第117話 雪解けの息
洞窟の入口に吹き込んでいた風が、ひととき静かになる。
揺れる焚き火の明かりが、微かな煙と苔の匂いを洞窟の奥まで染み込ませていた。
リゼリアは、あたたかさに包まれたまま、静かに目を覚ました。
頭がまだ少しぼんやりしていて、まぶたが小さく震える。
最初に気づいたのは、胸元に回された腕の温もりだった。
背中からは一定の鼓動とぬくもりが伝わってくる──それはアッシュの腕だった。
頬が一気に熱くなり、リゼリアは慌てて身体を起こそうとした。
その動きに気づいたのか、アッシュが目を開ける。
短い休息から覚めたばかりのようで、身を動かした拍子にどこかをかばうような表情を見せた。
「……アッシュ?」
リゼリアは声を潜めて尋ねた。「どこか、痛むの?」
アッシュは首を軽く振る。「ずっと同じ姿勢だったから、少し体が固まっただけだ。」
そう言いながら彼は彼女の顔色を見て、声を和らげる。
「そっちは?……気分はどうだ?」
リゼリアは数度まばたきをして、意識を戻しながらこくりとうなずく。
アッシュはようやく彼女を抱く腕を解き、自分もゆっくりと身を起こす。
「これ、掛けといて。冷えたらまた熱が出る。」
彼はマントを彼女の肩に丁寧に掛け、しっかりと包んでから一歩下がった。
リメアが近づいてきて、小さく鳴き声を上げる。
リゼリアの体調を確かめるように身を寄せ、再び彼女の隣に丸まった。
その銀色の尾が二人の周りに巻かれ、まるで小さな結界を張るかのようだった。
その温もりが安心感となってリゼリアの胸に広がり、呼吸が自然と落ち着いていく。
アッシュは剣と魔導銃を手に取り、リゼリアを振り返った。
「外の様子を見てくる。すぐ戻る。」
そう告げると、リゼリアは思わず立ち上がりかけ、マントを返そうとした。
「外は寒いから、これを……」
アッシュは一瞬驚いた顔をして、すぐに苦笑しながら落ちていた服を拾った。
彼女にそっと着せてから、襟元をきゅっと締める。
「じっとしてて、動くな。」
水筒を差し出しながら言う。
「少し飲んでおけ。戻ったら話そう。」
彼はそう言い残してマントを羽織り直し、雪煙の中へと姿を消した。
洞窟には火の明かりと風の音、そしてリメアの小さな鳴き声だけが残った。
リゼリアは水筒を開き、一口だけ飲む。
そして気づいた──思っていたほど、喉が渇いていない。
〈アッシュが飲ませたからだよ〉
リメアの声が、どこか楽しげに響いた。
リゼリアの手が止まる。
脳裏に蘇ったのは、あの距離の近さ、唇に触れた水の感触、彼の掌の熱。
一気に顔が熱くなり、彼女は俯いた。
耳まで赤く染まり、胸の鼓動が急に騒がしくなる。
水筒を抱きしめたまま、思考はまとまらない。
あのとき彼の腕の中で感じた安心感は、今や羞恥に変わっていた。
振り返るだけで、胸の奥にじんわりとした重さが残る。
彼が戻ってきて目が合ったら──正面から見られたら、きっと何も言えない。
リメアが彼女の肩に鼻先を寄せて、そっと擦り寄る。
リゼリアは深く息を吸い、乱れた鼓動を整えようとする。
(……戻ってきたら、ちゃんと普通に話さなきゃ……)
間もなくして、アッシュが戻ってくる。
マントの雪を軽くはたき、低く声を落とした。
「外の吹雪はさっき止んだばかりだ。今なら……追っ手を避けて動ける。」
彼はリゼリアの様子を確かめながら続けた。
「でも……少し食べてからにしようか。」
【たべる!】
リメアが勢いよく尻尾を立てて同意した。
アッシュは笑いながら袋を探り、固いパンを一つリメアに渡し、もう一つをリゼリアに手渡す。
リゼリアはパンを受け取りながら、アッシュの手首に目を留める。
「それ……外しましょう。」
アッシュは彼女の視線を追い、自分の手首を見下ろした。
まだ冷たい手錠がはまったままだ。
「……そうだったな。忘れてた。」
彼女から短剣を受け取り、鍵穴に刃を差し込む。
「カチリ」という音と共に、錠が外れ、鉄が落ちた。
その手首には赤く擦れた跡と、破れた皮膚が見えている。
「……痛くないの?」
リゼリアの声が少し震えた。
「軽傷だ。魔法で治る。」
彼は何気ないふうに言うが、彼女の目は鋭い。
手を伸ばして触れようとした瞬間、彼の体がわずかに跳ねる。
彼女の手が肋のあたりに当たった。
アッシュは低く唸り、すぐにその部位を押さえる。
「……見せて。」
アッシュはしばし黙り、やがて渋々と上衣を捲る。
火の明かりに照らされたその脇腹は、大きく腫れていた。
「台から落ちたときにぶつけた。……骨にひびが入ってるかもな。」
「……やらせて。」
リゼリアが手をそっと当てると、魔法とは違う温かな力が流れ込む。
深く、やさしく、芯から痛みを和らげていく。
アッシュは思わず安堵の吐息をもらすが──すぐに気づく。
額から汗がにじみ出し、彼女の顔色は見る間に青ざめていく。
彼は彼女の手を掴み、止める。
「もういい。やめろ。」
リゼリアは驚いたように彼を見つめる。
反論しかけたが、その目の真剣さに気圧され、黙ってうなずいた。
「……この力、代償があるんだろう。」
アッシュは低く問いかける。
「今まで、ずっと……彼らに命じられて、俺のために?」
リゼリアは唇を噛み、言葉を飲み込む。
代わりにリメアが、静かに語る。
【そう。いつもアッシュが傷だらけで戻ると、次の場所でリゼは連れていかれて、治療を……】
【そのたびに熱を出して、ぐったりしてた。】
しばらくの沈黙のあと、アッシュは言った。
「……これからは、もう使うな。」
その声に怒りはなかったが、拒絶できない重さがあった。
彼はリゼリアの足元に目をやる。
「まだ腫れてるな……」
彼は自分のブーツを脱ぎ、彼女に履かせようとする。
「やだ、それはダメ。」
リゼリアは慌てて彼の手を掴む。
「凍傷になったら意味がない。」
二人の手が重なり、目が合った瞬間、どちらも言葉を失った。
──そのとき、リメアが尾をぴんと立て、誇らしげに言った。
〈もう大きくなったから、リゼを乗せて歩けるよ!〉
リゼリアはぽかんとした後、彼の言葉を伝え、二人は思わず笑った。
「リメア、本当に成長したな。」
彼女がその首元を撫でると、リメアは気持ちよさそうに喉を鳴らす。
アッシュも手を伸ばし、軽くその頭を撫でた。
「……頼む、リメア。リゼを守ってやってくれ。」




