第114話 偽りの聖物
朝の鐘が再び鳴り響き、広場を囲む白い旗がはためくたびに、大気までも震わせた。
侍者が進み出て、リゼリアを祭壇の前へと押し出す。
彼女は抗わず、ただ静かに膝をついた。鎖が音を立て、雪の上に長く跡を残す。
その姿は、まるで自ら進んで生贄になろうとしているかのようだった。
皇教使節が侍者の手から黒い箱を受け取る。
蓋を開け、内側から「赤い水晶」を取り出し、天へと掲げた。
陽光が水晶に注ぎ込み、眩い光を放つ――それは、まるで空中で鼓動する透明な心臓のようだった。
人々は息を呑み、奇跡を目の当たりにしたかのように目を輝かせた。
アッシュは祭壇の反対側、高台の端に立たされていた。
両手にはまだ鉄環がかかっており、その冷たい重みが皮膚に沈んでいる。
彼は素早く周囲を見渡す。
人々の波の先――
群衆の縁に、セイフィナの姿があった。
彼女はまっすぐにこちらを見つめていた。
そして、アッシュの視線に気づくと、すぐに小さく合図を送った。
その隣にはエルセリアの姿もあった。
彼女は台の上の席には着かず、静かに胸の前で手を組み、すべてを受け入れた者のように儀式を見つめていた。
皇教使節がアッシュのもとへ歩み寄り、騎士たちが肩を強く押さえ、祭壇の方へ無理やり向かせる。
使節は彼を見下ろし、声を潜めて囁いた。
「よく見ておくのです、殿下。今日、あなたが大切にする者が……我が教国のために命を捧げるのです。」
アッシュの呼吸が一瞬止まり、視線が自然と後ろのリゼリアに向かう。
胸の奥が、誰かの手で締めつけられたように痛んだ。
「……その顔、実に素晴らしい。」
使節の口元に、残酷な喜びが滲む。
「私があなたを憎んでいるとでも? 違いますよ、殿下。私はただ……裁かれる者を見るのが好きなだけです。
跪いて赦しを乞う者を見るのが、たまらなく美しい。
選択肢があると錯覚しながら、結局屈する人間の姿ほど、愉快なものはありません。」
使節は手に持つ杖を軽くアッシュの胸元へ向け、愉悦を抑えきれない声で言った。
「飼い慣らす過程こそが、何よりも価値があるのです。
魔物使いが獣の牙を抜くように、牙を隠す姿を見るのが……死よりも面白い。」
アッシュの指先が震えた。
怒りが胸に広がり、血管を灼くように沸き立つ。
騎士たちはその変化に気づき、彼の肩をさらに強く押さえた。
「何もできませんよ。」
使節は慈悲すら込めたような笑みを浮かべた。
「これこそが、神の御心なのです。」
そして、杖を高く掲げ、儀式の始まりを告げようとした――
だが、その瞬間。
アッシュが、低く、囁くように言った。
「……もし、その『聖遺物』が偽物だったら? 儀式は成功するのか?」
使節の目が見開かれ、瞳孔が収縮する。
次の瞬間――
怒りと動揺に駆られた使節は、杖を振り下ろし、アッシュの頬を激しく打ち据えた!
鈍い音が広場に響く。
アッシュの身体は吹き飛ばされ、高台に叩きつけられた。
頬が焼けつくように痛み、口の端から血がにじみ出る。
騎士たちはその異様な事態に戸惑い、一瞬、拘束が緩んだ。
観衆の間にざわめきが広がる。
不安と疑念が空気を支配し始めていた。
アッシュは倒れたまま、祭壇の上の「赤い水晶」を見上げた。
眩しく輝くその光の中に、何かを見つめるように。
そして、口元にゆっくりと――挑発するような笑みを浮かべた。
「……前にも言っただろう。」
彼の声は低く、鋼の刃のように鋭かった。
「本物の箱は、俺には開けられなかった。
だが、この箱は……俺の魔力に反応した。
どういう意味か、分かるだろう?」
使節の表情が凍りついた。
アッシュは地面を蹴り、跳ね起きる。
鉄環が地面に打ちつけられ、甲高い音が鳴る。
すかさず二人の騎士が飛びかかろうとするが、アッシュは肘と肩で同時に二人を倒し、雪の上に叩きつけた。
広場は悲鳴に包まれ、観客が混乱し始める。
アッシュは倒れた騎士の剣を奪い取り、刃を振るって祭壇前の鎖を断ち切る!
