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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十二章:魔女の地

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第116話 命の温もり

 雪はさらに激しく降り始めた。

 森の中は既に足首が埋まるほどの積雪。

 枝という枝が雪の重みに耐えかねて垂れ下がり、時折サラサラと粉雪をこぼす。


 リゼリアは片手でドレスの裾を持ち上げ、もう片方の手で幹を支えながら、細く険しい山道を進んでいた。

 足元の白い礼装用の革靴はとうに雪に濡れ、底が薄く、防寒機能などほとんどない。

 冷たさが足先から脛へと突き上げ、まるで氷が這い上がってくるようだった。


 彼女はふと振り返る。

 その瞬間、心がひやりとする――

 雪に半ば埋もれた足跡。もし追手に見つかれば、それは道標となってしまう。


 リメアは彼女のすぐ後ろにいた。

 低く鳴くと、銀色の尾で雪を払うようにして、足跡をひとつひとつ消していった。

 リゼリアは目を瞬かせ、思わず小声で尋ねる。

〈それ……どうして思いついたの?〉


 リメアはちらりと彼女を振り返り、どこか得意げな声で鳴く。

〈……アッシュに教わった。〉

 もう一度、尾で道を消しながら、ピクリと耳を動かす。

 その姿を見て、リゼリアの胸がほのかに温かくなる。


 野外での痕跡消しを知っているということは、アッシュも必ず彼女たちのもとへ辿り着くはず――

 彼女はそう信じた。


「……もうすぐ?」

 リゼリアが小さく問いかける。


 リメアが耳を立て、しばらく前方の山壁をじっと見つめてから、確信めいた鳴き声を上げた。

 倒木に覆われた斜面を抜け、ついに雪に隠された入口が現れる。

 膝をつき、氷を払い覗き込むと、中から冷たい湿気と土の匂いが吹き出してきた。


「……ここね。」

 彼女は凍える指で短剣を握り直し、遠くかすむ空を見上げた。

 視界はすでに灰色に沈み、山の稜線すら見えない。

(アッシュ……この吹雪の前に来てくれる?)


