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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二章:連邦の影

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第20話 夜の帳、影の手

 宿の窓の隙間からわずかに灯りが漏れ、遠くから蹄の音が急かすように響いてくる。

 リゼリアはベッドの端に腰を下ろし、アッシュから分けてもらったキャンディを指で転がしながら、カーペットの上にしゃがんでいるリメアに目をやった。


 小さな体が熱心に菓子の包装紙を開けており、尾は地面をトントンと叩いて、甘味への期待を隠しきれない。

 その姿に、リゼリアの口元が思わず緩む。……が、すぐに得体の知れない緊張感が胸を締めつけた。


 ──街角から、蹄の音が一気に近づいてきた。


 金属と石畳がぶつかる重い音。しかもそのテンポは、ただの巡回とは明らかに違う。焦燥感すら滲んでいる。


 リゼリアの表情が一変した。

 これは、騎兵の集結。それも、本気の包囲。


 彼女は窓辺へと歩き、カーテンを細く開ける。

 霧のかかる通りには、鎧の鈍い光が揺れていた。複数の騎影が小路に散開していく様子からは、明らかに訓練された“包囲網”の動きが読み取れた。


 その数秒後──階下の街角から、鋭い怒声が響く。

「この区画を封鎖しろ! 違法魔獣の持ち主だ、発見次第、即刻排除!」


 直後に──


「開けろ! 軍による検査だ!」

 荒々しいノック音と共に、重いブーツの足音が廊下を打つ。


 リメアが顔を上げ、耳膜をわずかに引き締めた。

〈……隠れる?〉


 リゼリアは素早くドアのそばへ移動し、声を潜める。

〈いいえ。先に様子を見る。〉


 彼女がわずかに視線を外へ向けたその時──階段のあたりから、鋭い声が飛ぶ。

「そいつだ! 間違いない!」


 リゼリアの心臓が一瞬で跳ね上がる。

 ……アッシュじゃない。狙いは、自分?


