第122話 偽りの儀式
夜が明ける前、アッシュはリメアを連れて村を出て、氷河のそばで数匹の川魚を釣っていた。
リメアはあくびをしながら、魚の尾をかじって口をもぐもぐ動かす。
【なんで肉を獲らないの?】
アッシュは釣り糸を手繰りながら、少し警戒した声で答えた。
「…………魔女って、動物と『話す』ことがあるらしい。下手に獲物を殺すと面倒になる。」
リメアは尻尾をぱたぱたと振り、魚の胴体をがぶりとかじった。
【わかったよ〜。でも、やっぱり焼いた方が美味しいな。】
魚を持って石造りの家に戻る頃には、朝霧がまだ地を覆っていた。
アッシュは水瓶を満たし、裏庭で薪を割る。
リメアはすでに壁際で丸くなり、静かな寝息を立てていた。
「朝からご苦労ね。」
気怠げな声が裏口から響いた。
セリスが伸びをしながら戸口にもたれ、興味深そうな目でアッシュを見ていた。
アッシュは振り返らず、淡々と薪を割り続ける。
「薪を多めに用意しておく。今日中に出発するから。」
「東へ向かうんでしょ?」
セリスはあくび交じりに、しかし確信を持った口調で言う。
アッシュは少し動きを止め、低く問い返す。
「……どうして聖遺物が偽物だとわかった? 最初から見抜いてたのか?」
「ふふ——魔女だからね。」
彼女は目を細め、皮肉っぽく笑う。
アッシュは薪割りを止め、しばらく彼女を見つめてから問う。
「……お前も、聖女だったのか? リゼリアがお前を『おばあさま』と呼ぶ……彼女、本当にお前の孫か?」
セリスはさらに笑みを深め、黒髪をかき上げながら軽く言った。
「想像力、豊かね。」
そう言って、わざとゆっくりとした足取りで屋内に戻ろうとする。
その背にアッシュがふと声をかける。
「魚、食えるよな?」
彼女は足を止め、返事はしなかったが、口元にうっすらと笑みを浮かべた——肯定の証。
次の瞬間、何かを思い出したように、セリスはまた戻ってきてアッシュの正面に立つ。
肘を軽くついて顎に手を添え、じっと彼を見つめる。
その視線が長く続き、アッシュはついに眉をひそめた。
「……なんだ?」
セリスはふっと笑い、鋭さを帯びた茶目っ気のある瞳で問う。
「もしかして……あんた、リゼリアのこと好きなんじゃないの?」
アッシュは一瞬、言葉を失ったが、否定せず視線を逸らして低く答えた。
「……前に、ちょっと考えた。多分、そうだ。」
セリスは驚いたように眉を上げ、意外そうに言う。
「へえ……意外と素直なのね。彼女には言う気ないの?」
「言っても、何も変わらない。余計にややこしくなるだけだ。……俺たちの立場では、特に。」
言い終える前に、セリスは指先を彼の唇にかざし、言葉を遮るようにした。
そして悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「その言葉は、『ノアディス』として? それとも――『アッシュ』として?」
アッシュは一歩引き下がり、木材を抱えて低く答える。
「……どっちでも同じだ。」
「それに……アエクセリオンのこともある。」
それだけを残し、彼は木材を抱えて厨房へ向かう。
その背は冷たく、そして決然としていた。
セリスは彼の背を見送りながら、微笑を浮かべて呟く。
「……立場、ね。面白い子。」
彼女は振り返り、庭の隅で丸まって眠るリメアに視線を向けた。
そっと歩み寄り、しゃがみ込んで肘を膝にのせ、朝光の中で琥珀の瞳を光らせる。
「鱗の色が……少し違うわね。大きくなれば、同じ姿になるのかしら?」
小声でつぶやいたその声に、リメアはぴくりと体を動かしたが、ただ寝返りをうつだけで、再び静かに眠り続けた。
セリスはその安らかな寝顔を見つめながら、まるで解けない謎を観察するかのように微笑み、ぽつりと呟く。
「……ずいぶん、危機感のない育て方ね。」
視線を鋭くしながら、ほとんど独り言のようにささやく。
「さっき、彼はアエクセリオンの名前を口にした……リゼ、やっぱり彼にはまだ本当のこと、話してないのね。」
