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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第三章:中立港都市カスティア

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第33話 塩の風、重なる呼吸

 茶館を出た時には、すでに夕暮れの色が街を包み始めていた。

 湿った石畳の上を歩いていた。港から吹く潮混じりの風は、タールの匂いを運び、遠くで鳴る船鐘の音が港の喧騒を急かすように響いていた。


 積み上げられた木箱の列を回り込んだ時、アッシュの目が自然と止まった。

 セラウィンの蒼銀の海鳥旗と、王国の金色の竜翼旗――その両方を掲げた大型商船が、ちょうど荷物の積み下ろしをしていた。


 船のそばでは、金髪の少女が数名の商人と共に積荷リストを確認している。

 動きやすい実用的な服装ではあったが、襟や袖口には繊細な銀糸で海鳥と波の模様が施され、上質な生地は彼女の身分を物語っていた。


 リゼリアも視線をその先に向け、からかうように口を開いた。

「さっきカヴィが言ってたわね、国の船がどうとかって。……見覚えのある顔でもいた? そんな堂々と王国の船の前を通って、怖くないの?」


 アッシュは視線を戻し、淡々と答える。


「この手の船は、通常セラウィン側が運営している。王国の人間が直接乗っていることは少ない。通り過ぎるだけなら問題ない。」


 「ふうん……でもあの子、結構なお嬢さんって感じね。いっそ誘拐して身代金でも取ってみる? それで船に乗せてもらえるかもよ?」

 リゼリアの口ぶりは冗談めいていた。


 アッシュの視線は再び少女の方へと一瞬向けられた。

 柔らかな顔立ちに宿る芯の強さ、海風になびく金色の長髪――だが彼の目はすぐに逸らされた。


 リメアはその大型船に完全に目を奪われていた。


 瞳を輝かせ、尾を軽く左右に振りながら、<乗りたい!> と興奮気味に龍語で騒いでいる。


 その声に気づいたのか、金髪の少女がふと顔を上げ、こちらに視線を向けた。

 澄んだ海のような青い瞳に、一瞬の驚きが走る。


「……竜?」




 しばらくして、三人は一本の枝葉が茂った大きな塩樹の下にたどり着いた。


 『塩の樹亭』と書かれた看板が風に揺れ、軒先からはぼんやりとした灯りと酒の匂い、そして低く交わされる会話の声が漏れていた。

 宿の主人は親切に対応してくれ、二人用の部屋を用意してくれた。


 部屋の扉を開けると、窓からは夕陽が差し込み、室内に柔らかな橙の光が広がる。

 遠くから風に乗って、港の鐘の音が微かに聞こえ、塩の香りと炭の匂いが漂っていた。

 部屋には小さな暖炉があり、壁には乾燥させたハーブの束がいくつか掛けられていた。


 リメアは整えられたベッドを見るなり目を輝かせ、尾をぱたぱたと振ってはしゃいでいた。


 アッシュは荷物を脇に置き、マントをベッド脇に掛けると、暖炉の前に立った。

 手をかざし、低く呪文を唱えると、炉の中に火がパチリと灯った。


「魔法って、やっぱり便利ね。」

 リゼリアは炎を見つめながら微笑む。


「使えないのか?」アッシュが横目で尋ねる。


「魔力がないの。だから使えないわ。」

 リゼリアの声は淡々としていた。


 アッシュは小さく口角を上げ、からかうように言った。

「魔女のくせに。」


 だがふと何かを思い出したように続けた。

「でも、お前の歌……あれは魔力によるものじゃないのか?」


 リゼリアは眉を軽く動かしただけで、答えなかった。

 アッシュは視線を戻す。


「俺が使えるのは生活魔法くらいだ。上級魔導師は少ないし、国家にとっては貴重な戦力だ。王国には宮廷魔導顧問が二人しかいない。必要があれば、戦場にも出る。」


「魔導兵器と一緒に?」リゼリアが何気なく尋ねた。


 アッシュはうなずく。

「兵器は安定した魔力供給が必要だ。

 それって……死ぬほど危ないじゃない。魔力が尽きたら、剣で斬られるより早く死ぬ。」


 言葉の後、アッシュの視線は炎に戻る。

「魔導弩砲に連続で魔力を供給していた兵士がいた……最後は担架で運ばれたよ。」


 リゼリアはその話には返さず、彼の目に一瞬浮かんだ影を見逃さなかった。

 それは火の明かりよりも深く重い、戦場の記憶を物語る色だった。


 アッシュはベッドの端に腰を下ろし、どこか疲れた様子だった。


「……疲れてる顔してるわよ。」

 リゼリアが言ったが、アッシュは何も答えなかった。


 彼はそっと、箱を取り出す。

 布を緩めた瞬間、木の表面に刻まれた銀の紋様が脈動するように光り始めた。


 指先にじんわりとした熱が走り、腕を伝って胸元へと吸い込まれていく。

 それは火傷のような熱さではなく、何かが抜き取られる感覚――体の奥から力が吸われるような、奇妙な空虚さだった。


 呼吸が一拍遅れ、視界の端に暗い影が滲む。

 額に冷や汗が流れ、アッシュはかすれた声で言った。


「……これは……魔力を吸ってる……」

 その言葉を最後に、彼はぐらりと倒れ、ベッドに沈んだ。


「アッシュ!」

 リゼリアが駆け寄る。リメアも慌てて彼のそばに駆け寄り、鼻先をアッシュの顔に近づけ、小さく鳴いた。


 リゼリアが額と頬に手を当てると、そこには異常な熱がこもっていた。

 息は浅く重く、胸の奥で何かを抑え込むような苦しげな呼吸だった。


 <アッシュ、どうしたの?>

 リメアが不安そうに尾を動かし、龍語で尋ねた。


「……熱を出してるみたい。」

 リゼリアは平静を保とうとしながらも、アッシュの上着のボタンを外し始める。


 リメアも小さな手で彼の肩を支え、リゼリアが靴と上着を丁寧に脱がせていく。

 その最中、アッシュがうわごとのように呟いた。


「……その手……冷たくて……気持ちいいな……」


 リゼリアは一瞬動きを止め、彼の顔を見つめた。

 その声は意識の底から漏れた、無防備なほど素直な一言だった。


 彼女は何も答えず、わずかに唇を動かしただけだった。

 服を整え、毛布をかけると、リゼリアは静かに言った。


「……水を取ってくるわ。見ていて。」

 リメアはうなずき、リゼリアを見送った。


 扉が静かに閉まり、部屋には暖炉のパチパチという音だけが残る。

 リメアは体を丸め、そっとアッシュの肩にもたれた。

 銀色の鱗が火の光を受けて静かに輝いていた。


 まるで、大切なものを守るように。

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