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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第三章:中立港都市カスティア

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第31話 霧灯の下、密やかな呼吸

 東港は昼間こそ一見すると平凡な港町の一角に過ぎなかった。

 石畳の通りには船修理の工房や網の修繕屋、そして波止場沿いの酒場が並び、倉庫の前には荷造りされた麻袋や木樽が山のように積まれている。


 だが、この一帯に精通した者だけが知っている。——ここには記録されない荷主や仲介人が数多く潜んでいるということを。


 それらは表向きには茶屋や織物店を装い、真の取引は奥の間や二階で密かに交わされるのだった。


 アッシュはリゼリアのあとを黙ってついていく。

 懐に収めた木箱は分厚い布でしっかりと包まれていた。


 リゼリアの足取りは決して急がず、かといってのんびりでもない。まるで散策でもしているかのように見えたが、実際には港の巡検隊の目を巧みに避けて路地を選んでいた。


霧灯むとうはこの先よ。」

 彼女が小声で囁く。「お茶は美味しくないけど、情報は確か。」


 アッシュはちらと彼女を見た。

「……お前、やけに詳しいな。前に、『その人に一、二度会ったことがある』って言ってただろう。」


 リゼリアは口元に薄い笑みを浮かべる。

 その瞳には、どこか戯けた色が混ざっていた。

「ふふ……どうしたの、魔女に興味でも湧いた?」


 アッシュはそれ以上追及せず、視線を戻した。


 リメアは彼らの隣を歩きながら、鼻をくんくんと鳴らし、顔をしかめていた。

 この混ざり合った匂いの街並みに、どうやら不満らしい。


 龍語で小さく愚痴をこぼすと、リゼリアが軽く首元をとんとんと叩き、我慢しなさいと合図を送った。


 しばらく歩くと、路地の角に一軒の茶館が現れた。

 その店先にはくすんだ赤の紙提灯がぶら下がっており、風に揺れて墨書きの文字が微かに読める——《霧灯》。


 扉は半分だけ開いており、潮の匂いに混じって、湿り気を帯びた苦甘い茶の香りが漂っていた。


 リゼリアが扉を押し開くと、中はほの暗く、壁には金で縁取られた海図が数点掛けられている。


 窓際の席には、南方出身と思しき肌に陽を浴びた男が腰掛けていた。

 頭にはターバン、こめかみには銀の簪、耳には円形の金色の耳飾りが揺れている。

 衣には海鳥と波の文様が精緻な刺繍で施されていた。


 彼は扉の音に気づくと、すぐに立ち上がり、浜辺の男特有の明るい笑顔でリゼリアに一礼する。

 そして、軽やかに手を差し出し、席へと招いた。


 アッシュはまず店内を一通り見回す。

 テーブルに低く声を落として話す客たち、隅では店の給仕が無言で茶碗を拭いている。

 誰も彼らに関心を払っていないように見える。


 ようやく、アッシュはテーブルに近づき、立ち止まった。


「……まるで、最初から私たちが来ると知っていたようだな。」

 リゼリアが小声で呟く。


 南方の男は豪快に笑い、少し芝居がかった動作で礼をする。


「カヴィと申します。何の知識もない凡人ですが、情報の匂いだけは、少しだけ鼻が利くんですよ。……まあ、立ったままだと目立ちますから、どうぞお座りを。」


 そう言うと、指で銀貨をつまむような仕草をしながら付け加えた。


「この店にいる人間は皆、心得てますよ。誰が誰を睨もうと、関係ない。見るのは銀貨、聞かぬは恩義。」


 リゼリアは肩をすくめて席につき、アッシュは彼女の反対側で警戒を緩めずに座った。

 視線だけが窓の外を横切っていく。


 <リゼ……ここ、また何か食べられる?>

 リメアがそっと龍語で問いかける。瞳が、期待に輝いていた。


【声を出すな】

 アッシュの心声が、直接リメアの意識に届く。


 リメアはぴくりと耳を動かし、すぐに口を閉じた。


 カヴィはそれを見て、苦笑を浮かべながら言う。

「おやおや、小さなお客様は……どうやらお腹が空いてるご様子。ここの平焼きパンなら、まあまあイケますよ。茶は……我慢すれば飲めなくもない。」


 リゼリアはリメアの頭を撫でながら、穏やかな口調で言った。

「じゃあ、その焼きパンをお願い。子供の機嫌を取るのも、大事な仕事だからね。」


 店の給仕が湯気の立つ茶と焼きパンを運んでくる。

 潮気を帯びた香ばしい茶の香りが、湯気とともに卓上に漂う。


 カヴィはゆっくりと茶碗を持ち上げながら、アッシュとリゼリアを見回し、口元をわずかに上げた。

「今日、東港に来るには……あまり良い日じゃなかったな。」


 アッシュは何も返さず、手元の茶碗をリゼリアの前へとそっと押した。


「それは、どういう意味?」

 リゼリアが軽く微笑みながら茶を受け取る。


「今日はな、荷を探してる奴もいれば、人を探してる奴もいる。」

 カヴィは卓上を指先で軽く叩きながら言った。

「港の一部航路は、臨時で封鎖されたって話だ。」


 アッシュの眉がわずかに動く。

「いつまで封鎖される?」


「運次第だな。」

 カヴィは肩をすくめる。「一、二日で済むこともあるし……」

 語尾をぼかしながら、それ以上は言わなかった。


「私たちが知っておくべきこと、他にもあるかしら?」

 リゼリアが視線を軽く流しながら聞く。


「そうだな……」

 カヴィの視線が、アッシュの懐に収められた厚布の上を一瞬かすめ、すぐに何事もなかったかのように引き戻された。


「急ぎの旅なら、他に手段がないわけじゃない。ただ……その道の代価は、誰にでも払えるものじゃない。」


〈たべたい……〉

 リメアが小さく龍語で呟く。


 アッシュの視線が即座にリメアに向き、先ほどよりも冷たく鋭い目つきで無言の警告を送る。


 リゼリアが苦笑しながら場を和ませるように言った。

「もう一皿、お願いね。」


 カヴィはそのやり取りを眺めながら、ゆるく笑って言う。

「そんな目をするなよ。その顔——手配書そっくりだぜ。」


 アッシュは再び彼に視線を向ける。

 その声は静かで冷ややか、だが鋭かった。


「……俺が誰か分かってるなら、金が欲しければ素直に通報しろ。まわりくどい真似はやめろ。何が目的だ?」


 カヴィはそれを聞いて笑い声を漏らす。

 その笑みには、見透かすような気配が混じっていた。


「金が目当てなら、とっくに懸賞金を取りに行ってるさ。けど、賞金ってのは一度きりで終わるものだ。」


 彼は茶碗をそっと置き、まるで雑談のような軽い口調で続けた。


「今日の封鎖はな、地元の人間ですら理由を掴みきれてない。名目上は『定期検査』だが、実際はな……船がまだ港に着く前から、誰かが貨物リストを探ってたらしい。」


 アッシュの眉がほんのわずかに動くが、言葉は挟まない。


「君が出航したいなら、まずは誰が何を狙ってるのかを知ることだ。そうでなきゃ、船を変えても同じことになるかもしれない。」


 カヴィの言葉が一瞬途切れ、再び笑みが浮かぶ。


「で、俺が欲しいものは――君がこの道を選ぶと決めた時に教えるよ。」

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