厨房には、ほのかな魚の香りが漂っていた。
アッシュは集中した様子で、川魚を鍋に入れ、炎の灯りがその横顔を照らしていた。
そこへ、リゼリアがマントを抱えて入ってくる。
どこか申し訳なさそうな表情。
「……ごめんなさい。少し寝すぎちゃった。」
アッシュはちらりと彼女を見て、淡々と答える。
「気にするな。」
リゼリアは数歩近づき、処理された魚を見て、少し驚いたように声を上げる。
「……これ、あなたが捕まえてきたの?」
「ああ。」
アッシュは湯をかき混ぜながら短く答える。
「何か手伝おうか?」とリゼリアが尋ねたその時、衣擦れの音がしてセリスが入ってきた。
彼女は二人の間を一瞥し、皮肉めいた微笑を浮かべる。
「おばあ様?」
リゼリアが戸惑いながら問う。
「……さっき、二人で何を話してたの?」
アッシュは視線を上げずに答える。
「大したことじゃない。すぐにできるから、座ってて。」
セリスは椅子に座り、頬杖をついて気怠げな様子。
リゼリアも隣に座り、小さな声で言った。
「……おばあ様、私、やっぱりエルのことが心配。」
「エル? ああ、あの子ね。」
セリスはくすりと笑う。
「心配いらないわよ。教国にとって聖女は象徴なの。あんな便利な存在、そう簡単に手放さない。」
アッシュが眉をひそめて口を挟む。
「でも……儀式が虚構なら、聖女は誰でもいいんじゃないのか?」
セリスの琥珀色の瞳が細くなり、唇に皮肉な笑みを浮かべる。
「ええ、確かにそうよ。」
「……それなら、なぜ?」
アッシュの声に重さが乗る。
セリスは頬に手を添え、怠そうに言いながらも、その目は鋭く光っていた。
「確かに『誰が聖女か』は重要じゃない。でも、聖女の力は本物。血筋……それは守らなきゃならない。」
一拍おいて、まるで何でもないような口調で残酷な言葉を口にする。
「エルは力に目覚めていないけれど、その血統は純粋。……だから、適当な男を当てがって子どもを産ませればいいのよ。その中に、力を継ぐ者が現れるでしょう。」
静寂が降りた。
リゼリアは唖然とセリスを見つめ、顔から血の気が引いていた。
指先が震え、スカートの裾をぎゅっと握る。
セリスはそれを無視して、軽やかに続けた。
「……今、儀式は失敗した。でも、彼らはすぐに『もう一人の候補』を思い出すんじゃないかしら。
つまり——あんたをね。」
「……そんなの、許せるわけない!」
アッシュが声を荒げた。
気づけば拳を握り、白く浮かんだ関節が震えていた。
落ち着きを取り戻そうと深く息を吸い、低く問い直す。
「……それでも奴らは、儀式を強行する気か?」
セリスは彼を一瞥し、唇に皮肉を浮かべる。
「今? まさか。あんたが儀式を壊してくれたおかげで、彼らは『口実』を手に入れたのよ。」
彼女は手をひらひらさせながら言う。
「『王国の反逆者が聖女を攫い、封印の儀式を破壊した』——この台詞、耳に心地よくない? これで堂々と戦争を始められる。」
リゼリアの息が止まりそうになる。
「……教国が、王国に戦争を仕掛けるってこと……?」
セリスはくすりと笑う。まるで軽い冗談のように。
「それが彼らの大好物。『聖戦』って呼ばれる、血と名誉の饗宴よ。」
場の空気は一気に冷え込む。
アッシュは黙ったまま、拳を流し台に叩きつけた。
鈍い音と共に食器が微かに震えた。
「……私たちは、どうすればいい?」
リゼリアの問いは、掴みどころのない迷いを帯びていた。
だがセリスは、まるで興味を失ったかのようにあくびをし、話題を変える。
「……で、スープはまだ? お腹空いた。」
アッシュは表情を引き締め、三つの椀にスープをよそう。
湯気の立つ白濁したスープを口にしたセリスは、ふと目を見開く。
「……おいしいじゃない。」
それは久しぶりに見せた、素直な賞賛だった。
唇に笑みを浮かべ、茶化すように呟く。
「こんなまともなもの、何年ぶりかしら。」




