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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第一章:灰燼より始まる

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第13話 曇る境界線

 夜の色がまだ空に残るころ、焚き火の残り火が石の輪の中でゆらゆらと揺れていた。

 アッシュはその傍らに座り、布で剣身を丁寧に拭っていた。暗がりの中、金属は冷たく光を返していた。


 リメアは大きなあくびを一つして、のそのそと近寄ってきた。

 尾を彼の足首に絡ませるように巻きつけ、離れたくない幼い獣のように甘える。

 顔を上げ、額の突起で彼の膝をそっと小突いた。


 アッシュは手を止め、自然な動きでリメアの頭の鱗を撫でる。

 その感触は冷えた翡翠のようだったが、どこか重く温かな記憶を呼び起こす。


 少し離れたところで、リゼリアが小袋を腰に下げ、彼を見上げた。

「道、案内してあげる。街道は通らなくていい。動物たちが教えてくれた道よ。国境の検問を安全に避けられる。」


 アッシュは彼女を一瞥しただけで返答せず、懐から折り目のついた地図を取り出し——無造作に彼女の足元に投げた。


「指せ。」

 命令のような口調だった。


 朝霧で湿った地面に広がった地図の端は、露でふやけ、羊皮紙が波打っていた。

 リゼリアはわずかに口元を歪めると、ゆっくりとかがんでそれを拾い、東北に延びる山道を指先で示す。


「ここ。検問を避けられる。」


 アッシュは黙ってそれを見下ろし、数秒の沈黙のあと、無言で地図を受け取る。


 焚き火が最後のぱちぱちという音を立てて沈黙すると、アッシュは立ち上がり、膝の灰を払った。

 足元のリメアの頭をもう一度撫でると、彼女は心地よさそうに目を細め、尾を軽く振って身体を擦り寄せた。


「行くぞ。」

 背負い袋を担ぎ直し、魔導銃の状態を確認する。


 リゼリアも歩き出しながら問う。

「なぜわざわざヴァステリア連邦の方へ? あそこが反竜なのは、あなたも知ってるでしょう。」


 アッシュは一切迷いのない背中を見せたまま答えた。

「お前が知る必要はない。」


 朝の霧が林を包み込むなか、三人の影がぬかるんだ山道を進む。

 先頭のアッシュは一歩一歩が警戒に満ちており、中央のリメアはときおり彼を見上げ、また後ろのリゼリアを振り返る。

 最後尾の魔女は軽やかに歩みを進めながらも、その視線は一瞬たりともアッシュの背から外れなかった。


 霧のなかの距離は、遠すぎず近すぎず——意図的に保たれたような、曖昧で微妙な境界だった。




 山道は濃霧のなかを曲がりくねりながら続き、石段の隙間にはぬめった苔がびっしりと生え、霜が薄く結んでいた。

 渓谷の上には、灰白色のアーチ橋がかかり、竜の骨に刻まれた古の符文が霧に浮かんでいた。

 その橋を構成する節の線ははっきりと浮かび上がり、まるで太古の息吹が今なお残っているかのようだった。


 リゼリアは橋の袂で立ち止まり、冷たい骨の表面を指先でなぞる。

「これは連邦の記念建築よ。倒した竜の背骨で作ったの。彼らにとって、これは永遠の誇りなの。」


 リメアが顔を上げ、耳膜をわずかに震わせる。何かを堪えるように。


 アッシュは足を止めず、骨の上を靴で踏み鳴らしながら言う。

「……あまり聞かせるな。」


〈……本当に?〉

 リメアは龍語でそっと問いかけ、リゼリアに目を向ける。


 リゼリアも同じ言葉でゆっくりと返した。

〈竜への思いは場所によって異なる。栄光の盟友と見る者もいれば、呪いの根源とみなす者もいる。……そして、勝利の証としてしか見ない者もいる。〉


 その声は静かだったが、言葉の端々に隠しきれない冷ややかさがにじんでいた。

〈連邦の人間は、こうして世界に示すの。自分たちは、竜を打ち倒したのだと。〉


 リメアの頭冠が小さく震え、その目には、初めて現実の残酷さに触れたような戸惑いがあった。

〈じゃあ……王国は?〉


 リゼリアは一瞥を送り、言葉を慎重に選ぶように答えた。

〈王国は、竜の力で栄光を築く。でも、必要がなくなれば、いつだって裏切るわ。〉


「魔女。」

 アッシュの声が前方から返ってくる。

「……龍語は禁止だ。」


