第30話 交差する視線、閉ざされた港
潮の匂いとタールの香りが入り混じった風が、横道から吹き込んできた。
アッシュの視線が微かに動き、目の端に写ったのは——
さっきの酒場の男たちが、群衆から距離を取って、だが確かにこちらを尾行している姿だった。
彼は表情を変えず、歩調も乱さない。
やがて、港湾へと続く裏通りに差し掛かったところで、二人のうちの一人が一歩早く前に出て、にこやかに話しかけてきた。
「やあ、旅行者だね? 港は初めてかい?」
アッシュはちらりと視線を向け、素っ気なく頷いた。
「こっちにはいい店がいくつかあるんだ。案内しようか?」
「結構だ。」
アッシュの返答は冷ややかで短い。
もう一人の男がしゃがみ込み、リメアを覗き込んだ。
「へえ、こいつは珍しいな。どこで買った?」
リメアは反射的にアッシュの方へ一歩近づいた。尾の先がぴくりと緊張する。
アッシュは無言で一歩前に出て、彼女と男の間に体を割り込ませた。
「まあまあ、そんなに構えなくても……」
男は笑いながらも、鋭い視線でアッシュとリゼリアを交互に観察していた。
リゼリアは薄く笑みを浮かべながら、面倒そうに言った。
「急いでるの。道を塞がないで。」
二人の男は顔を見合わせ、無言で横に退いた。
しかしアッシュの耳は、彼らの足音がなおも後方から微かに響いてくるのを捉えていた。
——まだ、ついてきている。
港の午後はさらに混雑していた。
濡れた石畳が船員や商人の足元で光を反射し、潮風が塩とタールの匂いを狭い路地に運んでくる。
アッシュは先頭を歩きながら、ふと誰にも気づかれぬよう目を横に流す。
——酒場の前にいた二人組は、いつの間にか別の通りに姿を消していた。
そのまま数十歩進んだとき、突然、前方の雑踏が乱暴に割れた。
三、四人の屈強な男たちが角から飛び出し、周囲の人々を肩で押しのけてまっすぐこちらへと突進してくる。
「そいつらだ!」
先頭の男が怒鳴った。
アッシュは咄嗟にリゼリアとリメアの前に立ち塞がり、敵を見据える。
——着衣は粗野で、腰には短剣や鉄鋲付きの棍棒。靴底には泥がこびりついている。巡検隊の装備ではない。
だが、港の混雑は逃げ道を塞ぐかのように彼らを取り囲んでいた。
魚や麻袋が山積みにされ、人波の中を抜ける余地はほとんどない。
二人の男が左右から回り込み、さらに後方からも迫る気配——完全に囲まれた形だ。
<リゼ、大丈夫?>
リメアが龍語で息を詰めるように囁き、尾をぴんと張る。
アッシュは一瞬の隙を見て、傍らの魚樽を手で押し倒す。
水と銀色の鱗が四方に飛び散り、視界が遮られる。
彼はリメアのハーネスを握りしめ、リゼリアと共に狭い隙間へと身体を滑り込ませた。
「逃がすな!」
背後で怒声と共に、樽の転がる音や商人たちの怒鳴り声が響く。
騒ぎはすぐに巡検隊を呼び寄せた。
甲冑の音と長槍の打ち鳴らす音が遠くから迫ってくる。
人々はざわめき、悲鳴とともに左右に避け始め、「喧嘩だ!」の叫びが飛び交った。
一行が埠頭に近い裏路地へと逃げ込んだ頃、アッシュはようやく足を緩めた。
「知り合いか?」
リゼリアが息を整えつつ問いかける。
「……知らない。」
アッシュは即答するが、その表情には曇りがあった。
リメアは彼の隣で何度も後ろを振り返り、尾が落ち着かない様子で揺れていた。
リゼリアは最後の角を曲がる前に、もう一度だけ後方を振り返る。
——あの酒場で見かけた二人の男が、混雑の向こう側に立っていた。
追ってくる様子はない。まるで、何かを待っているかのように。
裏通りは大通りよりも冷え込み、潮が打ち寄せる音だけが微かに聞こえていた。
リゼリアは壁にもたれ、目だけを動かして路地の入口を警戒する。
「さっきの奴ら、あれ……あなたを捕まえに来たわけじゃなさそうね。」
声を潜めつつ言った。「目的は何だったの?」
アッシュは懐に手を入れ、木箱に触れた。
「まだ渡してないのね?」
リゼリアの目が細くなる。
「怪しかった。」
アッシュは淡々と答える。
その言葉に、リゼリアはわずかに目を見開き、唇に笑みを浮かべた。
「意外ね。あなたって、普段はそういう面倒事を避ける主義だったでしょう? 箱渡して船の券だけもらって、延期しようが関係ないって思いそうなのに。」
アッシュは短く黙り、息を吐いた。
「……お前の言う通りかもしれない。」
「さっき酒場で聞いた話だけど、巡検隊が夕方までに港を封鎖するらしいわ。」
リゼリアは一歩近づき、声を落とす。「多分、しばらく正規の船は出ない。」
アッシュは顔を上げる。
「このままじゃ、どこに行ってもまた似たような目に遭うわよ。」
彼女は前髪を耳にかけながら続けた。「……東港へ行ってみない? 『霧灯』って、あの商人が言ってた場所よ。もしかしたら、情報が得られるかも。」




