彼の眉間がわずかに寄る。だが、足は止めなかった。


 テーブルを回り込み、厨房へと続く半開きの扉を押す。

 湯気と煮込みの香りが漂う中、数人の店員が忙しなく調理を続けていた。アッシュに気づいた者もいたが、一瞬だけ興味深げに目をやったあと、またすぐに作業へ戻っていった。


 裏口を出ると、そこは湿った石畳の細い路地だった。

 苔むした壁に潮風が流れ込み、遠くからは巡検隊の足音と装備の音が微かに響いていた。


 その影の中に、リゼリアとリメアの姿があった。

 リゼリアは手綱を握り、別の路地から回り込んできたばかりのようだった。顔は落ち着いていたが、その奥に潜む警戒の色は隠しきれなかった。


「思ったより早かったわね。」

 彼女は淡々と言いながら、アッシュの腕に視線をやる。

「でも、ちゃんと持ってるみたいね。」


「行くぞ。」

 アッシュは短く返し、その目はすでに彼女の肩越し、路地の奥の闇へと向いていた。


 三人は路地を抜けて港の大通りの裏手へと出た。

 巡検隊の封鎖線をうまく避け、夜の帳が下りかける港を見渡す。


 商船の旗と灯りが遠くに揺れていた。

 港全体が、徐々に締め上げられる網のように見えた。


 ――その網が完全に締まる前に、抜け道を見つけねばならない。

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