第18話 一夜の猶予
行商ギルドでの手続きはすぐに終わった。
商人が荷物と護衛の名簿を確認した後、アッシュに重たい金貨袋を手渡す。
「助かったよ。また頼むよ。」
商人は笑顔で別れを告げ、車隊と共に去っていった。
その場には、甲殻獣だけが静かに立ち尽くしていた。
アッシュはそれを見やり、リゼリアに問いかける。
「この魔獣、どうする。」
リゼリアは両手を広げてみせた。
「いらないなら、街の外に出して放してもいいけど……」
唇の端が少しだけ上がる。
「車を買って、こいつに引かせて移動するってのも、アリじゃない?」
アッシュは眉をひそめる。
「遅いし、目立つ。」
「冗談よ。」リゼリアは肩をすくめる。「そんな真顔で返さなくてもいいのに。」
そのとき、リメアは甲殻獣のそばにしゃがみ込み、じっとその甲殻を観察していた。
彼女が何事もなく門を通過できたことが、アッシュにはかえって不安だった。
こういう「順調すぎること」こそ、裏で何かが動いている証拠だ。
「街に入ったからには……」
リゼリアがふと口を開く。
疲れの混じった声で続けた。
「その報酬で、一晩だけ宿に泊まってもいい? 何日も野宿してたら、さすがに野人になっちゃう。」
「ダメだ。」アッシュは即答する。「同じ場所に長くはいられない。すぐに出る。」
「あなた、私の夫でもないのに、なんでそこまで干渉するの?」
「お前も俺の妻じゃない。」
アッシュは冷たく返す。
「お前がどこに泊まろうと、俺の知ったことじゃない。」
「でもその報酬、私がいなきゃ貰えてなかったでしょ?」
リゼリアは挑発気味に眉を上げた。
アッシュは応じる気もなく、背を向けて歩き出した。
そのとき、リメアが彼の裾をそっと引っ張り、見上げて小さな声で言った。
【アッシュ……泊まらせてあげて、いい?】
尻尾が地面をふわりと掃き、耳膜がわずかに開いて、まるで機嫌を取るような仕草だった。
アッシュはふと気づく。近くにいた数人の通行人が、こちらを見ていた。
好奇と推測に満ちた視線が、静かに集まっていた。
彼は数秒間黙ったまま、やがて低い声で言う。
「……一晩だけだ。明朝すぐに出る。」
「了解。」リゼリアは、まるで最初からそれを確信していたかのように微笑んだ。
◇
宿の木の扉が開いたとき、室内の灯油が静かに燃え、酒の香りと湿った木材の匂いが空気に混じっていた。
彼らが宿のロビーに入ると、宿の主人が彼らの荷物を一瞥し、職業的な笑顔で尋ねた。
「ご宿泊ですか? お部屋はいくつ必要ですか?」
「一部屋で。」
アッシュはあっさりと答えた。
「一部屋?!」
リゼリアの眉がぴくりと跳ね上がり、声が明らかに一段高くなる。
「まさかあなた、何か——」
「余計なことを考えるな。」
アッシュは彼女の言葉を遮り、交渉の余地を与えずに腰の袋から金を取り出し、宿泊代を支払った。
部屋は二階の小さな一室で、木製のベッドが一つあるだけだった。
アッシュはドアを開けて彼女たちを中に入らせ、自分は扉の枠に寄りかかって言った。
「お前たちはここで寝ろ。俺は外で寝る。金は節約しなきゃならん。二部屋は贅沢だ。」
リゼリアは部屋を見渡し、皮肉っぽく口元をゆがめる。
「さすが……いや、王子とは到底思えないわね。」
アッシュは無表情のまま、その言葉に応じることもなく淡々と言った。
「俺はこれから服と軽装の鎧を買ってくる。この鎧はもうボロボロだし、しかも王国の制式だ。連邦の中じゃ、身元を晒すようなものだ。」
リゼリアは少し眉を上げ、意外そうに呟いた。
「へぇ? 外見なんて気にしないと思ってた。」
「お前にいちいち説明するつもりはない。」
アッシュは冷たく言い放ち、リメアの方へと視線を向ける。
「部屋で待っていろ。」
【やだ。】
リメアはすぐに尾を振り、耳膜をぴくりと開き、床に尾を叩きつけた。
アッシュは彼女の頭を撫で、声を和らげる。
「飯を持って帰る。」
リメアは少し躊躇した後、ようやく小さく頷いた。
「私も行く。」
リゼリアがふいに言った。
アッシュはちらりと彼女を見たが、否定も肯定もせず、ただ黙って階段を降りていった。
夜の帳が降り、街灯の光が石畳の道を照らしていた。
両側には木製の看板を掲げた店や屋台が並んでいる。
最初の目的地は防具店だった。
店内には連邦制式の軽鎧と旅装がずらりと並び、王国の鎧と比べて線がすっきりしており、関節部の動きも軽快そうだった。
アッシュは灰黒色のロングコート型の軽鎧を選び、さらに武器を収納しやすい革のベルトも手に取った。
「それ、今のより……ずっと似合ってるかもね。」
リゼリアは面白そうに彼を上から下まで眺めた。
アッシュは支払いを済ませると、今まで着ていた鎧を店に売り、その代金で保存食を少し買い足した。
リゼリアは彼の隣を歩きながら、何気ない口調で探るように言う。
「連邦の装備に詳しいのね。迷いなく選んだ。」
アッシュは顔も上げず、淡々と答える。
「戦場で見た。」
「戦場って……王国と連邦の、あの戦争の時?」
リゼリアの問いに、アッシュの足が一瞬止まり、すぐにまた動き出す。
「……何度もあった。」
彼女は横目で彼を見ながら、口元に微かな笑みを浮かべた。
「じゃあ、連邦の弱点も知ってるんでしょ?」
「連邦の魔導兵器と火器は……竜の身体じゃ防げない。」
アッシュの声は、ほとんど聞き取れないほど低かった。
「ふうん……じゃあ、また戦争になったら、王国は負けるってこと?」
街角でアッシュは立ち止まり、氷のように冷たい視線を彼女に向け、話題そのものを凍らせるかのように無言で歩き出した。
リゼリアは肩をすくめて、話題を変える。
「東の果て……連邦よりもっと遠くって、どんなところ?」
アッシュの指が握っている袋が僅かに軋む音を立てた。
「知らない。」
「じゃあ、なんでリメアをそこに連れていくの?」
「……質問が多すぎる。」
アッシュの声が冷たくなり、彼はそのまま曲がり角へと足を進めた。