 リゼリアは肩をすくめ、あっさりと視線を戻し、何も言わずにリメアの頭を軽く撫でる。

 アッシュは振り返らず、重い足音を橋に響かせながら、さっきよりも速い歩調で橋を渡っていった。




 山道は徐々に険しくなり、霧の中には細かな冷気が含まれていた。

 列の真ん中を歩くリゼリアが、ついに口を開いた。

「もう少し……ゆっくり歩けないの?」


「手間だ。」

 アッシュは冷たくそう返したが、実際には彼女を置いていくことはなかった。


 リメアは後ろで小さく鼻を鳴らす。

【お腹すいた。】


 アッシュはちらりとリゼリアを見た。

「お前、動物たちに肉でも運ばせられないのか?」


 リゼリアは侮辱されたかのように目を見開いた。

「無理よ! それに……私、肉は食べられないの。」


「昨日の夜、スープは飲んでたろ。」


「……あれはスープ。肉そのものを食べると、吐くの。」


 アッシュの口元がにやりと歪む。

「さすが魔女だな。」


 リゼリアは目をそらし、ため息まじりに返事を返さず歩き続ける。


「魚ならどうだ?」


「……まあ、いけなくはない。」

 彼女は渋々と言った様子で認めた。


 アッシュは下り坂を見計らって道を外れ、三人を渓谷の川辺へと導いた。

 水音が清らかに響き、川底では銀色の魚が石の間をすばやく泳いでいる。


「肉を食わずに、この先はもたないぞ。」

 彼は袖をまくりながら、川に入る準備を始める。

「倒れても、俺はお前を背負わないからな。」


 リゼリアは彼の手際よく腕まくりする姿を眺め、口には出さないものの、黙って岸辺で焚き火の準備を始めた。




 渓谷のそば、小さな焚き火から淡い白煙が立ち昇り、魚の香ばしい匂いが水気に混ざって広がる。


 リメアは焚き火の近くにしゃがみ、尾をパタパタと振りながら文句を言う。

【お魚じゃイヤ〜。お肉がいいのに。】


「我慢しろ。」

 アッシュは頭を上げることなく、焼き網の上の魚をひっくり返した。


 焼き上がった魚と一緒に、乾パンを一塊、リゼリアの前に置いた。

 声は変わらず平坦だった。

「魔女ってのは、人間の食い物まで受けつけないってわけじゃないだろ?」


 リゼリアはそれを受け取り、淡々と返す。

「あなたって、最初からずっと野営に慣れてるって感じ……。まるで逃げる訓練を最初からされていたみたい。」


 アッシュの魚をひっくり返す手が、一瞬だけ止まる。

 木の柄を握る指に、ぐっと力がこもった。


 その変化に気づいたリゼリアは、少し顔を曇らせ、慎重に問いかけた。

「……あなた、本当に王子なんでしょ?」


 アッシュは目を上げ、ナイフのような声で言った。

「口が多い。言われたことだけやれ。それができないなら——いつでも殺せる。」


 空気が一気に緊張で張り詰めた。


 すると、リメアが尾でアッシュの膝をぽんと軽く叩いた。

【だめだよ。】


 アッシュが彼女を見る。

【あの人、竜の言葉がわかる。なんか……うれしい。もっといっぱい話したいの。】


「何を話してるか、俺には全部教えろ。」

 アッシュの口調は変わらず命令的だった。


 リメアは小さく【うん】と返しつつ、そっと顔をリゼリアの方へ向ける。

 まるで、こっそりと彼女の秘密を守ろうとしているかのように。


 食事を終えると、アッシュは余った乾パンを皮袋にしまい、魔導銃をさりげなく点検した。

 まるで、これからの道にどんな不意の事態があっても対処できるように、備えているようだった。


 三人は再び歩き出す。渓谷の水音は徐々に足音に置き換わっていった。


 リゼリアはリメアの隣を歩き、時折そっと龍語で話しかける。

 リメアは集中して聞き入っており、耳膜が微かに震え、時折明るい音節で返答した。


 アッシュは先頭を進む。表向きは周囲の様子に気を配り、冷静に歩いているように見える。

 だが、その耳はわずかに傾き、後ろの会話を逃さず拾っていた。


 リゼリアの声が一瞬止まるたびに、彼の指先は無意識に腰の短剣へと伸び——

 だが、次の瞬間には何事もなかったかのように手を離す。


 山道に漂っていた霧が徐々に晴れていき、雲間からは光が差し込んだ。

 アッシュの目がわずかに細められる。


 ——続けさせておけ。


 あの二人の会話の中に、必要な手がかりが隠れているかもしれない。

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