第27話 川沿いの出発
川面には朝の光が反射し、淡い靄と魚の匂いが混じる波紋が広がっていた。
木造の渡し舟が岸に寄せられており、船体は小さく、二、三十人ほどが乗れる程度。
船頭は無言で縄や櫂の確認に忙しくしていた。
アッシュは石段の上に立ち、港の様子を見渡す。
その脳裏には、数日前のヘルンの言葉がよぎっていた。
『川路で中立港都市カスティアへ向かい、そこから東へ船を乗り継げ。陸路より早いし、安全だ。』
そう言いながら、ヘルンは掌ほどの木箱を差し出してきた。
箱の表面には精緻な銀の符文が刻まれており、中央には魔導封印が施されていた。
『港に着いたら、それをある人物に渡せ。船の手配をしてくれる。』
アッシュはその木箱を見下ろし、眉をひそめる。
疑念はあったが、拒む理由もなかった。たしかに時間を稼げる。
そして、ヘルンの言葉に嘘の響きはなかった。
「カスティア……?」
リゼリアの表情が一瞬だけ変わる。わずかだが、その名を記憶に刻んだかのように。
「そこで、符釘の出所が探れるかもしれないわね。」
あくまで軽く言ったが、「符釘」という言葉だけには、妙な力が込められていた。
アッシュはリゼリアに目を向ける。まるで心を見透かそうとするように。
「……どうして、あんな連中と一緒にいた?」
声音には冷たさしかなかった。
リゼリアはほんの一瞬、指先を止めたが、すぐに何でもないように言う。
「……仲間と誤解されて、勝手に連れて行かれたのよ。」
その口調には曖昧さもなく、まばたき一つしなかった。
「仲間に誘われたのか?」
アッシュの問いに、彼女は少しだけ沈黙してから答える。
「……利用できるかと思ったの。情報を引き出せるかもって。」
そしてふと、水面を見つめながら微笑む。
その笑みの奥には、なにかを見せない意志があった。
「でも、助けに来てくれてよかった。」
風に消えそうなほどの声。だが、確かにそこには感謝の色があった。
アッシュは短く息を呑み、視線を逸らした。胸のざわめきを無理に押し殺し、
「……魔獣の操縦には、もう関わらない。やりたければ、お前一人でやれ。」
リゼリアは唇の端を上げて言う。
「それなら、竜に符釘が刺さる日が来ないよう祈ってなさい。そうなったら……後悔するわよ。」
その言葉は鋭く神経を刺し、アッシュの眉がわずかに動いた。
だが、彼は無言で木箱を懐に収めるだけだった。
【あれが乗るやつ?】
リメアが彼の隣に寄ってきて、しっぽをピンと立てながら船を見つめる。
彼女にとっては初めて見る移動手段らしく、小さな身体で波打ち際へ駆け出した。
鼻先を船の側板に寄せて、くんくんと匂いを嗅ぐ様子は、どこか無邪気な少女のようだった。
川沿いの仮設検問所では、木杭と縄で作られた簡易な通路に沿って列ができていた。
二人の連邦兵が一人ずつ身分証を確認している。
アッシュが差し出した冒険者証を検査官が受け取り、ひととおり確認して頷く。
次にリゼリアを見るときだけ、視線がわずかに長く止まった。
記憶に刻み込むようなその一瞥の後、手が上がり通行が許される。
検問を抜けると、リメアはすぐに川面へ駆け寄った。
その額にある冠角は水光を受け、銀青色に輝く。
蒼い瞳は水面のきらめきを追って、くるくると動いた。
〈わあ……〉
彼女はしっぽを左右に揺らしながら、別の岸辺へ行こうとした。
だが、アッシュが彼女の背中のストラップを掴んで止めた。
「勝手に動くな。」
〈あっちに魚いたんだもん〉
リメアは唸るように文句を言い、爪先で船板をちょんちょんとつつく。
その様子を見たリゼリアが、ふっと笑う。
「本当に、お父さんみたいね。」
