第3話 歌う少女と、秘密の龍語
村の外、山の斜面。
リメアは古いオークのねじれた根元にうずくまり、前脚で落ち葉をそわそわと掻き集めていた。
〈うーん……こっちも、ちっとも楽しくないんだから!〉
アッシュに言われたとおり、彼女は村には近づかず、山の上に留まっていた。
「トラブルになるから」と彼は言っていたけれど、リメアにはその“トラブル”がよく分からない。
ただ、それはいつも「遊んじゃダメ」とセットでくっついてくる言葉だった。
向かいの斜面をじっと見つめる。
尻尾が地面をぴしゃりと打つ。
〈……つまんない。〉
そのときだった。
耳膜がふるりと震えた。
……音だ。
獣の咆哮でも、風のうなりでもない。
もっと静かで、霧のなかで揺れる鈴のような……歌。
その響きは、霧深い谷川のように静かに、しかし力強く響き合っていた。
けれど、リメアの中でどこか懐かしいリズムが脈打つ。
〈……これって、龍語……?〉
尾がピンと立ち、翼膜がほんの少し開く。
まるで今にも飛び立ちそうな勢い――もちろん、リメアはまだ飛べないけど――
爪先が自然と前へ進んでいた。
初めて、己以外の龍語を耳にした瞬間だった。
胸の奥がわくわくして、でもどきどきもして、何かがぐるぐると駆け回る。
歌声は森の奥から聞こえてくる。
彼女は音の方へ向かって、苔むした岩の斜面を踏みしめながら進んだ。
近づくにつれ、ひとつひとつの音節が、胸の弦をぽろんと弾くようだった。
葉影の切れ間から光が差し込む。
開けた空間に、ひとりの少女が大きな岩に腰かけていた。
そのまわりには、いくつもの魔物と獣たちが静かに横たわっている。
少女の周囲に漂うのは、淡い紫の気配。
霧の中で光が揺らめくような、現実味の薄い空気。
肩まである巻き毛をゆるくまとめ、瞼を閉じ、微かに笑みを浮かべながら、歌っていた。
魔物たちは――本来なら人間に敵意を向けるはずなのに――
まるで彼女を守るように、じっと身を伏せている。
リメアは息を呑んだ。
〈……なんで、人間が龍語を歌ってるの?〉
その歌は、何かを呼びかけているようだった。
リメアは思わず一歩踏み出し、枝を踏み、パキンと小さな音が鳴る。
少女は驚いたように目を開け、リメアを見た。
瞳は琥珀のような金色で、瞳孔の奥に赤がかすかに滲んでいる――
静けさの中に、火のような何かを秘めたその瞳。
数秒後、少女は静かに微笑んだ。
「……竜?」
彼女はリメアに手を差し出す。
手のひらを上に向けて、まるで幼いダンスの相手を誘うような仕草で。
〈おいで。〉
その声は湖に投げた小石のように波紋を描き、
耳から背筋を伝い、尾の先まで届いた。
リメアはほとんど反射的に前脚を上げて、ふらりと踏み出した。
周囲の魔物たちが首を上げ、鋭い瞳でリメアを一瞥したが、敵意はなく、まるで少女の歌に縛られたように静かだった。
少女はそっと顔を傾け、人間の言葉で囁いた。
「大丈夫。悪い子じゃないわ。」
魔物たちは再び頭を伏せ、彼女のそばに戻る。
〈どうして……人間なのに、龍語がわかるの?〉
リメアはじっと、目の前の少女を見つめた。
〈アッシュが言ってた。にんげんは、龍語をおぼえられないって……〉
〈アッシュ?〉
少女が眉を少し上げた。
〈……それって、あなたの繫名者?〉
少女の目がリメアの鱗と、まだ広がりきっていない翼をなぞる。
少しだけ首をかしげたような声で、続けた。
〈……どうして一人なの?〉
〈アッシュが、村に行っちゃダメって。トラブルになるからって。
でも、もうつまんないの〜。〉
リメアはぷいっと顔を背けて、尻尾をぶんと振った。
少女はくすっと笑い、腰をかがめて目線を合わせた。
〈じゃあね、今日のこと……あの人には、内緒にしようか。〉
〈なんで〜?〉
〈くすっ……小さな秘密を共有する方が、楽しくはないかしら?〉
声の調子は軽やかで、まるで二人だけの秘密を囁くようだった。
リメアは首をかしげたけど、なんとなく嬉しくなって、こくんと頷いた。
〈いいよ。でも……もっと龍語でおはなししたい!〉
〈もちろん。〉
少女の瞳が、ほんの一瞬だけ、光を宿したように見えた。
だがすぐに、その光は消えた。
歌が再び流れ出す。
龍語と旋律が混ざり、森の空気が色を変える。
少女は静かにリメアを見つめていた。
記憶の底から浮かび上がってくる、遠い昔の光景。
――暗い石の洞窟。
――小さな体。
――そして、助け出してくれた銀青の鱗光。
あのとき最後に聞いたのも、たしか龍語だった。
眼前のリメアは、あの光にとてもよく似ている。
それは血ではない。
だが、心のどこか深い場所で鳴り響く、音の共鳴だった。
「……ほんと、そっくり。」
少女は独りごとのようにそう呟いた。
リメアには聞き取れなかったけれど、なにか言ったことだけはわかった。
不思議そうに首をかしげると、歌の余韻に耳膜がふるふると震えていた。
◇
アッシュが山腹へ戻ってきた頃には、木漏れ日が地面にまだら模様を描いていた。
岩のそばにしゃがむリメアが、枯れ葉を爪先でつついているのが見える。
どうやら、暇つぶしにしていたらしい。
「……待たせたか?」
近づいて、乾いた保存食と水袋を彼女の前に置く。
【ううん、だいじょうぶ〜】
リメアは袋の中の匂いをくんくん嗅ぎ、満足げに干し肉をくわえた。
アッシュは周囲を見回し、森の奥に一瞬だけ視線を向けた。
鳥の声すら聞こえない、異様な静けさ。
「お前……勝手にどこかへ行ったんじゃないだろうな?」
【行ってないよ! ちゃんと待ってたんだから!】
尻尾をふりふり、悪びれもない調子で答える。
アッシュはそれ以上何も言わず、背負い袋を持ち直した。
「行くぞ。日が暮れる前に、宿れそうな場所を探す。」
彼は一瞬、彼女の鱗に映る木漏れ日を見つめ、僅かに目を細めた。
リメアはちらっと彼の顔を見上げた。
その目に、一瞬だけ迷いの色が浮かぶ。
あの少女のこと。
紫の気配。
龍語の歌。
『ふたりだけの秘密』。
でも、それはまだ胸にしまっておくべきこと。
【……うん、いこ〜!】
リメアは気持ちを切り替え、ぱたぱたと彼の後を追いかけた。
アッシュは気づいていなかった。
彼女が一度だけ振り返ったとき、耳膜がまだ微かに、あの歌の残響を探していたことに。
リメアは最後にもう一度だけ、森を見上げた。
そこには――
木陰の奥。
金色の瞳がひとつ、じっと彼女を見つめていた。
リメアがまばたきをした瞬間、それはすっと消えた。
〈……きっと、気のせい。〉
自分にそう言い聞かせながら、リメアはアッシュの背を追いかけて駆けていった。