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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十二章:魔女の地

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第120話 封印の嘘

 アッシュは割った薪を台所に運び、炉の傍に置いた。

 土鍋の水はすでに底をついており、彼は再び中庭の井戸へ向かい、水を一桶汲んで戻ってきた。ついでにリゼリアの火加減を手伝う。

 かまどの前では、リゼリアがすでに大根や根菜、玉ねぎを刻み終えていた。

 その包丁さばきは明らかに慣れておらず、野菜の大きさはバラバラだった。

 アッシュはちらりと覗き込み、眉をほんの少し動かす。


「……笑わないで。」

 リゼリアは顔を伏せ、小さく呟いた。

 切った野菜を一気に鍋へ放り込む。蒸気が立ちのぼり、その白い湯気が彼女の蒼白な頬をほんのり包んだ。


 アッシュが何気なく尋ねる。

「前もこうして魔女に飯を作ってたのか?」


「違うわ。」リゼリアは首を横に振り、遠くを見つめた。

「彼女が食事を作らせるなんて、ほとんどなかったわ。」

 台所には短い沈黙が落ちた。火の弾ける音だけが空気を埋める。

 アッシュはテーブルの脇にもたれ、黙って彼女の背中を見つめていた。

 彼女が鍋の蓋をそっと閉じた、その時。


「……あのとき、小川のそばで。」

 彼の声がふと低くなった。

「どうして、ひとりで外に出てた?」


 リゼリアは少し驚いたように息を呑んで、それから静かに口を開いた。

「……あのときは、おばあ様に気づかれないようにこっそり抜け出したの。

 もう一度行けば、またあなたに会えるんじゃないかって……」

 苦笑いを浮かべ、続ける。

「でも、その夜すぐに聖教国の者に見つかって、連れ戻された。」


 アッシュは目を細める。

「……つまり、それまでずっと魔女と一緒にいた?」

 その言葉の先に浮かんだのは、別の名だった。


 ――アエクセリオン。

 なぜ、あの竜は自分を聖教国の境界まで運んだのか。

 あれは偶然か、あるいは何か意図があったのか。

 それとも……

 彼は口を閉ざし、眉間に深い皺を刻む。

 リゼリアは彼の思考を察したが、何も追及せず、ただ鍋を見つめ続けていた。


「……アエクセリオン。」

 アッシュの声が低く響く。

 リゼリアの肩がはっきりと震え、手に持っていた杓文字が危うく落ちそうになる。

 まさか、彼の口からその名が出るとは思っていなかった。

「……あいつは、お前に何を言った?」

 声は感情を含まないが、芯のある静けさがあった。


 リゼリアは背を向けたまま答えず、鍋の蒸気の中で息苦しさを覚える。

 アッシュはため息をついて彼女の背後へ歩み寄る。

 腕を伸ばし、彼女の横から鍋の蓋をそっと外し、杓文字を取り上げて湯の中を静かにかき混ぜた。

 まるで、以前に一緒に食事を作ったことがあるかのような、自然な手つきだった。

 リゼリアが身を引こうとした時、彼の腕がそっと背後から彼女を抱き寄せた。


「……アッシュ?」

 声が震える。

 しかし彼はすぐに手を放し、彼女の手を杓文字の柄へと導き、穏やかに言う。


「……しっかり持て。」

 そして戸棚へ向かい、粗塩の壺を取り出して戻ってくる。

「もう少し煮たら、これを少し入れろ。」


 リゼリアはまだ混乱したまま、ぼんやりと彼を見つめていた。

 あの短い抱擁に、心がまだ追いつかない。

「……わかったわ。」

 小さな声で答える。


 彼がなぜ突然距離を詰めてきたのか、リゼリアには分からなかった。

 けれど一つだけ確かだったのは、自分がその優しさに期待してはいけないということ。

 彼女はそれを誰よりもよく知っていた。


 アッシュが背を向けて立ち去ろうとした時、リゼリアの声が背中に届く。

「……アッシュ。」

 彼は足を止めたが、振り返らない。

「彼女とゆっくり話すといい。俺は邪魔しない。」

 リゼリアは何か言いたげだったが、止める理由が見つからなかった。