 迷っている暇はない。リゼリアはすぐさまリメアを振り返り、今までにないほど真剣な表情で言い放つ。

〈早く、隠れて!〉


 その瞬間、彼女は窓へ跳びかかった。

 ……が、その刹那──


 外から、まったく聞き覚えのない女の声が飛んでくる。


「来なさい!」


 同時に、一本のフック付きロープがリゼリアの腕に絡まり、強引に引き寄せられるようにして、彼女の身体が窓の外へと引きずり出された。


 下では、霧の中に待機していた何者かが見事な手際で彼女を受け止める。

 そしてそのまま、闇に包まれた路地の奥へと、音もなく姿を消した。


 一方、階段を駆け上がってきた連邦兵たちが目にしたのは──

 半開きの窓と、そこに残されたちぎれたフックロープだけだった。

 ロープは、まだわずかに揺れていた。




 アッシュは薄暗い裏路地を早足で進み、主通りの巡回隊を意図的に避けていた。

 だが、宿にたどり着く前に、リメアの切迫した心の声が突然脳内に響いた。


【アッシュ! いっぱい鎧を着た人たちが……わたしを連れていこうとしてる!】


 眉がピクリと動く。

【落ち着け。今は逆らうな。】


【でも——】


【聞け。暴れたら余計に危ない。連れて行かれるだけなら、まだ対処できる。】


 心声が届くということは、距離はすぐ近く。

 アッシュは小さな路地を曲がり、そして見た。

 数人の連邦兵が、分厚い拘束ロープでリメアを引っ張っている。


 アッシュは隠れることなく、まっすぐに彼らに歩み寄った。

 その声は冷たく、鋭い。


「その魔獣は俺のだ。」


 そう言って、懐から冒険者証を取り出して差し出す。

 兵士たちは顔を見合わせ、一人が証を受け取り、低く読んだ。

「登録は……アルビノのロングスロートリザード?」


「そうだ。」アッシュの声は一分の隙もない。


 兵士は一瞬黙り込んだ後、拘束索を返した。

「……問題ない。」


 アッシュはリメアの引き綱を受け取ると、すぐに踵を返してその場を立ち去ろうとした。


【アッシュ、リゼリア……さっき連れていかれた。】


【関係ない。】

 アッシュの足取りは緩まない。

【行くぞ。】


 だが、彼らが路地の角に差しかかろうとしたその時、背後から命令口調の声が響いた。


「——そこの黒髪、それか銀髪の奴。そいつらは止めろ!」


 アッシュは無視して歩みを続ける。

 先ほどの兵士が慌てて声を上げた。


「ヘルン様! 冒険者証は確認済みです。ロングスロートリザードも登録にあり、間違いありません——」


 その名が脳裏に閃いた。


 ヘルン・カルス。

 王国軍にいた頃、国境会議で名前を聞いたことがある。連邦の将校の一人だ。


「ロングスロートリザード、だと?」

 ヘルンの声には嘲りが混じっていた。

「それが問題ないかどうかは、俺が決める。……お前、動くな。振り返れ。」


 アッシュの手は無意識に剣の柄へ伸びる。

 その殺気を感じ取り、リメアの尾がわずかに緊張し、耳膜が縮む。いつでも飛びかかれる体勢だ。


 ヘルンが一歩踏み出すたびに、銅製の軍靴が石畳を叩き、太鼓のような音を響かせる。


「身元確認のために、こちらへ来い。」

 その口調は淡々としていながら、圧が異常だった。


 アッシュは無言で振り返り、ヘルンは顎をしゃくった。

「冒険者証を見せろ。」


 アッシュは無言でそれを投げ渡す。

 ヘルンは片手で受け取り、目を落として読み取った。


「王国登録の冒険者、か。」

 目を細める。

「連邦で、何の用だ?」


「珍しい魔物がいると聞いた。」

 アッシュの声は乾いて冷たい。取り合う気はない。


 ヘルンの視線が彼とリメアの間を往復し、やがて何気ない口調で言った。

「そういえば……王国の第七王子だっけ。名前は……なんだったか?」


 思い出そうとするように間を置いて、こう続ける。

「ま、いいか。竜の卵を持ち出して逃げた反逆者だよな。」


 その眼差しは、リメアを鋭く射抜いていた。

 まるで刃のような冷たい光を宿して。


 アッシュは真正面から答えることなく、短く言った。

「市民の立場で、その件に口を挟む資格はない。」


 ヘルンは口角をわずかに上げ、冒険者証を返す。

「魔物使い……か。ちょうど良い。今、人手が足りてないんだ。手を貸せ。報酬は出す。」


 証を受け取るアッシュの手が、ゆっくりと動く。

 その口からは、明確な拒絶の言葉が漏れた。


「……断る。」


「空気を読めよ。」

 ヘルンの声は静かだった。だが、首筋に刃を当てられたかのように冷たい。


 アッシュの目がわずかに光り、その底には氷のような怒りが宿っていた。

 ──こいつ、俺を知っている。




 アッシュは夜の雑踏に紛れて歩きながら、遠くを見据えていた。

 街全体の軍隊が動いている。

 通りのあちこちで兵士たちが分散し、一部は城門の方向へと馬を走らせていた。


 その整った蹄音と松明の配置からして、城外へ逃れた何者かを追っているのは明らかだった。


【アッシュ……だいじょうぶ?】

 リメアの声が、不安を滲ませて心に届いた。


「問題ない。」

 アッシュは低く答え、周囲の様子を鋭く観察する。


【でもね……みんな、誰かを探してるみたい。リゼリアのこと、心配……】


【彼女を連れて行ったのは、あいつらじゃないのか?】

 アッシュはリメアに念じ返す。


【ううん……あの人たちが来たときには、もうリゼリアはいなかった。先に誰かに連れて行かれてた。】


 アッシュは数秒沈黙し、やがて人混みの隙間から前へ進む。

 通りかかった鎧姿の兵士を見て、自然な口調で問いかけた。

「この時間に全軍動いてるなんて、何があった?」


 兵士は特に怪しむ様子もなく、こう返した。

「違法な魔獣実験をしてた連中が逃げたらしい。魔獣を連れて、城外に。」


 アッシュの足が、一瞬だけ止まった。


 ──違法な魔獣実験?

 脳裏に、あの符釘に操られた魔獣の、赤く爛れた目が過った。


 あれは、連邦の仕業だと思っていた……だが——

 連邦自身も、追っている。


 となれば、その背後にいる“手”は、別に存在するということだ。

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