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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第三章:中立港都市カスティア

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第28話 港町の風、海の匂い

 渡し船が岸に着くころ、雲間から差す陽光が港の海面を銀青色に染め上げていた。

 係留縄が桟橋に放られ、木のタラップが「ギィ」と音を立てて降ろされる。

 乗客たちは列をなして次々と下船していった。


 あの船内でリゼリアに過剰な親切を見せていた南方の商人も人波に紛れて岸へと歩き出したが、不意に振り返り、騒がしい人混みの中で彼女のそばに寄って小声で囁いた。


「カスティア東港の霧灯むとう——用があれば、そこを訪ねてくれ。」

 そう言って、彼はにこやかに笑いながらアッシュの方を指差し、さらに声を潜める。

「……ああいう顔立ちの男は、この街では目を引く。気をつけな。」


 リゼリアは曖昧な笑みを浮かべ、感情の読み取れない声で返す。

「ご心配、どうも。」


 それだけ言って、軽く手を振り、アッシュのあとを追って歩き出す。

 数歩進んだところで、彼女は横目でアッシュを見やり、本人だけに聞こえる小声で言った。

「……聞こえたでしょう?」


 アッシュはしばし黙ったまま、ひとつ長い息を吐き、マントのフードを軽く引いて顔を陰に隠した。


 そのときだった。

 リメアがぴたりと足を止め、蒼い瞳をまん丸に見開く。


【……おっきい!】

 彼女は遠くに広がる果てしない水面を指差して叫んだ。


【これが……海?】


 その声に抑えきれない興奮が滲む。

 彼女は駆け出すように桟橋の先へ向かい、吹き付ける海風がその額の鱗と角を煌めかせた。


【うわあ……いろんな匂いがする!しょっぱい、甘い……あと、魚の匂い!】

 波が打ち寄せる様子に夢中で、尾を左右にパタパタ振りながら、今にも海に飛び込みそうな勢いだった。


「やめろ、危ない。」

 アッシュが数歩で彼女に追いつき、背中のハーネスを掴んで引き戻す。


【ちょっと見るだけなのに〜】

 リメアは不満げに身をよじり、もう一度海風の方へ顔を向けた。


「落ちたら、助けに行けない。」

 アッシュの声は淡々としていたが、気づけば彼の手は自然と、リメアを自分の傍に引き寄せていた。




 港の景色は、リメアの興奮に負けないほど賑わっていた。

 岸辺では巨大な魔導クレーンが木箱を上げ下ろしし、街角では吟遊詩人がリュートを奏で、異国の物語を歌っている。


 魔導職人は屋台の奥で魔導器の修理を実演し、商人たちは人混みの隙間で、出どころの怪しい宝石や薬瓶を売りつけようとしていた。


 名目上はこの地も連邦の管轄下にあるはずだが、街の雰囲気は内地に比べると遥かに緩やかで、反竜派の旗はまばらにしか見当たらない。

 その代わりに、各国の商隊の旗や、色鮮やかな布製の看板が並んでいた。


 アッシュの視線は港の方向に引き寄せられた。

 そこには一隻の大型商船が停泊しており、マストには二つの旗が掲げられていた。


 一つは、南方沿岸の小国セラウィンの「蒼銀の海鳥旗」、もう一つは、王国の「黄金の竜翼旗」。


 リゼリアもアッシュの視線の先に気づき、わざとらしく軽い口調で言った。

「ここにも王国の船があるんだ? そりゃ、忠告したくもなるわけだね。」


 アッシュは視線を戻し、淡々と返す。

「セラウィンの商船だ。王国からの委託品を運ぶことが多い。」


 そう言って周囲の人波を一瞥し、口調にわずかな圧を込めて言い放つ。

「行くぞ。まずは酒場で、ヘルンの紹介者を探す。」


 リゼリアは肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべていたが何も言わず、海を見続けていたリメアの首筋に手を伸ばし、軽く引き寄せた。


