第14話 導かれぬ声
昼前、山道は低い谷間に差し掛かった。まわりは密集した針葉樹に囲まれ、太陽の光は厚い枝葉に遮られ、空気は湿った冷気に満ちていた。
アッシュは手を上げ、合図して足を止める。
彼はしゃがみ込み、指先で泥の地面に残された乱れた痕をなぞった——
それは、深くて重い爪跡。そしてその合間には、砕けた蹄の跡も混ざっている。
「……何かいるな。」
その声は、風と混ざり合うほど低かった。
リメアが近づき、匂いを嗅ぐように鼻を動かし、耳膜をぴんと張った。
そして、極めて小さく呟く。
〈……獣の匂いとはちがうみたい〉
リゼリアもしゃがみ込み、足跡をひとつずつ確認していたが、その表情が徐々に強張っていく。
「誰かに使役されてる魔獣……ね。足跡の向き、ちょうど私たちが進む方角と一致してる。」
アッシュは何も言わず、リゼリアをリメアの反対側に押しやり、自分が外側に立つ。
まるで二つの世界の間に線を引くように——
だが、彼はわかっていた。
もしそれが組織的に操られた魔獣なら、先日の国境での異変と無関係ではないはずだ。
谷口に近づいたとき、風がかすかな焦げ臭さを運んできた。
木々の陰から、低く唸るような咆哮と、金属のぶつかる音がかすかに聞こえてくる。
アッシュは声を低くして言った。
「隠れろ。」
彼はリメアを傍の斜面の陰に押しやり、振り返ると、リゼリアがまだその場に立ったまま、音のする方角をじっと見ていた。
その目は、何かを見極めようとしているようだった。
「……あれは——」
彼女が言いかけたその瞬間、アッシュが彼女の口を手で塞いだ。
「静かにしろ。」
彼の眼差しには、微塵の情もなかった。
「奴らに気づかれたら、次の瞬間にはお前の命がないぞ。」
木々の向こうでは、ボロボロの鉄甲を纏った巨大な狼と甲殻を持つ獣たちが、護送中の馬車を取り囲んでいた。
護衛の傭兵たちの多くはすでに血溜まりの中に倒れており、残った者たちは、必死で荷台の箱を守っていた。
その車隊の旗に描かれていた商標——
アッシュは一目で、ヴァステリア連邦の紋章だと気づいた。
胸の内がきゅっと締め付けられる。
連邦の商隊が王国領内のこの山道を通るのは、それ自体が不自然だった。
さらに不自然なのは、あの魔獣たちの動き——
まるで戦術を理解しているかのように、連携し、道を断ち、包囲している。
「放っておけば、あの人たちは死ぬわよ。」
リゼリアが低く呟いた。
アッシュの手は剣の柄を握りしめた。
目に一瞬、迷いの色が差す。
連邦は好きではない。だが、異常な魔獣の襲撃を見過ごすこともできなかった。
……だが、もう昔の自分ではない。
アッシュはくるりと身を翻し、別の道へと進もうとする。
リゼリアはその背を見つめ、視線を再び、谷の中で包囲された護衛たちへ向けた。
その眉が、わずかに寄る。
次の瞬間、彼女はふと横にいるリメアに目を向けた。
〈あなた……助けたいんでしょう?〉
リメアは小首をかしげ、耳膜をぎゅっとたたみ込んだ。
〈あの魔獣たち……すごく、苦しんでる〉
その声は、まるで息のように微かだった。
アッシュには彼女たちの龍語は聞き取れない。
だが、その声の調子と、視線の交わし方から、彼は一瞬で察した。
「……っ!」
次の瞬間、リメアが藪から飛び出し、谷口に向かって駆けていった。
アッシュの顔が一気に険しくなる。
「チッ……!」
低く呪詛のように吐き捨てた。
——この件に首を突っ込むつもりはなかった。
だが、あの赤い目の魔獣の群れの中にリメアが飛び込めば、待つのは死だけ。
「バカめ!!」
歯を食いしばりながら、アッシュは剣を抜き、彼女を追って谷へと駆け出した。
谷の中は、何かに捻じ曲げられたかのようだった。
ぬかるんだ地面には巨獣の蹄と爪による深い溝が刻まれ、空気には焦げと血の匂いが混じって漂っていた。
破れた甲冑を身にまとった三頭の巨大な狼が、前方で身を低く構え、病的な赤い光をその目に宿している。
