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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二章:連邦の影

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第22話 刻まれた誘惑

 軍の迎賓室は、驚くほど静かだった。

 壁際には精巧な魔導式の時刻計が設置されており、

 透き通るような結晶の文字盤の上を、淡い光の針がゆっくりと回っていた。


 一つ一つの光の跳ねが、「カチ、カチ……」という低く響く音とともに空気に溶け、

 まるで何かの時を淡々と刻み続けているかのようだった。


 アッシュが案内されて部屋に入ったとき、

 ヘルンは机に向かい、薄い資料に目を落としていた。

 足音が近づくと、彼は静かに顔を上げる。


「アッシュ——いや、ノアディスと呼ぶべきか?」

 その声には、かすかな嘲りが混じっていた。


 アッシュの指先がわずかに動いたが、否定の言葉は返さなかった。


 ヘルンは資料を閉じると、そのまま鋭い眼差しで彼を貫く。

「お前、竜を連れて連邦の境界を越えてきたな。随分と大胆だ。」


 椅子にもたれかかり、挑発的な口調で続ける。

「我々が反竜派だと知っていながら踏み込んできた……挑発か、それとも自分は特別扱いされるとでも思ったか?」


 アッシュは表情を変えず、静かに答える。

「本気で排除するつもりなら、俺はここに座っていない。」


「いい度胸だな。」

 ヘルンは口元だけで笑うが、その目に笑みはない。


「だが、お前はまだ若い。我々を甘く見すぎたようだ。」

 彼は身を乗り出し、指で机を二度叩く。

「竜はお前の唯一の切り札であり、同時に最大の弱点でもある。」


 アッシュの目がわずかに鋭くなる。


 ヘルンは悠然と話を続ける。

「今、我々は違法な魔獣実験に関与している連中を追っている。

 背に符釘を打たれ、兵器として使われている魔獣ども……お前も見たはずだ。」


 一瞬の沈黙を経て、アッシュは低く答える。

「俺には関係ない。ただの通過者だ。すぐに出ていく。」


「いや、そうはいかない。」

 ヘルンの声は、まるで避けようのない現実を告げるかのように静かだった。

 そして、ふっと口元を緩める。

「本来はお前に頼むつもりはなかった。でもな……お前がいれば、面白くなるかもしれない。」


 声を少し潜め、彼はささやくように言う。

「竜王アエクセリオンの死について——知りたくはないか?」


 魔導時刻計の光がひとつ、カチリと動いた。

 その音は、まるでアッシュの耳に直接刻み込まれるような鋭さだった。


「正面からぶつかったわけじゃないが……あの戦いに、連邦がまったく関わっていないとは言えない。」


 アッシュの視線が一瞬、わずかに揺らぐ。


 ヘルンはそれを見逃さず、眉をひそめて言葉を続ける。

「我々がその件でどういう役割を果たしたのか、知りたくないか?」


 アッシュは応えず、ただ相手の目を見つめていた。

 まるで、その真偽を見極めようとしているかのように。


 ヘルンは小さく笑い、手元の地図をアッシュの前に押し出す。

「この任務をこなせば——教えてやってもいい。」


 アッシュは沈んだ声で返す。

「……お前にとって、こんな取引に意味はないはずだ。」


「ふっ、意味なんてどうでもいい。」

 ヘルンは肩をすくめて笑った。

「ただ、お前がどう動くか見てみたいだけだよ。」


 そして、声を落とす。

「もちろん、断ってもいい。その場合——今日はお前に会ったことは忘れよう。

 ……少なくとも、一時的にはな。」


 アッシュは、指先で地図の端をなぞる。

 心の中には、波のような不穏なざわめきが広がっていた。


 彼は分かっている。

 ヘルンは人材に困っているわけではない。

 この話はただの試し——仕掛けられた餌でしかない。


 だが、その餌には——アエクセリオンという名前が含まれていた。


 ……これは罠だ。

 そう理解している。


 ——理解していても、無視できるとは限らない。



 空がまだ完全に明るくならないうちに、軍の砦の外壁に短く鋭い号砲が鳴り響いた。


 アッシュは営外の広場に立ち、霜の降りた地面にしっかりとブーツのかかとを踏みしめていた。

 手には借り物の軍馬の手綱を握っているが、無意識に指先がその革を摩っていた。


 視線を横に落とすと、リメアが半分眠そうな目で身を寄せている。

 彼女の額にある冠角が、霧の中でほのかに光を反射していた。


【こんなにたくさんの人を見るの、初めて。】

 リメアは隊列を見上げ、耳膜を少し引き締めながら、不思議そうに呟いた。


 アッシュは答えず、隊列全体を一瞥しただけだった。


 ヘルンから託された任務は明確だったが、彼の表情にはわずかな曇りが残っていた。

 この規模の行動で、リメアが無事でいられるとは限らない。

 だが、だからといって彼女を軍営に置いていく気にもなれなかった。


 ヘルンは現時点では彼女に手を出すつもりはなさそうだが、

 それが他の者にも当てはまるとは限らない。


 遠くで馬に跨る兵士たちと魔獣部隊が出発の準備を整えている。

 アッシュはその様子を見ながら、心の底に重い石を抱えているような感覚を覚えていた。


 地図の行動ルートを頭に叩き込んだものの、なかなか馬を動かす気にはなれなかった。

 その様子に気づいたヘルンが、からかうように眉を上げた。

「どうした? 迷ってるのか?」


 アッシュは低い声で返す。

「……リメアは戦闘に参加させない。」


「ほう?」

 ヘルンの口元に薄く笑みが浮かぶ。

「なるほどな。王子という肩書だけじゃなく、騎士としての誇りも捨てたか?」


 アッシュは鋭く見返した。

「彼女を戦場には立たせない。」


 ヘルンはそれ以上理由を聞こうとはせず、半分本気とも冗談ともつかない口調で言った。

「好きにしろ。ただし、状況が変われば……お前のその理想も守れるとは限らんぞ。」


 アッシュは静かに馬に跨がり、手綱を軽く引いた。

 馬のすぐそばには、銀青の小さな影がぴたりと寄り添っていた。


「俺のそばにいろ。隊列から離れるな。」

 その声は低く、短いが明確だった。


 リメアは顔を上げ、霧の中で瞬きを一つ。

 その目には何かを確かめるような光が宿っていた。


【わかってるよ。】

 そう答えると、彼女は尾で馬の後脚を軽く叩いた。


 軍馬は耳をピクリと動かし、少し驚いたように体を横にずらした。


 アッシュは眉をひそめて言った。

「驚かすな。」


【ごあいさつだよ。】

 リメアは当然のように言い返し、前足を挙げて人間のような動作で手を振った。

 それは、どこか奇妙で可愛らしい仕草だった。


 その様子を見たヘルンが、くつくつと笑う。

「面白い小娘だ。」


 彼はそれ以上何も言わず、馬を操って隊の先頭へと進み出た。

 そして、手を挙げて号令をかける。


「隊列を整え! 出発する!」

 霧の中に、蹄の音と鎧の擦れる音が重なり合い、やがて号砲が再び響いた。


 アッシュは視線を落とし、そっとリメアの額の角に触れた。

「はぐれるな。今日のこれは……いつもとは違う。」


 リメアは目を瞬かせ、反論することなく小さく頷いた。

 そして馬の脇を小走りでついていき、尾をふわりと揺らしながら、時おりアッシュを見上げる。


 その目は、まるで「ちゃんとついていくよ」と言っているかのようだった。

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