第23話 霧の戦列
朝霧がまだ晴れぬ中、隊列は国境を越えた丘陵地帯を蛇行していた。
馬の蹄音、鎧の擦れる金属音、魔獣の低い息づかいが混じり合い、まるで沈黙の重圧となって人々の耳膜を圧迫する。
カラスが林の梢をかすめ、かすれた声で鳴いては灰白の霧へと消えていく。
アッシュは隊の最後尾を進みながら、視線を道端の泥の跡に這わせていた。
それはただの野生動物の足跡ではない。時折、規則的に並ぶ深い窪みが見える——まるで重いものが繰り返し踏みしめた痕のようだった。
彼はすぐに言葉には出さず、その細部を黙って心に刻んだ。
その隣を歩くリメアだけが、周囲とはまるで違う表情を浮かべていた。
蒼い瞳がきらきらと光り、騎兵や魔獣の姿を興味津々と見回している。
【これが……戦争?】
彼女は声をひそめて尋ねた。
「違う。」
アッシュは静かに答えた。
「ただの戦闘だ。」
【なんだかすごいね。】
リメアはぱちぱちと目を瞬かせた。
【でもさ、アッシュは昔アエクセリオンに乗って空を飛んでたんでしょ? あのヘルンより、ずっとかっこよかったんじゃない?】
アッシュの指が、手綱を握るところでわずかに強くなった。
【あたしが大きくなったら、今度はあたしがアッシュを空に乗せてあげる。】
そう言って、小さな翼を広げて見せた。
まるでその光景をもう想像しているかのようだった。
前方のヘルンが、何かに気づいたように手を挙げて隊列の速度を落とすよう合図した。
一人の斥候が馬を走らせて戻ってくる。
「左前方の林地に、大型魔獣の活動跡を発見。足跡の方向は、目標地点と一致します。」
ヘルンはただ「ふん」と軽く返すだけだった。
その無造作な返事一つで、隊列は即座に警戒陣形へと切り替わった。
【……なんか匂う。】
リメアが小さく言い、耳膜をきゅっと引き締める。鼻先がわずかに動いた。
アッシュは横目で彼女を見る。
【何が分かる?】
【……焦げた匂いと、血の匂い。】
その声は霧よりも柔らかく微細だった。
この匂いを、アッシュはよく知っていた。
辺境の地で何度も嗅いだことのある臭い——魔獣が強引に「調整」された痕跡。
すなわち、実験場の残り香。
彼はぼんやりと前方の山道を見やりながら、胸の奥に沈んでいた石がさらに重くのしかかるのを感じた。
進んだ先の霧はさらに濃く、道端の湿った枝葉が垂れ下がり、まるで自然の幕のように視界を遮っていた。
斥候が低い声で報告する。
「ヘルン様、林の影に動きがあります。……散発的じゃなく、隊列を組んで移動しているようです。」
ヘルンは鋭い目を向け、手で二つの簡潔な指示を出す。
側翼の騎兵と魔獣部隊がすぐに反応し、山道の両側を挟み込むように散開した。
金属と革の擦れる音が霧の中で溶けていく。
「接触は控えろ。距離を保て。」
ヘルンは静かに命じた。
アッシュは最後尾にいたが、すでに林の中に不自然な赤い光がちらりと見えた。
それは——符釘で操られた魔獣の目。
濁った殺意の光。
次の瞬間、低い咆哮が鳴り響く。
霧の帳を突き破るように、何頭ものボロボロの鉄鎧を纏った巨大な狼が飛び出してきた。
その牙にはまだ生温い血が絡んでいる。
さらに遠くからは、背中に無数の金属符釘を突き刺された甲殻獣がゆっくりと近づいてくる。
一歩進むごとに、大地がわずかに揺れた。
【……痛いんだ。すごく。】
リメアの心の声がアッシュに届く。尾がしょんぼりと垂れた。
アッシュの目が鋭くなる。
「……動くな。俺の合図を待て。」
彼は馬を降り、長剣を抜いた。
霧の中で銀光が一閃し、飛びかかってきた狼の一頭を退けた。
霧の奥——
そこに、巨大な影が立っていた。
首から腕にかけて黒い呪紋が走り、猛禽のような視線で戦場を睨んでいる。
殺気、焦げた匂い、血の気——
そして、それに混じる金属の焼けた臭い。
……魔導兵器が、動いている。
霧の深部から、突然眩しい青白い光が数条、閃く。
「ブォン」という重々しい音と共に、魔力で駆動する魔導弩炮が山道の脇に姿を現す。
弩のアームには雷のような魔力が走り、符紋弩矢を放った。
それは林の梢を超えて、巨大な甲殻獣の背中へと突き刺さった。
直後、爆裂の符文が炸裂し、甲殻獣は一声の咆哮とともに体をくの字に折り曲げて倒れ込む。
「符能火銃、構え!」
ヘルンの厳しい声が響く。
十数名の兵士が一斉に長銃を構える。
銃身に刻まれた紋様が魔力の充填で赤く染まり、次の瞬間——
火銃が一斉に轟く。
灼熱の符能をまとった弾丸が雨あられのように撃ち込まれ、飛び出してきた巨大な狼を林へと追い返す。
側翼では、兵士二人が担いでいた携行式の符力網器が「パシン」と開き、銀色のエネルギー網が一頭の巨大な角獣を包み込んだ。
魔獣がもがくたびに、光の鎖のような束縛が四肢を締め付け、ついに動けなくなる。
空中には、一体の観測浮霊が樹上に浮かび、結晶の目がくるくると回転していた。
戦場の映像を後方へ送りつつ、林中の動く標的に光のマーカーを重ねていく。
その光景を見つめながら、アッシュの眉がわずかに寄る。
王国の騎兵突撃とは、まるで異なる戦術。
より冷静に、より効率的に。
……だが、その圧倒的な火力は——
竜にとっても、致命的だ。