さらに奥には、背中に符文入りの杭を突き立てられた、より巨大な甲殻獣の姿が見えた。
その動きには獣らしい狂暴さはなく、まるで見えざる命令に従うような、恐るべき統制があった。
「リメア、下がれ。俺が奴らの注意を引く。その隙に車の裏手へ回れ。」
アッシュの声は低く、だが否定を許さない鋭さを帯びていた。
リメアは口を開きかけたが、アッシュにぐいと押され、斜面の陰へと追いやられる。
リゼリアは、杭に刻まれた符文を鋭く睨みつけたが、余計なことは言わず、反対側の藪へと滑り込んだ。
アッシュは濡れた土を踏みしめながら坂を駆け下りる。
剣を斜めに振り上げ、突っ込んできた狼の喉元を逸らす。
鋭い爪が彼の鎧をかすめ、焦げ跡のような黒い傷痕を残した——それは、焼けるような符文の灼熱だった。
彼はすぐに魔導銃を反転させて引き金を引く。
炸裂する符弾が甲殻獣のひとつを押し戻したが、その衝撃が腰の古傷を強く揺さぶり、鋭い痛みが奔る。
狼たちは低く唸りながら再び隊列を整え、挟み撃ちを仕掛ける。
アッシュは歯を食いしばり、わざと足元をふらつかせて、狼の一頭を誘き寄せる。
刃を翻し、その一体を側面の木へと追い詰めた——すると、枝葉の間から影が閃く。
「——下がって!」
リゼリアの声とともに、かすかな歌声が響いた。
狼の動きが一瞬止まり、見えない何かに耳を引かれるように、その動きが緩慢になる。
アッシュはその隙を逃さず、剣を首の関節に突き立て、熱い血飛沫とともに刃を引き抜いた。
斜面の向こうから、リメアが駆け出す。
小さな身体で全力を込めて、車隊に迫っていた甲殻獣を体当たりで弾き飛ばす。
彼女の尾が一閃し、獣の背に突き刺さった杭を叩き斜めに折った。
符文の光が一気に弱まり、支配が解けたその魔獣は、断末魔のような叫び声を上げ、四肢をばたつかせて林の奥へ逃げていった。
アッシュは、その杭に目を留めた。
魔力を帯び、符文が刻まれている……ただの杭ではない。
かつて一部の密術に使われていた、符釘——
獣の精神に干渉し、意志を強制するための術具だった。
「符釘が制御の鍵よ!」
リゼリアが歌いながら叫ぶ。
彼女の指が、まだ残っている魔獣の背中を指し示す。
アッシュは即座に位置を変え、狙いを定めて魔導銃を構える。
弾が炸裂し、符釘が砕け散る。
その瞬間、獣の赤い目がふっと消えた。
残された最後の狼は状況を察し、すぐさま反転して森の中へと逃げ去った。
谷の空気には、焦げと血の匂いがなお残る。
アッシュは剣を納め、さきほど倒した甲殻獣の死骸に歩み寄る。
その背から符釘を一本引き抜く。
白い表面にはまだ赤みが残っており、骨に刻まれたように複雑な符文が刻まれていた。
だがその形状は、アッシュが知るヴァステリア連邦の製法とは違っていた。
彼は眉をひそめ、符釘を何度も裏返して確かめ、その顔がいっそう険しくなる。
一方、制御から解放された甲殻獣は、すぐには逃げ出さなかった。
その場に立ち尽くし、まるで何かを確認するように、ゆっくりとリゼリアを見つめた。
彼女の歌声はすでに止んでいたが、その眼差しと呼吸は乱れていない。
しばし無言の視線が交錯し——まるで何か見えない糸が張られ、そして切れたように——
魔獣は静かに背を向け、森へと姿を消した。
アッシュはそのやり取りを見逃さなかった。
冷たい目で彼女を一瞥し、言い捨てる。
「得意げになるなよ、魔女。」
叱責されると覚悟していたリゼリアは、そのあっさりした言葉に少し面食らったような表情を浮かべる。
彼女は肩をすくめ、言い返すことなく黙っていた。
遠くでは商隊の残党がまだ混乱の中にあり、こちらを警戒するような目で見ていた。
アッシュは符釘をしまいながら、低く言った。
「行くぞ。ここは長居すべき場所じゃない。」
歩きながら、彼はさらに冷たく警告を加える。
「もしあの商人たちに顔を覚えられてたら……俺たちはもう詰みだ。」
リゼリアは眉をひそめたが、反論はせず、黙って彼のあとを追った。




