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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第三章:中立港都市カスティア

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第35話 市の声

 通りは人の声と雑踏であふれていた。

 アッシュはリメアの手綱を軽く引きながら歩いていたが、ふと気づくとリメアが干物の屋台をじっと見つめ、よだれを垂らしていた。

 気を取られた隙に、リゼリアの姿が見えなくなっていた。


 振り返ると、彼女は古びた木箱の横でしゃがみ込み、顔に風雪の跡が残る魚売りの老人と世間話をしていた。

 その手には、いつの間にか塩漬けのニシンの包みが一袋握られている。


 彼女はまるで目に見えない糸の上を歩くように、人ごみの中を屋台から屋台へと渡っていく。

 どの店でも店主や客と気さくに話し、いつの間にか情報を引き出していた。


 新鮮な海産物の話から、港の巡回検査の様子、そしてこの数日に起きた奇妙な出来事まで——。


 ある荷運びの男が声をひそめて言った。

「十日ほど前に、港で誰かが死んだ。組合の男で、船の使いっ走りをしてた……名前は思い出せねぇが、どうやらよそ者だったらしい。」


 だが、すぐそばの別の男が否定する。

「馬鹿言え、二日前に東港でそいつを見かけたぞ。誰かと話してた。」


 食い違う噂が交差し、どれが真実かは分からない。


 少し離れたところで、アッシュは無言のまま彼女を見ていた。

 見知らぬ群衆の中でも、まるで魚が水を得たように会話を操る姿は、まさに生まれついての情報屋のようだった。


 街角まで来たとき、一つの小さな露店が目に入った。

 白髭の老人が木製の数珠や鉄製の十字架を並べている。どれも北方教国でよく見られる祈りの道具だった。


 老人は通りかかる人に笑顔で言う。

「聖女があなたの旅路をお守りくださいますように。」


 だが、リゼリアに視線が向いた瞬間、その笑顔がぴたりと止まった。

 まるで何かに打たれたかのように、驚愕と困惑がその目に浮かぶ。


「……」

 口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。

 ただ、黙ったまま、彼女を見つめ続ける。


 リゼリアは表情を変えずに老人の差し出した数珠を受け取り、淡々と口を開く。

「ありがと、おじいさん。」


 老人はしばし躊躇し、ようやく小さく口を開いた。

「……聖女の加護が、あなたにありますように……」


 リゼリアはわずかに笑みを浮かべ、そのまま歩き出した。

 数歩進んだところで、彼女はアッシュとリメアのもとに戻り、数珠と一袋のドライフルーツをアッシュの胸に押し付ける。


「保存食、確保完了。それとね、面白い話をいくつか聞けたよ。」

 その声は軽く、まるで賭けに勝った時のような陽気さだった。


 アッシュは彼女を横目で見て、淡々と言う。

「……魔女が敬虔な信徒を驚かせた、ってやつか?」


 リゼリアはくすりと笑い、冗談とも本気ともつかない口調で返した。

「北の教国じゃ、聖女は神に等しい存在だからね。竜や魔法はもちろん、魔物使いなんて異端中の異端よ。……驚いたのは、あなたたち二人かもしれないわ。一匹の竜と、一人の魔物使い。」


 アッシュは鼻を鳴らした。

「……情報は十分集まった。歩きながら話せ。」


 リゼリアは素直に彼の隣に並び、歩きながら情報をまとめて口にする。

「そのブレグって人、十日前には死んでたって噂が多いわ。」


 アッシュが顔をわずかに向ける。

「死因は?」


「誰も知らない。」

 リゼリアは肩をすくめる。

「でも、二日前に東港で見たって人もいたわ。……つまり、元々人前に出ない人で、顔を知ってる人も少ない。だから真偽がごちゃまぜになる。」


 彼女の声が少しだけ楽しげに変わる。

「まるであなたみたいね。……王国の第七王子、顔を見たことある人なんて、そう多くないでしょ?」


 アッシュは無言で彼女を横目で見て、何も言わずに前を向いたまま歩き続ける。




 港の大通りに戻ったとき、朝とは空気がまるで違っていた。


 通り沿いには巡検隊が倍近くに増え、陽の光を受けて鉄甲が鈍く輝き、肩にかけられた長柄の槍や火縄銃が鋭い線を描いている。

 数歩おきに通行人が止められ、荷馬車や手押し車は念入りに調べられていた。車輪の下、荷箱の隅々まで、容赦なく。


「……朝より厳しくなってるわね。」

 リゼリアが低く呟いた。


 アッシュの視線は港の方へと流れる。

 王国とセラウィンの二つの旗を掲げた商船は、依然として桟橋に停泊していた。だが、周囲には小舟と検問の哨戒が増え、甲板に立つ人影も減っている。空気はぴんと張り詰めた弦のように緊張していた。


 三人は旅宿へ続く裏路地へと足を踏み入れた。

 喧噪は徐々に背後に遠ざかり、代わりに漂ってきたのは、海風に混じる焦げた油と塩、魚の匂い。


 宿の入口で、主人が神妙な面持ちで近づいてきた。

 小声で言う。

「さっき、巡検隊が来ましてな……見知らぬ者を見たら知らせろって。」


 アッシュの眉がわずかに動き、その目に冷たい光が一瞬走る。


 部屋に戻ってみると、扉の錠は明らかにこじ開けられた痕があり、荷物は無惨に荒らされ、シーツには濡れた靴の跡が残されていた。

 半開きの窓から入り込む海風が、掻き乱された部屋の空気をさらに不穏にする。


 リゼリアはしゃがみ込んで床を確認しながら尋ねた。

「持ち物は?」


「大事なものは全部身につけてる。」

 アッシュは落ち着いた声で答えるが、心の中では安堵していた。箱を置きっぱなしにしなかったことが、今回だけは幸運だったと。


 リゼリアは立ち上がり、宿の主人に報告へ向かう。

 主人は眉をひそめた。


「まさか、巡検隊の仕業ですか? でも、なんであんたらの荷を荒らすような真似を……」

 なおも困惑の色を残しつつ、後で掃除の者を向かわせると言い、主人は去っていった。


 リゼリアの視線が、再び布に包まれた木箱に落ちる。

 その声はわずかに抑え気味だった。


「……あの巡検隊、やっぱりこれを狙ってるのかしら。」


 アッシュはすぐに答えなかった。

 ただ、箱を手元に引き寄せ、その重みを静かに確かめるように抱える。


「いろんな勢力が……これを探してるようだ。」

 そう呟いたあと、彼の表情がぐっと引き締まり、目に冷たい決意が宿った。

「この中身が――守るに値するものかどうか、俺自身で確かめる必要がある。」


 その声には、騎士のような浪漫など微塵もなかった。

 あるのは、冷静で現実的な判断だけだ。


 そしてアッシュは顔を上げ、リゼリアに言った。

「……カヴィのところへ行く。」

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