幕間 雪の下の記憶
焚き火の明かりが洞窟の壁に揺れている。
淡い橙色の光が、波のようにゆらゆらと浮かんでは消えていく。
リゼリアの呼吸は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
その頭が彼の肩に預けられ、淡い紫の髪が彼の鎖骨に触れている。冷たくて、やわらかい。
アッシュは静かに炎を見つめたまま、彼女の背にそっと手を添えていた。
体温が少しずつ戻ってきているのを、確かめるように。
──それでも。
温もりを感じるほどに、胸の奥がかき乱されていく。
彼は思い出す。戦場で、彼女の歌を聞いたあの時を。
空は火に裂かれ、鋼鉄と竜の咆哮が交錯するなかで──
すべての怒号を貫いて、透き通るような歌声が聞こえた。
まるで、血の霧を裂く光。
短い旋律。なのに、忘れられなかった。
その声が響いた、まさにその瞬間──
アエクセリオンが暴走した。
符文の弩矢がその胸を貫き、血が空に撒かれる。
そして、彼らは地上へと落ちていった。
アッシュは、走っていた。
竜の悲鳴が響いていた。
光を失っていく、その瞳を見た。
──その光が完全に消える、その直前に。
まるで、水底に沈むような声が心をかすめた気がした。
気づけば、彼は王都に戻されていた。
全身を傷だらけにして、それでも、
彼が「竜王を殺した」と告げられた。
弑竜の罪。
誰も、あの歌については語らなかった。
まるで、あの旋律が最初からなかったかのように。
それでも、その声は、ずっと彼の頭の中に残っていた。
夜毎、彼を目覚めさせるほどに。
──だから、彼は疑わなかった。ほとんど。
竜を殺したのは彼女だ。
アエクセリオンを奪ったのは、彼女だ。
初めてリゼリアと視線を交わしたとき──
その瞳に映る澄んだ光が、彼を戸惑わせた。
あまりにも澄みきっていて。
あまりにも無垢で、血など見たことがないような目だった。
──そんな瞳が、竜殺しのものだなんて。
……けれど、もし彼女ではないのなら、誰なのか?
聞くことはできなかった。
怖かった。
きっと、答えはもう分かっていたから。
もし本当に、彼女だったのなら。
そのとき、彼はまだ……彼女の笑顔を見ていられるのか?
アッシュは、うつむく。
目の前で眠る彼女の顔を見つめる。
炎の明かりが、その頬を優しく照らす。
透き通る肌と、長い睫毛の影が、静かに揺れていた。
あまりにも静かで、あまりにも脆い。
今にも壊れそうで、彼は、自分が誰なのかを忘れそうになる。
そっと手を伸ばし、耳元に落ちた髪をすくい上げる。
──守りたい。
理屈ではない。
本能のような衝動だった。
でも、彼は知っている。
この想いは、あってはならない。
彼女は聖女。
彼は反逆者。
王都に戻ったところで、婚約はまだ破棄されていない。
この想いは──また彼らを深い淵へと突き落とすだけだ。
だからこそ、この気持ちは胸にしまうしかない。
竜王から託された二枚の鱗のように。
熱くて、冷たい、矛盾そのもののような想い。
アッシュは、リゼリアの顔を見つめたまま、
そっと髪を撫でる。
その指先は、彼自身も気づかないほど、優しかった。
「……せめて、また……笑ってくれ。」
かすれた声。
誰にも届かないほどの、小さな祈り。
洞窟の外では、雪の音が山を打ちつけている。
鳥の鳴き声が、夜を遠くに告げていた。
彼は目を閉じた。
その声が、胸のざわめきをかき消してくれるのを願って。
──今夜だけは。
壊れていない世界を、信じていたかった。




