表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第三章:中立港都市カスティア

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/87

第29話 密談と港の気配

 木造の階段が足元でぎしりと鳴る。アッシュは背後にエールと煙草の匂いを残しながら、二階の扉を押し開けた。


 窓辺には一人の中年男が腰掛けており、港から差し込む光を背にしていた。

 浅い色の粗布の上着を羽織り、袖口には海水とタールの染みが見える。短く刈った髭、隆起した眉骨、そして老練な船乗りのように濁りながらも警戒を孕んだ眼差し——。


「ヘルンの紹介か?」

 アッシュは向かいの椅子を引いて腰を下ろした。


 男は小さく頷くと、肘を机につきながら名乗った。

「ブレグ。ここじゃそう呼ばれてる。」


 アッシュは懐からあの木箱を取り出して机に置いた。指先は、まだその暗色の木面から離れない。

 ブレグは手を伸ばし、錠や彫刻の細部を指でなぞりながら、箱に細工が施されていないか入念に確認する。


「間違いないな。」

 低く呟いた彼は、上着の内ポケットから一枚の船券を取り出してアッシュに差し出した。


「だが、出航にはもう一人——あるいは、もう一つの『荷』が揃わないといけない。揃い次第、船を出す。」


 アッシュはその船券に目を落とす。

 ざらついた紙質に走り書きのような文字、そしてヘルンが言っていた船名とは明らかに違っていた。

 券の端には見慣れない小商会の紋章が押されており、正規の船会社ではなさそうだ。


「どれくらい待つ?」

 アッシュの問いに、ブレグは肩をすくめる。


「一日、二日……あるいは、それ以上だな。」

 だがその目は、はっきりとはこちらを見ていない。


 アッシュは木箱の上で指を二度叩き、船券をそのまま突き返した。


「出航が確定した時に渡す。」

 淡々とした口調ながら、その言葉には芯のある重みがあった。


 ブレグの眉がわずかにひそまる。

「規則に反する。受け渡しは——」


「俺には俺のやり方がある。」

 アッシュの声は低いが揺るぎない。


「これは俺の持ち物じゃない。こんな場所で無防備に放置すべきじゃない。港の遅延が何を招くか、お前も知ってるだろう。……荷より先に人が消えることもある。」


 一瞬の沈黙。遠くから汽笛の音が聞こえた。

 ブレグはその音にかき消されるように短く息をつき、やがて箱を押し返す。


「……わかった。じゃあ出航当日、箱ごと持ってこい。」




 同じ頃、酒場の一階——

 リゼリアは椅子にもたれながら、気だるげな様子で杯を回していたが、その目は決して油断していなかった。


 扉の近く、壁際の薄暗がりに、ふたりの人影が入れ替わるように立ち続けていた。

 視線は何度も階段の方を窺いながら、手には酒を持ち、客を装っている。


 リゼリアは杯を持ち上げて口元を隠しながら、静かにその光景を観察する。

 何も言わず、何の動きも見せず、ただ静かにその情報を心に刻み込んだ。


「リメア、お魚食べたい?」

 ふと隣の竜に問いかける。


 リメアの目がぱっと輝く。

〈たべたい!〉と、小声の龍語で即答。


「しーっ、他の人には聞かれないようにね。」

 リゼリアはカウンターの方へ手を挙げて、店員を呼び止めた。


「焼き魚をひとつ。できれば今朝上がったばかりの、新しいやつ。」

 給仕は頷いてその場を離れかけたが、リゼリアはさらりと訊いた。

「今日は港がやけに騒がしいけど、何かあったの?」


「どの件をお尋ねですか?」

 給仕は愛想よく笑いながら答える。


「今朝は外国の商船が何隻か入ってきましてね。あと、港では巡検隊がちょっと厳しめの検査を。午後にも別の隊が来るとか……まあ、よくあることですよ。」


「なるほど。」

 リゼリアは微笑みつつ、杯の縁で視線を止めた。


 ——臨検の強化。偶然にしては、できすぎている。


 やがて魚料理が運ばれてくると、彼女は皿をリメアの前に滑らせた。

「早く食べて。……それと、アッシュには内緒ね。」


 リメアは目をぱちぱちさせながら、一瞬だけ考えたが、すぐに小さな口を開けてかぶりついた。

 香ばしい魚の香りが、港の潮風とともに彼女の鼻先をくすぐっていた。


 階下から再び木の軋む音が響く。

 アッシュは木箱を懐に収めると、ゆっくりと階段を降りながら、酒場の隅々に視線を走らせた。


 ——入口付近、杯を手に雑談している二人の男。視線だけは階段に注がれていた。


 彼が自分たちの席に戻ると、リメアが顔を上げた。口元にはまだ、うっすらと油の光が残っている。

 彼女はぱちぱちと瞬きをしてから、素早く舌で口元をぺろりと舐め、何もなかったかのように振る舞った。


 アッシュは片眉を上げたが、あえて何も言わずに一言だけ。

「行くぞ。」


 リゼリアは椅子から立ち上がりながら、さりげなく訊ねた。

「うまくいった?」


「外で話す。」

 アッシュの目がわずかに鋭さを増していた。




 店を出た瞬間、潮風が籠った空気を吹き飛ばした。

 三人は石畳の通りを歩き出し、陽光は高くそびえる帆柱と看板の間から、斑に差し込んでくる。


「船が遅れるらしい。」アッシュが声を落とす。「どれほどかかるかも不明だ。……次の手を考える必要がある。」


「ふうん……この手の港じゃ、出航遅れは珍しくないわ。」

 リゼリアは髪をかき上げ、少し思案するような顔をした。


 リメアはおとなしく彼の隣を歩いていた。

 白く輝く鱗が日差しを反射し、通行人の視線をちらほらと引きつける。


 通りすがりの魚商が、笑いながら身を乗り出してきた。

「おや、これは珍しい生き物だねぇ。」


「アルビノのロングスロートリザードだ。」アッシュは立ち止まらずに答えた。


 魚商はリメアを一目見て、焼き魚の切れ端を一つ差し出した。

「この子、きっと気に入る味だよ。」


 リメアはちらっと見ただけで、ゆっくりと一歩下がり、丁寧に辞退した。


 ——つい先ほど、一匹まるごとの焼き魚を平らげたばかりだ。今はもう満足している。


 アッシュは彼女を横目で見て、口元をかすかに持ち上げた。

「どうした? 口に合わなかったか? それとも、さっき食べすぎたか?」


 リメアは歩みを少し止めて、うつむいた。尾が控えめに一度、左右に振れた。

 ——ばれてしまったと悟ったように。


「この子はただのグルメよ。」

 リゼリアがさらりと助け舟を出し、リメアの首筋を軽く叩いた。「気にしなくていいわ。」


 リメアは彼女を見上げ、ほっとしたように目を細めたが、そのまま小さく顔を背けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