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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二章:連邦の影

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第16話 森の誓い、静かなる絆

 彼らは宿駅に足を踏み入れた。

 ここは中立地帯の最後の補給地点で、連邦へ向かう商人、傭兵、旅人たちが行き交う場所だった。


 アッシュはすぐに壁際の席を選び、リメアを足元に静かに蹲らせる。

 彼はすぐに話し始めることはせず、まずは周囲の会話に耳を傾けた。


 酒場のテーブルでは、低い声で噂が交わされていた。

 最近、連邦の入境検査が厳しくなり、貨物だけでなく人間一人ひとりの身分確認まで行われるようになったという。

 身分情報に不備があれば即座に送還され、失踪者の噂すらあるという話だった。


 別の卓では商人たちが、ある商隊が高額を払って「内通者」の手引きで、北の廃坑ルートから潜入したという。

 だがそのルートは極めて危険とのことだった。


 アッシュはしばらくそれを聞いた後、店の使用人を呼び止めた。

 表向きは宿の情報を尋ねるだけだったが、会話の端々から探りを入れる。


 使用人によれば、最近は特別貨物を運ぶ連邦の商旅に便乗して入境する者もいたという。

 そういった商旅には護衛と通関許可証があり、検査の負担が軽くなるらしい。

 ただし、その機会は限られており、誰でも加われるわけではないという。


 アッシュは黙って酒をひと口含む。

 陰影に隠れたその目には、いくつもの可能なルートが浮かんでは消えていく。

 だが、それらの一つ一つに、心の中で「危険」の印をつけていた。


 リゼリアは椅子の背にもたれ、口元に皮肉な笑みを浮かべる。

「ふふ、英雄様でも悩むときがあるのね?」


「行くぞ。」

 アッシュはそう呟くと、リメアの手を取って席を立ち、外へと向かう。


 ちょうど宿駅の門を出たところで、前方から言い争う声が聞こえた。


 分厚い皮衣を身にまとった商旅の一行が、路傍に集まっていた。

 その中央には、一頭の荷引き獣が地面にへたり込み、荒い息をついていた。

 眼には力がなく、皮膚の下の筋肉は干からびたようにたるんでいる。

 どう見ても、長距離には耐えられそうにない老いた獣だった。


「こいつじゃ、国境の街まで持たねぇ!」

 苛立った声が地面を蹴りつける。

「まともな獣は全部持ってかれたし、新しいのが来るかもわからねぇ!」


「このままじゃ足止めだ。仮に出発できても、遅すぎて他に追い抜かれるぞ!」


 アッシュは彼らを一瞥しただけで、足を止めず通り過ぎようとした。


 だがリゼリアは足を止め、その視線を荷引き獣と商旅の間で行き来させた。

 そして数歩後にアッシュへ追いつき、耳元でそっと囁いた。


「どうやら、あなたの出番みたいね。」


 アッシュは横目で彼女を睨んだが、足が一瞬だけ止まった。


 リゼリアは前に出て、商旅の一団に向かって声をかけた。

「魔獣をお探しでしょう? ちょうどいいわ、うちの夫が魔物使いなんです。」


 そう言いながら、彼女は少し離れた場所にいるアッシュを指差す。


【アッシュ、「夫」ってなに?】

 リメアの声が脳内に響く。真剣な疑問のこもった声だった。


「……あとで説明する。」

 アッシュは低く返す。


 商旅の男たちはアッシュを値踏みするように見たが、その話を一応は受け入れたようだった。


「こっちは、この荷車を引けるくらいの大型獣が必要なんだ。並の小型獣じゃ役に立たねえぞ。」

 そう言いながら、男は荷車の側板を叩く。

「とにかく丈夫で、持久力があるヤツが要る。」


 その視線はすぐにリメアへと向けられた。


 アッシュは涼しい顔で言った。

「彼女は観賞用のアルビノ・ロングスロートリザードだ。作業用じゃない。」


「ああ、なるほど。」

 男は納得したようにうなずいた。


「巨獣のほうなら順化済みよ。ただ、あまりに大きくて宿には連れて来られなかったの。少し待ってくれれば連れて来るわ。」

 リゼリアが続けて言った。

「先に契約書を交わしてもらえる?」


 商旅たちは一度顔を見合わせると、しぶしぶそれを了承した。ただし、できるだけ早くするようにと念を押された。


 アッシュは横目でリゼリアを見る。

「どうするつもりだ?」


「あなたの職業は?」

 彼女が逆に問い返す。


 アッシュは懐から冒険者証を取り出し、彼女に渡した。

 そこには「アッシュ」という名と、「魔物使い」と記された職業欄がある。


「これで十分じゃない?」

 リゼリアが唇を軽く吊り上げた。


「……さっきのは、つまり口から出まかせか。」


 彼女は否定せず、ただ笑ってみせた。


 契約が済むと、一行は宿を後にした。

 アッシュは彼女の後ろを歩きながら、抑えた声で問いかける。

「どこに、そんな荷車を引けるような巨獣がいる?」


「いるわよ、ついてきて。」

 リゼリアがにっこりと振り返る。


 彼女は山道を逸れ、木々の影が濃い細道へと進んだ。

 その奥に、巨大な影が静かに立っていた——


 数日前、彼らが符釘の支配から解放した甲殻獣だった。


 その厚い甲殻には、かつて釘が刺さっていた箇所に、深い痕跡が今も残っている。


 アッシュは一目でそれと分かり、眉をひそめた。

「……なぜここに?」


 リゼリアは背中を向けたまま、両手をゆったりと後ろで組んでいた。

 淡い紫の髪が風にそよぎ、肩に触れるたびに光を反射する。


 彼女はゆっくりと振り向くと、林の木漏れ日に照らされた琥珀の瞳が静かに揺れていた。

 その奥、瞳孔の近くに浮かぶ微かな紅の光が、まるで心の奥に宿る火種のようだった。


「助けてくれて、良かったわ。」

 その声は柔らかかったが、どこか抗いがたい力を帯びていた。

「今、彼はあなたの役に立てる。」


 アッシュは距離を置いたまま、その場からじっと彼女を見据える。

 影の中にあるその眼差しは、冷たい刃のように研ぎ澄まされていた。


 彼は短く黙し、剣を持つ手にわずかに力がこもる。

 低く絞った声が、押し殺した感情の色を帯びて響いた。


「……すべて、お前の計画か。」


 リゼリアはその言葉に応えるように振り返る。

 肩にかかる髪がふわりと揺れ、唇に浮かぶ笑みが深まった。


「……あなたが私に、そうしろって言ったのよ?」


 アッシュの眉がわずかに動き、表情の奥に何かを押し込めたように見えた。

 そして、唇の端から漏れたのは、冷ややかな、しかしどこか苦い笑みだった。


「魔女め……」

 何かを続けようとしたそのとき——


【これ、あたしの功績? すごいこと、したんでしょ?】

 はじけるような声が脳内に響いた。


 リメアがぴょんと飛び跳ねて現れ、尾を高く掲げる。

 蒼い瞳は興奮にきらめいていた。


 アッシュは一瞬、顔を緩める。

 そしてその頭冠に手を置き、そっと撫でながら、優しい声で答えた。


「……ああ、すごかったな。」


 淡紫の髪の少女は、それを見てふわりと微笑む。

 その目には、何か言葉にしないままの想いが、そっと宿っていた。

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