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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十二章:魔女の地

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第119話 魔女の家

 小道を登るにつれて、気温は徐々に上がっていった。

 丘の頂に、ぽつんと一軒の石造りの家が建っていた。

 その前には、一面に咲き誇る花畑。

 まるで季節の境界を越えてしまったかのように、春の陽射しが降りそそぎ、花々がそよ風に揺れている。空気には、ほんのり甘い香りが混じっていた。

 家の前には枝葉が生い茂った大きな木が立ち、その枝から吊るされたブランコが、風に合わせてゆらゆらと揺れている。


 アッシュは足を止め、剣の柄に手をかけながら警戒を強める。

「……妙だな、ここ。」

 彼は低くつぶやいた。

 リゼリアがふと振り返るが、何も言わない。


 その時、リメアの耳がぴくりと動いた。

【アッシュ、誰かいる。】

 心声が静かに告げた。


 アッシュの背筋がぴんと張りつめ、即座に魔導銃を抜く。銃口はまっすぐ石造りの家を向いていた。

 突然、突風が吹きつけ、花弁と葉が空中に舞い上がる。

 風が止むと――石造りの家の前に、いつの間にかひとつの黒い影が立っていた。


 それは、女だった。

 三十歳前後。細身で、足首まで伸びた黒髪は墨のように艶やかで、身体の側に沿って流れている。

 ぴったりとしたロングドレスは腿のあたりまで深くスリットが入り、白い脚線が覗いていた。蒼白い肌には、かすかに青色の血管が浮かび、その異質な色彩は黒髪と衣装とあいまって、どこか人ならぬ印象を与える。

 淡い琥珀色の瞳がリゼリアに向けられる。

「戻ってくるなんて、珍しいこともあるのね。」


 感情のない声が、静かに響いた。

「……おばあ様。」

 リゼリアが一歩踏み出す。声は震えていた。


 アッシュはわずかに目を見開き、銃を握る手に力を込める。

「……魔女か。」

 次の瞬間、血煙のような赤い霧が、彼女を包み隠した。風圧が波のようにアッシュたちへと押し寄せた。

 アッシュは反射的に銃を構えたが、リゼリアがそっとその手を押さえ、小声で囁いた。

「大丈夫。彼女は私たちを傷つけない。」


 アッシュの視線はなおも警戒を解かず、女を見据えたままだったが、その直後に襲いかかる更なる風に、思わず目を細めた。

 リゼリアが首を振り、そっと銃を下ろすように促す。


 アッシュは数秒黙った後、銃をゆっくりとしまった。

 だがリメアは動かない。まっすぐ女を見据えたまま、尾を立ててリゼリアの前に立ちはだかった。その姿は、明確な「守る意志」を示していた。

 リゼリアはリメアの首元に手を添え、優しく撫でて落ち着かせると、前に出る。

 アッシュは思わず手を伸ばしかけたが、リゼリアが彼に向けた視線は揺るがなかった。


「お願いがあります、おばあ様。」

 その声はまっすぐで、静かで、決して揺らがない。

「力を貸してください。」


 女は首をかしげ、視線をアッシュとリメアに一度流し、再びリゼリアへと戻した。

 ふう、と小さく息を吐き、踵を返す。

 そしてブランコに優雅に腰掛け、脚を組む。椅子が風に合わせて微かに揺れた。


「ふん……いいでしょう。」

 唇の端にうっすらと笑みを浮かべながら、気怠げに言う。

「可愛いリゼリアが、何を頼みに来たのか、聞いてあげましょう。」

 そう言って、彼女は再びちらりとみんなを見た後、あっさりと言い放った。

「……でもその前に。お腹が空いたの。スープでも作ってちょうだい。」


 そう言いながら、手のひらを返すと、真っ黒な一冊の本が浮かび上がる。軽く振ると、自動的にページがめくれ、魔女の視線はもう二人と一頭の竜に向けられることはなかった。ただ、静かに読書を始める。


 アッシュは眉をひそめ、リゼリアに低く尋ねた。

「……これは、一体どういう状況だ?」

 リゼリアは苦笑しながら、彼の手を取って裏手へと導く。リメアもすぐに後に続いた。


 木の扉を開けると、中は質素だがきちんと片付いた厨房。竈には前回使われた痕跡が残っている。


「名前は――」

 リゼリアはふと声を落とす。

「……セリス。私を連れ出した魔女よ。」


 アッシュの目が鋭くなる。

「……あいつ、お前を苦しめたんじゃなかったのか? どうして――」

 リゼリアは彼の言葉を遮った。

「私たちは今、教国に追われている。頼れるのは彼女だけ。……教国とは敵対関係にあるから、少なくともここでは安全よ。」


 その目には揺らぎがなかった。

「私たちを殺す気なら、最初からそうしてるはずよ。今さら、手間なんてかけないわ。」

 彼女は壁際の薪を指差す。

「薪を割って。火を起こすから。」


 アッシュは一瞬迷ったように黙り込んだが、やがて無言で頷いた。

 外に出ると、マントを脱いで扉の横にかける。この場所の空気は外とは別世界のように暖かく、妙に落ち着かない。

 彼は斧を手に取り、薪割りを始めた。

 リメアはその横で、尾を使って薪をきれいにまとめていく。


「――なるほど。やっぱり、あんただったのね。」

 背後から、ふいに落ち着いた声がした。

 アッシュは動きを止めて振り返る。魔女――セリスが、いつの間にか背後に立っていた。手には例の黒い本を持ったまま。

「この子が祭壇で命を落とさずに済んだのは、あんたって男が支えてたからなのね。」


 アッシュは何も返さず、ただ再び斧を振り下ろす。

 リメアがびくりと震え、尾が一瞬逆立った。

 セリスはくすくすと笑う。

「無視? 面白いわね。」

 そして、視線をリメアへと移し、口元にうっすらと笑みを浮かべる。

「竜まで怯えるとは……まだ完全には目覚めてないみたいね。」

 その言葉に、アッシュの手が止まる。彼女の意味を問いかけようとしたが――


 セリスはもう、踵を返して去っていった。風の中、長い裾がふわりと舞い、姿はすぐに視界から消えた。

 アッシュはその背中を黙って見送り、拳をぎゅっと握りしめる。

 目を落とすと、リメアの胸元の鱗が一瞬光った。


【……そうだ、アッシュ。あの鱗、返すよ。】

 リメアが、そっと心声で告げた。

 アッシュは首を横に振り、斧を持ち直す。


(持ってていい。……俺には、持っていても意味がない。)

 その想いは、言葉にはならなかった。


 リメアは短く返事をして、地面に丸まる。

 アッシュは静かに息を吸い込み、薪を割り続ける。

 その音が静寂の中に響き、彼の肩は一定のリズムで上下する。

 だが、その胸の奥には重たい塊が居座っていた――


 またしても、自分の意志では動けない。

 ただ盤上に置かれた駒のように、誰かの決定を待つしかない。

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