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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十二章:魔女の地

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第115話 白霧の逃走

 アッシュはリゼリアを抱きかかえ、駆ける。

 足元の雪が四方に弾け飛び、鎖が激しく揺れ、カンカン高い音を鳴らす。

 それは、まるで「急げ」と彼を急かす鐘のようだった。


 視界は冷たい霧に霞み、息は白く凍る。

 限界近い速度で走る中、見慣れた姿が彼の視界に飛び込んだ。


「こっち!早く!」

 セイフィナの声は冷静かつ鋭く、ためらいなくアッシュの腕を掴み、路地裏へ導いた。

 そこには既に馬が用意されていた。


 鼻から白い息を吐き、蹄を鳴らすその馬も、騒然とした雰囲気に驚いているようだった。

 アッシュはリゼリアを馬に乗せ、自らも飛び乗る。

 セイフィナは皮袋を馬に放り投げた。中には乾パンと水筒、そして彼の剣と魔導銃が入っていた。


「こんな逃げ方、思いつくのはあんたぐらいよ。」

 口元に皮肉めいた笑みを浮かべながらも、彼女の手はすでに剣の柄を握っていた。

「さあ、行きなさい。できるだけ時間を稼ぐ。」


 リゼリアは振り返り、小さく「ありがとう」と呟いた。

 セイフィナは黙ってうなずき、教国式の敬礼を返す。


 その時――

 霧の中から、淡い紫の影が現れた。


 エルセリア。

 白い外套を風になびかせながら、彼女はまっすぐアッシュに手を伸ばす。


「戻ってきて。」

 その唇ははっきりと動き、その声は群衆と風を越えてアッシュの胸に突き刺さった。

「あなたは……私のもの。」

 それは怒りでも、呪いでもなかった。

 慈悲に満ちた顔。

 彼女は、迷える者に最後の救いを差し伸べる聖女のように――

「帰るべき場所はここだ」と語っていた。


 アッシュの胸が締めつけられる。

 指先が、手綱を離しそうになる。

 彼は思った。


 彼女の元に戻れば、すべてが終わるのか?

 苦しみも、戦いも、もう不要になるのか?


