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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十二章:魔女の地

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第117話 雪解けの息

 洞窟の入口に吹き込んでいた風が、ひととき静かになる。

 揺れる焚き火の明かりが、微かな煙と苔の匂いを洞窟の奥まで染み込ませていた。


 リゼリアは、あたたかさに包まれたまま、静かに目を覚ました。

 頭がまだ少しぼんやりしていて、まぶたが小さく震える。


 最初に気づいたのは、胸元に回された腕の温もりだった。

 背中からは一定の鼓動とぬくもりが伝わってくる──それはアッシュの腕だった。

 頬が一気に熱くなり、リゼリアは慌てて身体を起こそうとした。

 その動きに気づいたのか、アッシュが目を開ける。

 短い休息から覚めたばかりのようで、身を動かした拍子にどこかをかばうような表情を見せた。


「……アッシュ?」

 リゼリアは声を潜めて尋ねた。「どこか、痛むの?」

 アッシュは首を軽く振る。「ずっと同じ姿勢だったから、少し体が固まっただけだ。」

 そう言いながら彼は彼女の顔色を見て、声を和らげる。

「そっちは?……気分はどうだ?」


 リゼリアは数度まばたきをして、意識を戻しながらこくりとうなずく。

 アッシュはようやく彼女を抱く腕を解き、自分もゆっくりと身を起こす。

「これ、掛けといて。冷えたらまた熱が出る。」

 彼はマントを彼女の肩に丁寧に掛け、しっかりと包んでから一歩下がった。


 リメアが近づいてきて、小さく鳴き声を上げる。

 リゼリアの体調を確かめるように身を寄せ、再び彼女の隣に丸まった。

 その銀色の尾が二人の周りに巻かれ、まるで小さな結界を張るかのようだった。

 その温もりが安心感となってリゼリアの胸に広がり、呼吸が自然と落ち着いていく。


 アッシュは剣と魔導銃を手に取り、リゼリアを振り返った。

「外の様子を見てくる。すぐ戻る。」

 そう告げると、リゼリアは思わず立ち上がりかけ、マントを返そうとした。

「外は寒いから、これを……」


 アッシュは一瞬驚いた顔をして、すぐに苦笑しながら落ちていた服を拾った。

 彼女にそっと着せてから、襟元をきゅっと締める。

「じっとしてて、動くな。」

 水筒を差し出しながら言う。

「少し飲んでおけ。戻ったら話そう。」

 彼はそう言い残してマントを羽織り直し、雪煙の中へと姿を消した。


 洞窟には火の明かりと風の音、そしてリメアの小さな鳴き声だけが残った。

 リゼリアは水筒を開き、一口だけ飲む。

 そして気づいた──思っていたほど、喉が渇いていない。


〈アッシュが飲ませたからだよ〉

 リメアの声が、どこか楽しげに響いた。

 リゼリアの手が止まる。

 脳裏に蘇ったのは、あの距離の近さ、唇に触れた水の感触、彼の掌の熱。

 一気に顔が熱くなり、彼女は俯いた。

 耳まで赤く染まり、胸の鼓動が急に騒がしくなる。


 水筒を抱きしめたまま、思考はまとまらない。

 あのとき彼の腕の中で感じた安心感は、今や羞恥に変わっていた。

 振り返るだけで、胸の奥にじんわりとした重さが残る。

 彼が戻ってきて目が合ったら──正面から見られたら、きっと何も言えない。


 リメアが彼女の肩に鼻先を寄せて、そっと擦り寄る。

 リゼリアは深く息を吸い、乱れた鼓動を整えようとする。

(……戻ってきたら、ちゃんと普通に話さなきゃ……)


 間もなくして、アッシュが戻ってくる。

 マントの雪を軽くはたき、低く声を落とした。

「外の吹雪はさっき止んだばかりだ。今なら……追っ手を避けて動ける。」

 彼はリゼリアの様子を確かめながら続けた。

「でも……少し食べてからにしようか。」


【たべる!】

 リメアが勢いよく尻尾を立てて同意した。

 アッシュは笑いながら袋を探り、固いパンを一つリメアに渡し、もう一つをリゼリアに手渡す。


 リゼリアはパンを受け取りながら、アッシュの手首に目を留める。

「それ……外しましょう。」

 アッシュは彼女の視線を追い、自分の手首を見下ろした。

 まだ冷たい手錠がはまったままだ。

「……そうだったな。忘れてた。」


 彼女から短剣を受け取り、鍵穴に刃を差し込む。

「カチリ」という音と共に、錠が外れ、鉄が落ちた。

 その手首には赤く擦れた跡と、破れた皮膚が見えている。


「……痛くないの?」

 リゼリアの声が少し震えた。

「軽傷だ。魔法で治る。」

 彼は何気ないふうに言うが、彼女の目は鋭い。

 手を伸ばして触れようとした瞬間、彼の体がわずかに跳ねる。

 彼女の手が肋のあたりに当たった。

 アッシュは低く唸り、すぐにその部位を押さえる。

「……見せて。」


 アッシュはしばし黙り、やがて渋々と上衣を捲る。

 火の明かりに照らされたその脇腹は、大きく腫れていた。

「台から落ちたときにぶつけた。……骨にひびが入ってるかもな。」


「……やらせて。」

 リゼリアが手をそっと当てると、魔法とは違う温かな力が流れ込む。

 深く、やさしく、芯から痛みを和らげていく。


 アッシュは思わず安堵の吐息をもらすが──すぐに気づく。

 額から汗がにじみ出し、彼女の顔色は見る間に青ざめていく。

 彼は彼女の手を掴み、止める。

「もういい。やめろ。」

 リゼリアは驚いたように彼を見つめる。

 反論しかけたが、その目の真剣さに気圧され、黙ってうなずいた。


「……この力、代償があるんだろう。」

 アッシュは低く問いかける。

「今まで、ずっと……彼らに命じられて、俺のために?」

 リゼリアは唇を噛み、言葉を飲み込む。


 代わりにリメアが、静かに語る。

【そう。いつもアッシュが傷だらけで戻ると、次の場所でリゼは連れていかれて、治療を……】

【そのたびに熱を出して、ぐったりしてた。】


 しばらくの沈黙のあと、アッシュは言った。

「……これからは、もう使うな。」

 その声に怒りはなかったが、拒絶できない重さがあった。

 彼はリゼリアの足元に目をやる。

「まだ腫れてるな……」

 彼は自分のブーツを脱ぎ、彼女に履かせようとする。


「やだ、それはダメ。」

 リゼリアは慌てて彼の手を掴む。

「凍傷になったら意味がない。」


 二人の手が重なり、目が合った瞬間、どちらも言葉を失った。

 ──そのとき、リメアが尾をぴんと立て、誇らしげに言った。

〈もう大きくなったから、リゼを乗せて歩けるよ!〉


 リゼリアはぽかんとした後、彼の言葉を伝え、二人は思わず笑った。

「リメア、本当に成長したな。」

 彼女がその首元を撫でると、リメアは気持ちよさそうに喉を鳴らす。


 アッシュも手を伸ばし、軽くその頭を撫でた。

「……頼む、リメア。リゼを守ってやってくれ。」

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