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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二章:連邦の影

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第17話 境界の足音

 巨獣は縄につながれた荷車を引いていた。分厚い甲殻が陽に照らされ、鈍く光を反射する。

 砕けた石が敷き詰められた道を、その蹄が踏み鳴らす音は、まるで鼓動のように耳に響いてくる。


 商隊の護衛たちは当初、アッシュとリゼリアを疑わしげに見ていたが、巨獣が難なく荷を満載した車を引いて進むのを目の当たりにし、その目はやがて驚きと囁きに変わっていった。


 アッシュは車列の横を歩きながら、巨獣の速度と進路を制御するための長い棒を手にしていた。リメアは荷車の後ろにちょこんと座り、巻き上がる土煙を興味津々に見つめながら、前脚を空中でひらひらと動かしている。


 リゼリアは前方の車両の側板に腰掛け、淡い紫の髪が風に揺れる中、目を半ば閉じて、誰にも聞こえない何かに耳を傾けているようだった。


 この道は、ヴァステリア連邦の国境都市へと通じる主要なルート。護衛たちの話によれば、順調に行けばあと二日で城門に到着できるという。


 だが、アッシュはよくわかっていた。このような大規模な商隊は検問を回避しやすい反面、一度何かが起きれば、途端に目立つ存在になる。


 夕暮れが迫る頃、車隊は山腹にある荒地に到着した。そこはすでに廃墟となった石造りの建物で、護衛たちは中庭を片付け、焚き火を囲んで夜の準備を始めていた。


 分厚い甲殻を背負った巨獣は空き地の隅に身を伏せ、乾草をのんびりと咀嚼していた。アッシュはそのそばにしゃがみ、手綱や装備の締まり具合を確かめている。いつも通り、静かで無駄のない動きだった。


 そこへ、商隊の護衛二人が近づいてきた。一人が笑顔で声をかける。

「おい、お前が……あの魔物使いだな?」


 もう一人は眉を上げ、アッシュから少し離れた場所で旅人たちと笑い合っているリゼリアへと視線を移し、からかうように言った。


「奥さん、すげぇ美人だな。しかも話し上手だ。あの人が口きいてくれなかったら、あんたに仕事なんて頼まなかったかもな。」


 そう言いながら、彼の視線はアッシュの足元にいるリメアへと移る。目に見えて驚いたような表情で、さらに続けた。


「あの白いロングなんとかリザードまで手懐けるなんて……珍しくて綺麗なもんは、全部お前のもんってわけか。羨ましいねぇ。」


 リメアは「綺麗きれい」という単語に反応したのか、ぱちりと瞬きをし、得意げにあごを少し上げて、尻尾で地面をぽんと軽く叩いた。


 アッシュは「……ああ」とだけ答えたが、その指先は装備の皮帯を確認する手つきにわずかに力を込めた。

 金具が小さく、しかし重い音を立てる。

 それはまるで「余計な詮索をするな」と無言で語る警告のようだった。

 彼は、自分の周囲の存在を他人に語られるのを好まない。


「実はな……」と一人目の護衛が声を低くする。

「最近、国境の町の空気がおかしいんだ。怪しい旅人が何人か捕まったって話もあるし、一晩で消えた奴もいるらしい。」


 もう一人が冗談めかして続ける。


「だからさ、もしこの荷が何かに巻き込まれても、お前のそのデカブツが俺らを連れて逃げてくれりゃ安心なんだよ。」


 アッシュはゆっくりと彼らに視線を向けた。

 夜気のように冷たいその瞳は、一切の冗談を受けつけない色をしていた。


「逃げるのはあいつだ。お前らが追いつけるかは知らん。」


 一瞬の沈黙。

 護衛たちは顔を見合わせ、へらりと笑って手を振り、自分たちの持ち場へ戻っていった。


 やがて、リゼリアが近づいてきた。

 手には、さきほどの取引で得たらしい乾燥果実がいくつかある。


 彼女はそれをアッシュに見せるでもなく、さらりとこう告げた。

「さっき彼らが言ってた“行方不明”の件、ただの噂じゃないよ。」


 アッシュは視線だけを向けたが、口は開かなかった。

 リゼリアは口元にわずかに笑みを浮かべ、どこか含みのある口調で続ける。


「国境の向こうにいる連中……あなたが向かおうとしてる“場所”に、思ってる以上に興味を持ってるみたい。」



 商隊は一列になって国境都市の城門へと向かい、ヴァステリア連邦の兵士たちが貨物と通行証を一つずつ丁寧に確認していた。


 アッシュの番になると、彼は自分の冒険者証と商隊の通行証を差し出した。

 だが兵士の視線はすぐにリゼリアへと移り、眉をひそめる。

「そっちの女の身分証明は?」


 アッシュの胸の奥が冷たく沈んだ。

 連邦に入るには身分登録が必要だ。冒険者ギルドの認可証、商業ライセンス、または連邦発行の身分証明書などが求められる。

 だがリゼには何もないのは明白だった。


「……妻だ。」アッシュは低く言った。


 兵士は眉を上げ、二人の間を見比べながら言う。

「夫婦? そうは見えないな。」


 隣にいた別の兵士も口を挟んだ。

「立ち位置だって半歩も距離空いてる。あんたらより、道中一緒だった他の商人たちのほうがよっぽど親しげだったぞ?」


 アッシュが冷たく反論しようとしたその瞬間——

 リゼリアが微笑み、一歩前に出ると、ふいにアッシュの肩に手を置き、ためらうことなくその唇に口づけた。


「誤解しないで。彼、すごく恥ずかしがり屋なの。」

 その声には冗談めいた調子が混ざっていたが、視線はまっすぐ兵士を見据えていた。


 アッシュは一瞬固まり、手にしていた冒険者証が歪むほどに力がこもる。


 兵士は彼らを交互に見てから、通行証を確認し、渋々ながら頷いた。

「……通っていい。中へ行け。」


 商隊が再び動き出すと、周囲の者たちはくすくす笑ったり、意味深な視線を交わし合ったりしていた。


 アッシュの表情は変わらなかったが、手にしていた手綱が僅かに強く握られていた。


 リゼリアはまるで何事もなかったかのように、軽くウィンクして見せた。

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