 ちょうどその時、足音がして、セリスが厨房へ入ってきた。

 彼女はアッシュの姿を一瞥し、何気ない調子で、しかしどこか圧を伴って言う。


「まだスープはできてないの?」

 視線を巡らせ、アッシュが立ち去ろうとするのを見てクスリと笑う。

「座って。あんたに聞きたいことがあるの。」


 アッシュは少しの沈黙の後、黙って椅子に腰を下ろす。

 リゼリアは慌てて鍋を持ち、三つの椀にスープをよそって机に並べた。

 セリスは裾を整えて椅子に腰掛け、脚を組むと、レンゲでスープをひとすくい。

 そっと息を吹きかけてから口に運ぶ。

「ここまで逃げてきて、これからどうするつもり?」

 リゼリアが答えようとするが、セリスは手を上げて制し、釘を刺すようにアッシュを見つめる。

「……あんたに聞いているのよ。」


 アッシュは動じず、低い声で言った。

「リゼリアがここにいて安全なら、彼女はここに残るべきだ。俺はリメアと共に東へ向かう。」

「東?」セリスが目を細める。

「……ああ。」


 セリスは小さく笑い、再びスープを一口。

「切り方はバラバラだけど……味はまあまあね。」

 彼女はリゼリアを見て続ける。

「戻ってからは、自分でスープを作れるようになったのね。もう、あの小動物たちに果実を運ばせるだけじゃなく。」


 リゼリアは一瞬きょとんとしてから、無意識にアッシュの方を見た。

 アッシュはスプーンでスープをかき混ぜながら、目を伏せ、口もつけない。

 セリスはそれを見て、意味ありげに笑う。

 スプーンを置くと、物語を語るような口調に変わった。


「――封印の儀式は、竜王が心臓の結晶を差し出し、聖女が命を捧げる。

 その儀によって封印が強化され、世界に平和が訪れる……」

 彼女は突然、手を叩いた。その音が石造りの小屋に不気味に響く。

「めでたいわね、実にめでたい。」

 その声が急に低くなり、彼女は机に肘をついてアッシュをじっと見た。

「……でもね。」


「――見事に、儀式を台無しにしてくれたわけ。」

 彼女はアッシュを見つめ、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。

「その先に何が起きるか、あんたは分かっているのかしら?」


 空気が一気に張りつめ、室内には焚き火の音だけが残る。

 アッシュはついに顔を上げ、彼女を見返した。

「知らないな。――世界が滅ぶとでも?」


 セリスは一瞬目を見開いたが、すぐに大笑し、手を払った。

「そんなわけ、ないでしょう? あれは子供を脅かすための、おとぎ話みたいなものよ。」


「……おばあ様 、それって……」リゼリアが思わず口を挟む。

 アッシュも続けて尋ねる。

「つまり……リゼリアが儀式をしても、死なないってことか?」


「死ぬわよ?」

 セリスは当然といった口ぶりで言う。

「でも、おかしいと思わない? ただの迷信だっていうのに、なぜ聖女が命を捧げなきゃいけないのか。

 しかも、あの『聖遺物』、あんたが仕組んだ偽物でしょ? 儀式が成功するわけがない。

 なのに、なぜ彼女を助け出したの?」


 リゼリアが目を見開き、問いかけるようにアッシュを見た。彼女自身、その疑問を抱えていた。

 アッシュは沈黙する。

 だが、セリスは自分でその答えを続けた。

「だって、儀式は――成功するんだもの。」


 再び沈黙が落ちる。

 セリスは何事もなかったようにスープを飲み、微笑む。

「面白いでしょう?」


 アッシュは椀の縁を指で軽く叩き、ぽつりと言った。

「……やっぱりな。俺もそう思っていた。」

 彼はセリスをじっと見つめる。

「つまり、『封印の強化』なんてのは存在しない。ただ聖女の命を差し出させることで、信仰と支配を強めているだけ。

 聖遺物が本物かどうかは関係ない。肝心なのは――聖女が本当に死ぬかどうか、だ。」


 彼の視線は鋭くなり、問いを投げる。

「……じゃあ聞かせろ。魔女として、お前はなぜ彼女を攫った? 本当に守るためか?」

 彼はさらに問いを重ねる。

「いや、そもそもだ。――『魔女』とは、何者なんだ?」

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