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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二章:連邦の影

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第15話 境界の刻み、霧に潜む爪

 谷を抜けても、林の湿気は変わらず重くのしかかる。

 しばらく進んだところで、リゼリアがふと立ち止まり、アッシュの腰に目を向けた。

「……血が出てる。」


 アッシュは視線を下ろし、鎧の下に染み出した暗赤色の布に気づく。

 さきほどの動きで、癒えかけていた古傷が開いていたのだ。


 彼は眉を寄せながら、上着を捲り上げ、手のひらに光を灯して魔力で止血を試みる。


 リゼリアは周囲を一瞥し、急に言った。

「ちょっと待って。」


 そして素早く道端の草むらに屈みこみ、数枚の葉を摘み取り、指先で揉み潰す。

 緑の汁が滲み出る。


 それを見たアッシュは、彼女の手をはたき落とすように止めた。

「……何のつもりだ。」


「薬草を当てるの。少しでも早く治すためでしょ? あなたも知らないわけじゃないでしょ?」

 その口調は、当然のことのようだった。


 アッシュは無言で彼女の手と顔を見比べる。

 しばらく黙っていたが、やがて何も言わずに身を任せた。


「魔法があれば十分だ。薬草は要らない。」

 彼の声は淡々としていた。


「今の魔法は魔導や技術に頼りすぎてる。力はどんどん弱くなってるのよ。使いすぎはよくない。」

 彼女はそう言いながら、傷口に薬草を押し当てる。


 アッシュは鼻を鳴らすように軽く笑い、黙って包帯用の布を裂き、それで薬草と傷を一緒に巻いた。


「手慣れてるのね。」

 リゼリアが皮肉げに言う。


「戦場で何度もやった。」

 彼の声は、まるで他人事のように冷たかった。


 最後に布の端を結び、腰を動かしてみる。

 まだ多少引きつるが、もう出血はない。


「行くぞ。」

 彼は荷を背負い直し、再び安定した足取りで歩き出した。


 三人は再び山道を進み出す。

 林の空気は重く湿っていて、呼吸すら遠くに届くような錯覚を覚える。


 リゼリアは後ろから、前方を並んで歩く男と小さな竜を見つめていた。


 さっき、怒鳴られるかと思っていた。

 けれど彼は意外にも、何も言わなかった。


 そのことが、少し意外だった。


 リメアはそっとアッシュの横に寄り添い、申し訳なさそうに、そっと尾で彼の手の甲をつつく。


 アッシュはただ小さく「……ああ」とだけ応え、視線はずっと、東の霧に霞む空を見つめていた。


 林道の果てに、霧の中から山の稜線がゆっくりと姿を現す。


 そこは、国境を越える最後の高地。

 彼らが越えねばならない、試練の門だった。




 灰白の朝霧が山道を包み込み、空気には火薬の残り香と湿った木の匂いが漂っていた。

 アッシュはぬかるみを踏みながら進む。その腰に巻いた包帯の下、草薬を塗ったはずの傷口がじわりと熱を帯びて滲み出すのを感じていた。


 この境界を越えるのは、今回が初めてではない。

 一週間前、彼はアルヴィリオン王国の出境線をすり抜け、騎士団の追撃を振り切ったのだ。


 そして、認めざるを得なかった——リゼリアには、確かに使い道がある。


 本来であれば、慣れぬ地形を前に、アッシュは慎重に地形を観察し、罠や伏兵の可能性を探る必要があった。

 だがリゼリアがいれば、彼女と野生の動物たちとのやり取りによって、巡回兵や山賊の待ち伏せをいち早く回避することができた。

 時には、空を飛ぶ鳥や逃げる獣たちの様子から、先にある危険を察知することすら可能だった。


 そのおかげで、ほとんど休む間もなく連邦国境に迫ることができた——


 だが、今回は違う。


 ここはヴァステリア連邦の入境地帯。

 この先の境界標を越えた瞬間、彼を待ち受けているのは、かつての仲間による追撃ではなく、竜そのものを敵視する国の監視網だった。


 この地では、竜はかつての栄光の象徴ではなく、「駆逐すべき存在」として扱われる。


 霧の奥から、木製の柵と見張り塔の影がぼんやりと浮かび上がる。

 それは連邦の国境哨所。漆黒と銀の交差する紋章が掲げられた旗が、まるで開かれた鉤爪のように翻っている。


 アッシュは歩を緩め、林の稜線に目を向けた——

 見張り台だけではない。霧に紛れて、いくつもの目がこちらを窺っている気配があった。


「どうやって入るつもり?」

 後ろからリゼリアの声がかかる。その口調にはどこか試すような響きがあった。

「まさか、また迂回するつもりじゃないでしょうね? さすがに無理よ。」


 アッシュはすぐには答えなかった。

 肩の荷物を軽く直しながら、視線はなおも前方の道から逸れなかった。


「まずは、宿駅で情報を集める。」


「……ってことは、結局まだ何も決まってないってこと?」

 リゼリアはわずかに眉をひそめた。


「考えてはいた。」

 アッシュの声は静かだったが、感情の読めないその言い回しには、不思議と重みがあった。

「だが、考えたことと、実行できるかは別問題だ。」

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