第35話 市の声
通りは人の声と雑踏であふれていた。
アッシュはリメアの手綱を軽く引きながら歩いていたが、ふと気づくとリメアが干物の屋台をじっと見つめ、よだれを垂らしていた。
気を取られた隙に、リゼリアの姿が見えなくなっていた。
振り返ると、彼女は古びた木箱の横でしゃがみ込み、顔に風雪の跡が残る魚売りの老人と世間話をしていた。
その手には、いつの間にか塩漬けのニシンの包みが一袋握られている。
彼女はまるで目に見えない糸の上を歩くように、人ごみの中を屋台から屋台へと渡っていく。
どの店でも店主や客と気さくに話し、いつの間にか情報を引き出していた。
新鮮な海産物の話から、港の巡回検査の様子、そしてこの数日に起きた奇妙な出来事まで——。
ある荷運びの男が声をひそめて言った。
「十日ほど前に、港で誰かが死んだ。組合の男で、船の使いっ走りをしてた……名前は思い出せねぇが、どうやらよそ者だったらしい。」
だが、すぐそばの別の男が否定する。
「馬鹿言え、二日前に東港でそいつを見かけたぞ。誰かと話してた。」
食い違う噂が交差し、どれが真実かは分からない。
少し離れたところで、アッシュは無言のまま彼女を見ていた。
見知らぬ群衆の中でも、まるで魚が水を得たように会話を操る姿は、まさに生まれついての情報屋のようだった。
街角まで来たとき、一つの小さな露店が目に入った。
白髭の老人が木製の数珠や鉄製の十字架を並べている。どれも北方教国でよく見られる祈りの道具だった。
老人は通りかかる人に笑顔で言う。
「聖女があなたの旅路をお守りくださいますように。」
だが、リゼリアに視線が向いた瞬間、その笑顔がぴたりと止まった。
まるで何かに打たれたかのように、驚愕と困惑がその目に浮かぶ。
「……」
口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。
ただ、黙ったまま、彼女を見つめ続ける。
リゼリアは表情を変えずに老人の差し出した数珠を受け取り、淡々と口を開く。
「ありがと、おじいさん。」
老人はしばし躊躇し、ようやく小さく口を開いた。
「……聖女の加護が、あなたにありますように……」
リゼリアはわずかに笑みを浮かべ、そのまま歩き出した。
数歩進んだところで、彼女はアッシュとリメアのもとに戻り、数珠と一袋のドライフルーツをアッシュの胸に押し付ける。
「保存食、確保完了。それとね、面白い話をいくつか聞けたよ。」
その声は軽く、まるで賭けに勝った時のような陽気さだった。
アッシュは彼女を横目で見て、淡々と言う。
「……魔女が敬虔な信徒を驚かせた、ってやつか?」
リゼリアはくすりと笑い、冗談とも本気ともつかない口調で返した。
「北の教国じゃ、聖女は神に等しい存在だからね。竜や魔法はもちろん、魔物使いなんて異端中の異端よ。……驚いたのは、あなたたち二人かもしれないわ。一匹の竜と、一人の魔物使い。」
アッシュは鼻を鳴らした。
「……情報は十分集まった。歩きながら話せ。」
リゼリアは素直に彼の隣に並び、歩きながら情報をまとめて口にする。
「そのブレグって人、十日前には死んでたって噂が多いわ。」
アッシュが顔をわずかに向ける。
「死因は?」
「誰も知らない。」
リゼリアは肩をすくめる。
「でも、二日前に東港で見たって人もいたわ。……つまり、元々人前に出ない人で、顔を知ってる人も少ない。だから真偽がごちゃまぜになる。」
彼女の声が少しだけ楽しげに変わる。
「まるであなたみたいね。……王国の第七王子、顔を見たことある人なんて、そう多くないでしょ?」
アッシュは無言で彼女を横目で見て、何も言わずに前を向いたまま歩き続ける。
港の大通りに戻ったとき、朝とは空気がまるで違っていた。
通り沿いには巡検隊が倍近くに増え、陽の光を受けて鉄甲が鈍く輝き、肩にかけられた長柄の槍や火縄銃が鋭い線を描いている。
数歩おきに通行人が止められ、荷馬車や手押し車は念入りに調べられていた。車輪の下、荷箱の隅々まで、容赦なく。
「……朝より厳しくなってるわね。」
リゼリアが低く呟いた。
アッシュの視線は港の方へと流れる。
王国とセラウィンの二つの旗を掲げた商船は、依然として桟橋に停泊していた。だが、周囲には小舟と検問の哨戒が増え、甲板に立つ人影も減っている。空気はぴんと張り詰めた弦のように緊張していた。
三人は旅宿へ続く裏路地へと足を踏み入れた。
喧噪は徐々に背後に遠ざかり、代わりに漂ってきたのは、海風に混じる焦げた油と塩、魚の匂い。
宿の入口で、主人が神妙な面持ちで近づいてきた。
小声で言う。
「さっき、巡検隊が来ましてな……見知らぬ者を見たら知らせろって。」
アッシュの眉がわずかに動き、その目に冷たい光が一瞬走る。
部屋に戻ってみると、扉の錠は明らかにこじ開けられた痕があり、荷物は無惨に荒らされ、シーツには濡れた靴の跡が残されていた。
半開きの窓から入り込む海風が、掻き乱された部屋の空気をさらに不穏にする。
リゼリアはしゃがみ込んで床を確認しながら尋ねた。
「持ち物は?」
「大事なものは全部身につけてる。」
アッシュは落ち着いた声で答えるが、心の中では安堵していた。箱を置きっぱなしにしなかったことが、今回だけは幸運だったと。
リゼリアは立ち上がり、宿の主人に報告へ向かう。
主人は眉をひそめた。
「まさか、巡検隊の仕業ですか? でも、なんであんたらの荷を荒らすような真似を……」
なおも困惑の色を残しつつ、後で掃除の者を向かわせると言い、主人は去っていった。
リゼリアの視線が、再び布に包まれた木箱に落ちる。
その声はわずかに抑え気味だった。
「……あの巡検隊、やっぱりこれを狙ってるのかしら。」
アッシュはすぐに答えなかった。
ただ、箱を手元に引き寄せ、その重みを静かに確かめるように抱える。
「いろんな勢力が……これを探してるようだ。」
そう呟いたあと、彼の表情がぐっと引き締まり、目に冷たい決意が宿った。
「この中身が――守るに値するものかどうか、俺自身で確かめる必要がある。」
その声には、騎士のような浪漫など微塵もなかった。
あるのは、冷静で現実的な判断だけだ。
そしてアッシュは顔を上げ、リゼリアに言った。
「……カヴィのところへ行く。」