アッシュは何も言わず、木箱を胸元で押さえた。
船に乗り込むと、商人たちとの相席になった。
甲板中央には荷物が積まれ、商人たちは三々五々に会話している。
その中の一人、金のピアスをつけ、日焼けした肌の南方商人がリゼリアに席を譲り、香辛料入りの茶を差し出す。
リゼリアは笑顔で受け取り、
「ありがとうございます。」と礼を言うと、すぐアッシュの耳元に顔を寄せて囁く。
「彼、闇市の情報屋よ。警戒して。」
「顔見知りか?」
「何度か見ただけ。でも、ああいうタイプは誰に近づくにも理由があるわ。」
【やみいちって何? おいしいの?】
リメアがきらきらした目で聞く。
アッシュは横目で彼女を見て、
「……お前の好きなものはない。」
【えー、じゃあ何があるの?】
「……知らないほうがいい。」
川の真ん中を進む小舟の上、冷たい風が静かに吹き抜ける。
アッシュは何気なく周囲を見渡していたが、不意に背後に気配を感じて、咄嗟に振り返った。
細く長い手が、彼の背中に向かって音もなく伸びていた。
アッシュは反射的にその手首を掴む。鉄の枷のような力で引き寄せられ、男は甲板に片膝をついた。
顔色の悪いその男は、目に殺意を宿していたが、失敗を悟ると、唐突に口の中で何かを噛み砕いた。
「ガリッ——」
甲高い音と共に、甘ったるく鉄臭い匂いが風に乗って広がる。
喉が二度ほど動いた後、男は白目を剥き、痙攣しながら倒れ込んだ。
周囲の乗客は最初こそ呆然としていたが、すぐに悲鳴が上がった。
誰かが慌てて後退し、足元の水桶を倒してしまう。川の水と木屑が甲板に散らばり、数人の子どもが泣き出して母親の裾にしがみついた。
一人の年配の商人が鼻と口を覆いながら、水夫に向かって怒鳴った。
「気をつけろ!」
二人の水夫が遺体を運び出そうとしたが、アッシュはそれを手で制した。
彼は俯いて男の顔を確かめる——出航前、この男が自分たちをじっと見つめていたのを思い出す。
すぐに胸元の小箱を確認する。
封印は無事、銀の魔紋がわずかに光を放っていた。
アッシュの心に、不穏な重みが落ちた。
ヘルンの敵か? それとも、連邦内の別勢力……?
「申し訳ありません、お客様……」
一人の水夫が申し訳なさそうに声を落とす。
「本来なら乗船前に取り締まるべきでした……上陸後、軍に報告していただけますか?」
「時間はない。」
アッシュは素っ気なく答え、断りの意を示す。
「他に用がある。」
水夫は困ったように言葉を飲み込み、「……承知しました」とだけ答えた。
その時、船室から現れた南方風の男——先ほどリゼリアが「闇市の情報屋」だと言っていた人物——が、興味深げな視線をこちらに向けながら近づいてきた。
「どうやら、あんたらの“荷物”に興味を持ったやつがいたらしいな。」
冗談のように聞こえる口ぶりには、どこか試すような含みがある。
リゼリアが一歩前に出て、二人の間に割って入る。
笑顔は柔らかいが、その瞳はどこまでも冷たい。
「残念だけど、今回は友達を探してる旅じゃないの。」
男は肩をすくめて引き下がるが、最後に意味深な言葉を残していった。
「次は“盗み”じゃなくて、“殺して奪う”かもな。」
彼の背を見送りながら、リゼリアはふっと笑みを浮かべる。
アッシュの手にある小箱に視線を移し、問いかけた。
「その箱の中身……何?」
アッシュは答えず、無言で箱を懐に戻す。
その隣では、リメアが大きなあくびをしていた。
川風と船の揺れにすっかり眠気を誘われたらしく、船板の端に丸くなって、ゆっくりとまぶたを閉じた。
まるで、先ほどの騒ぎなど最初から無かったかのように。