「アッシュ!」

 リゼリアの叫びが、現実へと彼を引き戻した。

 彼女は彼にしがみつくように抱きつき、その力は呼吸をも奪うほどだった。


 セイフィナが何も言わず、馬の尻を強く叩く。

 馬が驚いて跳ね上がり、雪を蹴り上げながら一気に走り出す。

 アッシュの最後の視界に映ったのは、霧の中で遠ざかるエルセリアの姿。

 その緑の瞳は、最後まで彼だけを見つめていた。


 馬は雪を蹴立てながら、路地を抜ける。

 その先、霧の中から一つの白い影が飛び出した。


【アッシュ!】


 リメアだ。

 その姿は以前よりも一回り大きくなっており、鱗は雪の光を反射して銀色に輝く。

 だが、さきほど祭壇に現れた幻影のような巨躯とはまだ異なる。


 アッシュは息を切らしながら手綱を握りしめた。

「無事だったか……まずは離れるぞ!」


 リメアが低く鳴き、馬のすぐ横を並走する。

 彼らは後ろを振り返らず、街を抜け、森の入り口へ駆け抜けた。

 風、蹄、リメアの足音――

 すべてが雪に吸い込まれ、やがて街の騒ぎは木々の陰に消えた。


 ◆ ◆ ◆


 アッシュは馬を急停止させ、すぐに飛び降りる。

「……追手は?」


 リメアが鼻先を雪に近づけ、しばらくじっとした後、顔を上げた。

「いる。でも、まだ遠い。」


「よし。」

 アッシュはリゼリアのスカートを持ち上げ、足首を掴む。

「失礼。」

 リゼリアが驚いて息を呑む。


 短剣がきらりと光り、アッシュは足枷を慎重にこじ開けた。

 カラン――

 鉄製の枷が雪に落ち、かすかなくぼみを作る。

 彼の目に映ったのは、擦り切れた赤い傷痕だった。


「……走れるか?」

「……うん、大丈夫。」


 リゼリアは馬から飛び降り、膝をつきながら雪をかき分ける。

 その手には、一匹の震えるリスが抱えられていた。

 彼女は小さく囁くように語りかける。

 アッシュはすぐにわかった――道を聞いている。


 しばらくして、リゼリアが顔を上げた。

「前方二里、雪に埋もれた古い洞窟がある。しばらく隠れられる。」


「わかった。」

 アッシュは馬の背から剣と魔導銃を外し、腰に装備した。

「お前たちは先に行け。俺は後ろを引き受ける。」

 そう言って、短剣をリゼリアに手渡す。


「待って……!」

 リゼリアが彼を止める。

 地面から鋭い石を拾い上げ、鉄鎖を指して言う。

「鎖、切ったほうがいい。これじゃ邪魔になる。」


 アッシュはそれを見て、首を振る。

「時間がかかる。」

 彼は片膝をつき、指先に魔力を集中させた。

 鎖の中央に力を流し込むと、冷たい鉄に霜が浮かび、細かい亀裂が走る。


「リメア、頼む。」

 リメアが唸り、顎を広げて鎖に噛みついた。

 カチン。

 刃のような音が鳴り、鎖が断ち切られた。


 アッシュは両手を軽く動かして確認する。

 鉄環はまだ手首に食い込んだままだが、長い鎖はもうない。

「……今はこれで十分。残りは後で何とかする。」

 彼はリメアの頭を軽く撫で、低く囁いた。

「怖がるな。迂回して合流する。気をつけて。」


 リゼリアとリメアが雪林の中へ走り去る。

 アッシュはその背中が闇に溶けるまで見届け、静かに動き出す。


 足跡を消し、枝で雪をかき、証拠を消す。

 それが終わると、彼は再び馬に乗り、逆方向へと駆け出した。


 ◆ ◆ ◆


 雪が跳ね上がり、風が顔を打つ。

 空は灰色の雲に覆われ、太陽の光はすでに失われていた。

 木々の影が長く伸び、林全体が薄暗い。


 アッシュは天を見上げた。

(この空……俺たちを隠してくれるかもしれない。)

 だが次の瞬間、唇を引き結ぶ。

(あるいは、共に葬るかもしれない。)


 彼は逃げるのではなく、あえて複雑な地形を選び、追跡の目を惑わせた。

 数百歩ごとに馬を止め、雪を乱し、枝を折り、偽の足跡を残す。


 そして――

 追っ手の気配が迫る。

 甲冑の擦れる音、火の灯る光点が木々の間に近づいていた。

 アッシュは馬から下り、そっと首を撫でる。


「行け。」

 馬が嘶き、駆け出す。

 雪上に深い蹄の跡を残しながら、別方向へと消えた。


 アッシュ自身は太い冷杉の陰に身を潜め、息を殺す。

 追手の騎士たちが馬の足跡に気づき、半数がその方向へ走った。

 その隙にアッシュは逆方向へ移動し、火薬を撒き、魔力で着火――


 ボンッ!

 火花が散り、前列の馬が驚いて跳ねた。

 騎士たちが倒れ、混乱が広がる。


 アッシュはすぐさま狭い山道へ入り、軽い足取りで林を駆ける。

 痕跡を残さず、木々の間を縫いながら、傾斜を登っていく。

 最後に丘の上から振り返ると、火の光が遠くに揺れていた。

 追っ手は完全に欺かれた。


 アッシュは深く息を吐き、木に背を預ける。

 汗で背中が冷えていた。

 指先が無意識に手錠へ触れる。冷たい鉄の感触が彼を現実へ引き戻す。


(まだ終わっていない……あの二人のもとへ、大雪が来る前に戻らないと。)

 彼はゆっくりと立ち上がり、雪林の奥へと消えていった。

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