【でも、海はまだそこにあるのに……】

 小さな体で不満を洩らしながらも、リメアは素直に二人についていく。



 カスティアの昼下がり。

 陽光は船のマストと高い建物に遮られ、濡れた石畳の上に不規則な光の模様を落としていた。

 通りには海塩とタールの匂いが漂い、売り声、船の鐘、港湾作業員の掛け声が交錯していた。


 アッシュは先頭に立ち、通りや路地に目を走らせながら、手に持った小さな地図を確認する。

 それはヘルンから渡されたもので、簡素な線と記号で目指すルートが描かれていた。


 この港町は彼にとって未知の土地だ。

 彼はただ、地図に従って一つ一つ通りを進んでいった。


 二つの大通りを抜けた先、比較的静かな路地の入り口で足を止め、目立たない外観の酒場の扉を押し開けた。


 熱気と喧噪が一気に押し寄せ、麦酒、燻製肉、煙草の匂いが混ざり合う。

 アッシュは店内をざっと見渡し、壁際の席に腰を下ろし、リメアを隣の席に押し込む。


「おとなしくしてろ。」

 彼の淡白な声に、リメアは不満げに口を尖らせる。

【じゃあ、おいしいもの。補償ね。】


 リゼリアは周囲を一通り眺めていたが、不意に壁の一角で視線を止め、にやりと笑った。

「ふーん……あれ、あなたじゃないの?」


 アッシュが視線を向けると、そこには古びた手配書が板壁に釘打ちされていた。


「ノアディス」と記されたその張り紙には、「銀髪」「高身長」といった特徴が書かれており、粗い線で描かれた顔には陰険な表情が浮かんでいたが、本人とはまるで似ていなかった。


「全然似てないわね、」リゼリアは小声で言いながら肩をすくめた。

「まあ、その方が都合がいいかも。『銀髪』って特記してるけど、光が当たらなければあなたの髪、ほとんど灰色だもの。」


 アッシュは無言を貫いていたが、彼女はその反応すら楽しんでいるかのように続ける。

「手配書の似顔絵がひどく違う時って、描いた人が……あなたにかなり悪意を持ってた場合が多いらしいわよ。」


 リゼリアの視線がしばらくその絵に留まり——そしてぼそりと呟いた。

「つまり、これが……あの人の目に映った、あなた。」


 アッシュはただ小さく鼻を鳴らし、黙っていた。


 そのとき、店の給仕の女性が酒のメニューを持って近づいてきて、柔らかく微笑んだ。

「ご注文は?」


 アッシュは簡単に一杯だけ頼み、袖の内側から一枚のカードをそっと彼女の手元に滑らせた。


 彼女は目を動かさず、それを指先で挟み取り、低く囁いた。

「受け取りました。」


 リメアは彼女の背中を睨みつけながら、小声で文句を言う。

【たべものは?】


 やがて酒が運ばれてくると、彼女は杯を置くついでに身を寄せ、アッシュの耳元で早口に囁いた。


「二階。右から二つ目の部屋。」

 それだけ言い終えると、彼女は一礼もせずにすっと立ち去った。


 アッシュは酒を一口だけ飲んでから、ようやく席を立つ。

 二人に向き直り、短く言い残す。


「ここで待て。」


 リゼリアは肩をすくめて、冗談めかして言う。

「いつから私はベビーシッターになったのかしら? あなたは気楽でいいわね。」


 リメアは不満げに顔をしかめ、龍語で文句を言う。

〈リゼ、あたし、おいしいもの食べたい!〉


 アッシュが眉をひそめてリゼリアに問う。

「何て言ってる?」


「たいしたこと言ってないわ。」

 リゼリアは笑いを引っ込めてリメアの頭を軽く撫でる。

「……さっさと行ってらっしゃい。」


 アッシュはそれ以上何も言わず、杯をそっと置き、階段へと向かった。

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