第21話 支配の歌
獣車の車輪が湿った林道を走り抜け、水しぶきが宙に舞い、すぐに夜風に消えた。
そのスピードは尋常ではなく、馬車よりもはるかに激しく揺れる。
リゼリアは窓から引きずり込まれて以来、ただじっと車内に身を置いていた。
御者台にいるのは、広い肩幅と分厚い背中を持つ男。顔の下半分は黒布で覆われ、鋭い眼光だけが覗いている。
その向かいに座っているのは、彼女を宿の窓から引きずり出した女——車壁にもたれかかりながら、手の中で短剣を弄んでいた。
「……名前は?」
リゼリアは低い声で問いかけ、視線をふたりの間に漂わせた。
「セイラ。」
女は眉を上げ、探るような口調で応じる。「あんたは?」
「リゼリア。」彼女は隠しもせず、逆にセイラをじっと見返した。
「で、そっちの御者は?」
男は鼻で笑い、低く返す。「モラス。」
セイラは横目でモラスを一瞥し、不意に問い返した。
「いつからそいつを連れてたの?」
モラスは手を止めずに答えるが、声には苛立ちが混じっている。
「俺の台詞だ。いつからそんなのが同行してた?」
ふたりの視線が空中で交差する——どうやら彼らは初対面で、しかもどちらもリゼリアを知らないようだった。
リゼリアは内心で舌打ちし、すかさず口を開いた。
「人違いよ。あたしはあんたたちの探してる相手じゃない。さっさと降ろして。」
セイラは笑ったが、声はまったく緩まない。
「無理ね。もうすぐ拠点に着く。それに——」
彼女の視線が夜の帳の中に灯る火光へと向けられる。
「この状況で、簡単に帰してやれると思う?」
そのとき、獣車が大きく跳ね上がった。車輪が石を踏み、林の向こうからは追っ手の馬蹄が迫ってくる音が聞こえ始めていた。
獣車は、粗い杭と返しの付いた鉄線で囲まれた狭い通路を抜け、隠された渓谷へと入っていった。
谷の中央には、帆布や木の屋根で半ば覆われた複数の野営地が広がり、空気には血と金属が混じり合った嫌な臭いが立ちこめている。
かすかな火光の中、破れた鎧をまとった数頭の魔獣が杭に鎖でつながれ、低く唸り声を上げていた。
その首や背には、細かい紋様の刻まれた釘が突き立てられており、皮膚は傷口で小刻みに震えている。痛みで狂いかけているのが一目でわかる。
リゼリアの表情が一瞬で険しくなった。
「……何をしてるの、これ。」
彼女はほとんど歯を食いしばるようにして声を発した。
「これは調教じゃない、支配よ。こんなこと続けたら、あの子たち、発狂するわ。」
セイラが何か言い返そうとした瞬間、別の場所から低く濁った笑い声が聞こえた。
「痛み? ははっ……痛みこそが、誰がご主人様かを教える一番の方法だ。」
炎の向こうから歩いてきたのは、大柄な男だった。
剃り上げた頭、首から腕にかけて焼き付けたような黒い呪紋の刺青。
破れた戦甲の隙間からは、符釘や鉄鉗、鎖などの器具が露出しており、歩くたびに金属音を鳴らす。
「グロイン・フヴァ。」セイラは声を低くしてリゼリアに告げる。「この拠点の頭よ。」
グロインはリゼリアの顔に目を止め、不気味に笑んだ。
「この髪色……こないだ暴走した魔獣を歌で止めた女だって話があったが、まさか自分から来てくれるとはな?」
リゼリアの脳裏に、かつて連邦商隊を救ったあの夜の光景が蘇る。
彼女は否定もせず、冷たく言い放った。
「あなたたちのやり方は許せない。あの子たちをそんな風にはさせない。」
グロインは面白そうに嗤った。
「それはいい……俺たちにとって、まさに必要なのは“言うことを聞かせる”声なんだよ。」
そう言って、彼は顎をしゃくってセイラに合図を送った。
セイラはすぐさまリゼリアの手首を取り、後ろ手にねじり上げて皮紐で縛りつける。
不意の力に手首が痺れ、リゼリアの指が無意識に強く握りしめられた。
そのとき、かつてアッシュが口にした警告が、彼女の記憶に突き刺さる。
『もしあの商人たちに顔を覚えられてたら……俺たちはもう詰みだ。』
あのときの冷たい声が、まるで今の自分を皮肉っているように聞こえた。
——そうね。今回は、完全にあたしの失策だった。
グロインが近づくたび、彼の腰にぶら下がった鎖と鉄鉤が、鈍く耳障りな音を立てる。
彼はリゼリアの目の前で立ち止まり、黄ばんだ歯を剥き出しにしてにやついた。
「魔獣を止めさせるだけじゃない。命令も効かせられる。それは釘より便利だ。」
「釘は壊れるが、歌声は尽きない。」
そう言って彼は指を向ける——
その先には、五本の太い鎖で地面に固定された巨大な甲殻獣がいた。
甲殻はひび割れ、無数の釘が頸椎や肩に打ち込まれ、血が滲み出ている。
だがその目は死んだ水のように、何の光も宿していなかった。
「明日、こいつらを使って商隊を襲う。あの荷は重要でな……」
グロインはまるでただの取引のように話す。
「お前は歌え。命令通り、犬のように従わせるんだ。」
リゼリアは息を呑み、低く鋭い声で反抗する。
「人殺しの手伝いなんて、絶対にしない。」
グロインは笑ったが、その笑みには一切の冗談がなかった。
「やってもらうさ。」
彼はゆっくりと首を傾けてセイラとモラスに命じた。
「こいつを見張っておけ。逃げたら——あの白いトカゲ……いや、幼竜を連れて来て、同じ檻に入れてやれ。」
その一言が、まるで氷水のようにリゼリアの心臓を刺した。
グロインはすでに、リメアの存在を知っている——。