 リメアが彼女の手を軽く嗅ぎ、まるで慰めるように鼻先を寄せる。

 リゼリアはこくんと頷いた。

「中で待とう。」

 二人の姿は、濡れた暗闇の中へと吸い込まれていった。



 洞窟の奥は徐々に狭く、暗くなっていく。

 石壁に手を伸ばしても何も見えず、靴裏は岩と氷を交互に踏み、感覚が麻痺していく。

 とうとうリゼリアは立ち止まり、壁に手をついてしゃがみ込んだ。

 全身が震え、呼吸も浅い。


 リメアが傍に寄り添い、彼女の手に鼻先を擦りつける。

 その喉からは低い鳴き声が漏れ、口を開いて小さな炎を灯す。

 一瞬だけ、洞内がオレンジ色に照らされ、岩壁にふたつの影が浮かび上がった。


 リゼリアの顔に浮かぶその影――瞳が警戒して細くなり、リメアは辺りを見回している。

「……だめ、火は使わないで。気付かれたら大変。」

 リゼリアは炎を手で遮り、指の隙間から小さな火は消えた。


 再び暗闇が戻り、ただ遠くから水滴の音と風の唸りだけが響く。

 リメアは身を丸め、尾で彼女の赤く腫れた足首をそっと覆う。

 その身体は以前より確かに大きく、呼吸も深くなっていた。


 リゼリアは小声で龍語を囁く。

〈……あの広場で見た大きな影、あれは……あなた?〉


 リメアは瞬きをしたが、理解していないような顔で、小さく鳴いただけで答えなかった。


 彼女は言葉を変える。

〈……どうやって、あの結界を抜け出したの?〉


 しばらく沈黙のあと――

 リメアは鼻先を彼女の膝に寄せ、スカートの端を軽く噛んでから、下を向いて胸元の鱗を噛み取った。


「チリッ」

 小さな音とともに、ふたつの鱗が彼女の掌に落ちた。

 それは――

 青い光を放つ、見覚えのある鱗だった。

 一枚は深い色合いで、時間の流れを感じさせる重みがある。

 もう一枚も、新しいものではない。


 リゼリアは息を呑む。

〈これは……〉

 アッシュが常に持ち歩いていた、本魂の鱗――

 アエクセリオンが遺した、大切な記憶。


〈……白い人がくれた。〉

〈白い人って……セイフィナ? じゃあ、あなた……アエクセリオンの力を受け継いだの?〉

 鼓動が早まる。

 リメアは首を横に振る。

 蒼い瞳に映る彼女の顔は、不安そうに揺れていた。

〈わからない。でも、アッシュのそばに行かなくちゃ、って思った。〉


 リゼリアは鱗を握りしめる。

〈……うん、わかった。〉

 彼女は顔を上げ、洞口を見つめる。

 雪は変わらず吹き荒れ、白い粒が入り口に舞い込む。

〈私たちはここで、彼を待とう。〉


 リメアは彼女の額に鼻先を軽く当てた。

 それは、静かな決意への返答だった。


 ◆ ◆ ◆


 どれだけ時間が経ったのか。

 リメアが突然耳を立て、瞳孔が収縮した。

 洞口をじっと見つめている。

【アッシュ?】


 しばらくして、彼の声が響いた。

【ああ、俺だ。……少し待って、結界を張る。】


 リメアが振り返り、龍語でリゼリアに囁く。

〈アッシュが来たよ。〉


 彼女はうっすらと目を開けるが、その瞳は虚ろで、息も荒い。

 リメアが焦ったように顔を押し当てる。

〈リゼ? 大丈夫……?〉

【アッシュ! リゼの様子が変!】


 洞の外から音がする。

 足音――それは勢いよく地面を揺らし、次の瞬間、アッシュが洞に駆け込んできた。

 肩と髪に雪を纏いながら、彼は膝をついて彼女の額に手を当てる。

 熱い。

 まるで氷の中で燃えるような高熱。

「リゼ!」

 彼女は薄く目を開け、彼の手に触れた。

「……帰ってきて、くれた……」


 アッシュはすぐに洞壁に彼女をもたれさせ、辺りを見回す。

 乾いた苔と枝を拾い集め、小さな焚き火を作る。


 火が灯る。

 その光の中、彼の表情は冷たく鋭い。

 リメアが火を強めようと口を開くが、彼はそれを止めた。

「だめだ、空気が足りない。向こうで石を温めてくれ。」


 リメアは渋々従い、平たい岩を熱して、そこに彼女の服を広げて乾かす。

 靴を脱がせ、足に手を添える。

 ひどく冷え、腫れた肌に魔力を流し込む。

 彼の手から光が何度か瞬き、すぐに消えた。

 息を吐き、額に汗が滲む。

 魔力の消耗が激しい。


「……倒れるわけにはいかない。」

 彼は彼女を抱き寄せ、自分のマントで包み込む。

 ふたりの身体が、ひとつの温もりを求めるように密着する。


「……がんばれ。」

 彼の声は掠れていた。

 水を与えようとしたが、リゼリアの唇は震え、水をこぼしてしまう。


 アッシュは迷いなく口を寄せ、水を直接渡した。

 唇が触れ、彼女の喉がわずかに動いたのを感じてから、彼はようやく口を離した。

 指で頬の水を拭い、触れた肌の感触に、彼の動きがわずかに和らぐ。


 炎が揺れ、ふたりの影が岩に映る。

 ただひとつの世界、互いの鼓動だけがそこにある。

 リメアはそっと尾で彼らを包み、洞窟の温もりを守る。

 やがてリゼリアの呼吸が落ち着き、彼の肩に頭を預けた。

 アッシュはその髪にそっと顎を寄せ、静かに目を閉じた。


 洞の外では風がうねり続けている。

 だがこの一瞬、彼は確かに感じていた――

 リゼリアの体温が戻りつつあることを。

 そして、自分もまだ……生きているということを。

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