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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十二章:魔女の地

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幕間 雪の下の記憶

 焚き火の明かりが洞窟の壁に揺れている。

 淡い橙色の光が、波のようにゆらゆらと浮かんでは消えていく。


 リゼリアの呼吸は、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 その頭が彼の肩に預けられ、淡い紫の髪が彼の鎖骨に触れている。冷たくて、やわらかい。

 アッシュは静かに炎を見つめたまま、彼女の背にそっと手を添えていた。

 体温が少しずつ戻ってきているのを、確かめるように。


 ──それでも。

 温もりを感じるほどに、胸の奥がかき乱されていく。

 彼は思い出す。戦場で、彼女の歌を聞いたあの時を。

 空は火に裂かれ、鋼鉄と竜の咆哮が交錯するなかで──

 すべての怒号を貫いて、透き通るような歌声が聞こえた。

 まるで、血の霧を裂く光。

 短い旋律。なのに、忘れられなかった。


 その声が響いた、まさにその瞬間──

 アエクセリオンが暴走した。

 符文の弩矢がその胸を貫き、血が空に撒かれる。

 そして、彼らは地上へと落ちていった。


 アッシュは、走っていた。

 竜の悲鳴が響いていた。

 光を失っていく、その瞳を見た。


 ──その光が完全に消える、その直前に。

 まるで、水底に沈むような声が心をかすめた気がした。


 気づけば、彼は王都に戻されていた。

 全身を傷だらけにして、それでも、

 彼が「竜王を殺した」と告げられた。


 弑竜の罪(しりゅうのつみ)

 誰も、あの歌については語らなかった。

 まるで、あの旋律が最初からなかったかのように。


 それでも、その声は、ずっと彼の頭の中に残っていた。

 夜毎、彼を目覚めさせるほどに。

 ──だから、彼は疑わなかった。ほとんど。


 竜を殺したのは彼女だ。

 アエクセリオンを奪ったのは、彼女だ。


 初めてリゼリアと視線を交わしたとき──

 その瞳に映る澄んだ光が、彼を戸惑わせた。

 あまりにも澄みきっていて。

 あまりにも無垢で、血など見たことがないような目だった。

 ──そんな瞳が、竜殺しのものだなんて。


 ……けれど、もし彼女ではないのなら、誰なのか?


 聞くことはできなかった。

 怖かった。

 きっと、答えはもう分かっていたから。


 もし本当に、彼女だったのなら。

 そのとき、彼はまだ……彼女の笑顔を見ていられるのか?


 アッシュは、うつむく。

 目の前で眠る彼女の顔を見つめる。

 炎の明かりが、その頬を優しく照らす。

 透き通る肌と、長い睫毛の影が、静かに揺れていた。

 あまりにも静かで、あまりにも脆い。

 今にも壊れそうで、彼は、自分が誰なのかを忘れそうになる。


 そっと手を伸ばし、耳元に落ちた髪をすくい上げる。

 ──守りたい。

 理屈ではない。

 本能のような衝動だった。


 でも、彼は知っている。

 この想いは、あってはならない。


 彼女は聖女。

 彼は反逆者。

 王都に戻ったところで、婚約はまだ破棄されていない。

 この想いは──また彼らを深い淵へと突き落とすだけだ。


 だからこそ、この気持ちは胸にしまうしかない。

 竜王から託された二枚の鱗のように。

 熱くて、冷たい、矛盾そのもののような想い。


 アッシュは、リゼリアの顔を見つめたまま、

 そっと髪を撫でる。

 その指先は、彼自身も気づかないほど、優しかった。


「……せめて、また……笑ってくれ。」

 かすれた声。

 誰にも届かないほどの、小さな祈り。


 洞窟の外では、雪の音が山を打ちつけている。

 鳥の鳴き声が、夜を遠くに告げていた。

 彼は目を閉じた。

 その声が、胸のざわめきをかき消してくれるのを願って。


 ──今夜だけは。

 壊れていない世界を、信じていたかった。

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