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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十二章:魔女の地

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第118話 雪林の誓い

 アッシュは洞窟の結界を解き、再び歩き出した。

 リメアが彼の後に続き、雪を踏みしめながら進む。その背には横向きに座るリゼリアの姿。彼女の指先は、肩にかけたマントを、指先でぎゅっと掴んでいた。心の動揺を抑え込むように。


「……アッシュ。」

 ようやく声を発したリゼリアは、かすかな声で言った。

「助けに来てくれたことには……感謝してる。でも、これであなたまで巻き込まれてしまった。そんなふうにまでしてくれる必要はなかったのに。私に……そこまでしなくてもよかったのよ。」


 アッシュはすぐに答えなかった。枝を払い、黙々と歩き続けた。

 そして、雪を踏みしめる音の中、低く静かな声が返ってきた。

「別に、お前に特別なことをしたわけじゃない。」

 振り返ることなく、淡々と事実のように言う。

「自分が正しいと思ったことをしただけだ。」


 彼の足が止まる。雪に沈む足元から、鈍い音がした。

 アッシュは肩越しに彼女を一瞥する。その瞳は冷静で、けれどどこか鋭い。

「……考えたんだろう? もし祭壇にいたのがエルセリアだったら、俺は動かなかったんじゃないかって。」


 リゼリアの呼吸が止まる。胸の奥がぎゅっと縮まり、マントを握る手に力がこもる。

 アッシュは視線を前に戻し、歩を進める。

「儀式は聖女を犠牲にするだけじゃない。……竜族も巻き込まれていた。リメアも、奴らの手に落ちていた。俺が何もしないはずがない。」

 彼はわずかに肩をすくめ、皮肉げに笑った。

「相手がエルセリアだったとしても、止めていただろうな。」


 リゼリアの胸に、何かが音を立ててぶつかってきた。温かくて、でもどこか切ない痛みが広がる。

「……でも、聖遺物が偽物だったのは、どうして?」

 小さな声で問いかける。「いつ、すり替えたの?」


 アッシュは雪を踏みながら答えた。

「メリッサに頼んでおいた。エルセリアとセイフィナの様子が不自然だったからな。あの箱に異様な執着を見せていた。だから、あえて偽物を用意して……奴らの目の前で渡した。」

 言いながら、自嘲気味に笑う。

「開けられるのは俺の魔力だけ。中を確認できないとなれば、奴らも判断できない……と思ったが、まさか俺ごとさらってくるとはな。」


「……じゃあ、本物はどこに?」


 アッシュは一瞬、遠くの空を見上げ、目を細めた。

「フィリシアが持ってる……はずだ。」

 それは希望とも祈りともつかない、淡い言葉だった。


 リメアが低く唸り、前脚で雪をかすかに掻いた。

 アッシュは剣の位置を調整し、辺りを警戒しながら再び進み始めた。

 ……そのときだった。

 リメアの体がぴくりと跳ね、蒼い瞳が林の上空を射抜くように見つめた。鱗が逆立ち、背筋は張りつめた弦のように緊張する。


「……どうしたの?」

 リゼリアが小声で尋ねる。

「……何か来る。」

 その低い声が、リゼリアの耳元に届いた瞬間――

 彼女にも聞こえた。遠く、空の彼方から響く低い咆哮。風を裂く翼音と共に、竜の気配が迫ってくる。

「竜……!?」


 アッシュの表情が引き締まり、すぐさま命じた。

「リメア、樹の下へ!」

 リメアはすばやく巨木の根元に身を潜めた。アッシュはリゼリアの肩に手を添え、共に身を低くする。雪と影の中へと身を滑り込ませた。

「なぜ……竜が? ここはセラフィア教国の領内なのに……竜騎士団は入れないはずでは?」

 リゼリアが息を殺してささやく。


 アッシュは首を横に振り、人差し指を唇に当てて制した。

 リメアには「静かに」と手で合図する。

「……仲間の声を聞き取れる。」

 続けて小さく付け加えた。

「……第二王子、オズモンドの竜騎士かもしれない。」


 ――轟音が空を裂く。

 巨大な影が林を通過し、雪と風を巻き起こす。

 雪が崩れ、枝が折れ、彼らの上に覆いかぶさるように落ちた。だがその雪が、逆に彼らを覆い隠し、存在を消した。

 しばらくして、空からの気配が去る。


 アッシュはようやく息を吐き、剣の柄にかけた手はまだ力を込めていた。

「……このままじゃ、安全な隠れ場所を見つけるのは難しい。」

 その声には、焦りを抑え込んだ色がにじんでいた。


 だが、リゼリアははっきりとした声で言った。

「知ってる場所がある。」

 アッシュが振り返ると、彼女はまっすぐ彼を見ていた。

「……信じて。そこなら、きっとしばらくは身を隠せる。」

 その瞳に迷いはなかった。



 雪の深さは増し、風は枯れ枝を叩いていた。

 アッシュは先頭を歩き、剣に手を添えたまま常に警戒を怠らない。

 リゼリアはリメアの背に乗り、小声で進む方向を指示する。リメアは足跡を消すように尾で雪を払っていく。

 どれほど歩いただろうか。木々がまばらになり、風の音さえ遠のく。雪嵐が、まるでどこかで切り離されたように静まっていた。

 前方に、厚雪に覆われた細道が現れる。その両側には、苔と蔦に覆われた古びた石の壁。誰にも忘れられたかのような古道だった。


 アッシュはしゃがみこみ、雪を払いながら地面を確かめる。

 石畳の下に、かすかな魔力の痕跡が残っていた。結界が張られていた気配。しかし、不思議なことに、それは彼らを拒むことなく道を開いていた。

 アッシュは無言のまま剣を握り、警戒しながら進む。

 道の先に、崩れかけた石造りのアーチが見える。

 風雪に削られた紋様はほとんど判別できないが、わずかに不穏な気配を漂わせていた。


 アーチをくぐった瞬間、風の音が消える。

 そこにあったのは――朽ち果てた村だった。

 地面には雪ではなく、枯れ草が敷き詰められ、空気は異様に静まり返っている。

 崩れた家屋、歪んだ屋根、朽ちた窓枠には錆びた風鈴がぶら下がっている。風が吹けば、かすかな音が鳴り、それがまるで囁きのように響く。

 すべてが、時間の流れから切り離されていた。

 昼とも夜ともつかぬ、無色の静寂。


 アッシュは足を止め、警戒の色を強めながら周囲を見渡す。

 この異様な沈黙は、吹雪よりも不気味だった。

「……ここは?」

 問いかける声は低く、重い。


 リゼリアはマントを握りしめ、一瞬だけ躊躇した後、ぽつりと呟く。

「……子供の頃、住んでいた場所。」

 伏せたまつ毛の影が揺れた。

「……魔女が、私をここに連れてきたの。」


 アッシュの眉が僅かに動く。

「なぜ、戻ってきた?」

 声は低く、疑念を含んでいた。


 リゼリアはリメアの背から降り、村を一望するように見渡す。

 そして、祈るように言った。

「……ここなら、少しの間だけでも、私たちを守ってくれるはず。」

 口元に浮かぶのは、どこか懐かしげな、それでいて苦い微笑。

「……記憶と変わらない。何も……変わっていないわ。」


 そう言って、彼女は村の奥へと歩き出した。

 枯れ草を踏む足音が、静寂の中でさざ波のように響いた。

 まるで、長い眠りについていた何かが、目を覚ますのを待つかのように。


 アッシュは無言で様子を見つめた後、静かに手を上げてリメアに警戒を促し、後に続いた。

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