金属の裂ける音が響き渡り、リゼリアが驚いて顔を上げた。
「逃げられないわ!」
彼女は戸惑いながら叫ぶ。
「逃げられなくても、ここで死ぬよりマシだ!」
アッシュが怒鳴り返し、彼女を背後に庇う。
その時、祭壇の奥から、雷鳴のような爆音が鳴り響いた。
――仕込んでおいた魔導装置が爆発したのだ!
地面が炸裂し、雪が舞い上がり、黒煙が視界を覆う。
広場は一気に混乱に陥った。
騎士たちは貴族や神官の護衛に回り、祭壇の防備は一瞬の隙を晒した。
アッシュは折れた剣で敵を押し返す。
一人の騎士が突進してきて、槍が彼の腰に直撃――激痛が背筋を貫き、彼は後退を余儀なくされる。
さらに盾の衝撃が直撃し、アッシュの身体は高台から転げ落ちた!
下に積もる雪が衝撃を和らげたが、背中に激痛が走る。
彼は歯を食いしばり、身体を起こす。
視線を上げると、祭壇の上に立つリゼリアがこちらを見ていた。
その顔には驚愕と迷いが浮かんでいる。
「飛び降りろ!」
アッシュが叫ぶ。肩に力を込め、両手を差し出す。
鉄環が限界まで引き伸ばされ、甲高い音を響かせる。
「リゼ――今だ!」
リゼリアは一度深く息を吸い――ついに覚悟を決めた。
彼女は身を翻し、高台から飛び降りる。
白いドレスが空中で花のように広がり、断ち切られた鎖が銀の弧を描く。
雪が舞い上がり、時間が一瞬止まったかのように感じられた。
アッシュはその身体をしっかりと抱き留めた。
衝撃に足が沈み、鉄環が皮膚に食い込んでも、彼は一歩も引かず、彼女を守り抜いた。
二人の息が白い霧となって空気に溶ける。
高台から怒号が響く。
「捕らえろッ!!」
教皇使節が怒り狂い、騎士たちが殺到する。
アッシュはリゼリアを抱きかかえ、指を鳴らす。
――「パチン」
その合図と共に、祭壇の赤い水晶が爆ぜた。
紅い粉塵が広がり、光を反射して空間を覆い尽くす。
そして、その赤の中から――巨大な竜の影が現れた。
それは深淵から這い出した幻影のように、高く、高く舞い上がり、翼を広げて広場を覆った。
貴賓席からは悲鳴が上がり、旗が倒れ、椅子が崩れ落ちる。
騎士たちが槍で影を貫こうとするも、それはただの幻影――手応えはない。
竜影が口を開き、無声の咆哮を上げる。
広場が揺れ、恐怖が霧のように広がり、全てを包み込んだ。
「クソッ、あの野猿が……本当にやりやがった!」
オズモンドが席から立ち上がり、剣を抜きながら叫んだ。
「追え!逃がすな、命を懸けてでも止めろ!」
アッシュはリゼリアを抱え、広場の後方へと走る。
「リメア! 炎だ――!」
その叫びと同時に、遠方にある結界が内側から激しく揺れた。
そして――
幻影の竜が口を開き、星のような火花を吐き出す。
赤い粉塵に火が点き、爆発的に燃え広がった。
轟音と共に、紅の炎柱が何本も高く立ち昇る。
高台の周囲はまばゆい赤に染まり、爆音と雪煙が空を覆う。
リゼリアはアッシュの服を掴み、呆然とした声で呟く。
「なぜ……こんなに……大きくなって……?」
アッシュは歯を食いしばった。
「どうなっていようと、今は……あいつが唯一の道だ!」
火と煙の混乱の中――
二人はその場を駆け抜けた。




