第113話 儀式の朝
浴場の蒸気はとうに消え、アッシュは清潔な衣と外套に着替え、二人の騎士に挟まれて回廊を歩いていた。
アーチ窓から月光が斜めに差し込み、白い床に細く長い影を落とす。
両手は外套の下でまだ鉄環に繋がれ、歩くたびに微かな金属音が鳴った。
回廊の先から、軽やかな足音が響く。
白い聖衣が月光を受けてほのかに光を放つ。
エルセリアが歩み寄り、その緑の瞳がまっすぐアッシュを射抜いた。
彼女の気配は柔らかいのに、アッシュは反射的に肩に力が入る。
「ノアディス殿下。」
その声は夜を震わせるほど静かで、まるで未来を告げる鐘の音のようだった。
「明日は……記念すべき日です。」
アッシュは歩みを止める。
騎士たちは不安げに視線を交わしたが、止めようとはしない。
エルセリアが二歩ほど近づき、もう目の前に立つ。
彼女はそっと手を上げ、指先をアッシュの胸元の留め具に触れた。
埃を払うような、羽のように軽い触れ方。
「姉さまの使命が果たされ、教国も王国も新しい時代を迎えます。」
その瞳は静かで、だが口元にはどこか愉悦めいた弧が浮かんでいた。
「そしてあなたも……もう逃げなくていい。
明日が終われば──あなたはわたくしのものになります。」
アッシュの指先がぎり、と強く握られる。
鉄環が引きしめられ、低い金属音が鳴った。
下がろうとしたが、両肩を挟む騎士に遮られ、動けない。
アッシュは、凍えるほど冷たい目で彼女を見据えた。
「……俺が、お前のもの?」
声は喉の底から絞るように低く落ち、刃のように鋭い。
エルセリアは一歩近づき、彼と視線の高さを揃える。
瞳は澄み切って、どこまでも透明で、逃げ場がない。
「ええ。
わたくしは、姉さまのすべてを継ぎます。
使命も、願いも、守るべき人も──すべて。」
語気は優しいのに、その実、勝利を確信した者の声音だった。
彼女はそっと手を伸ばし、アッシュの頬を撫でた。
傷んだ獣を慰めるかのような柔らかさ。
「そうなれば……あなたはもう、苦しまなくてよろしいのです。」
月光の下、その声は限りなく甘く、限りなく残酷だった。
アッシュの胸を冷たい痛みが貫く。
肺が雪で満たされるように息が詰まる。
彼は長い時間、彼女を見つめた。
その瞳の内側を、心の奥まで暴くように。
そして、ゆっくりと身を屈める。
エルセリアの瞳がぱっと喜びに揺れた──
まるで彼がようやく折れたと思ったかのように。
だが。
アッシュは彼女の耳元へ低い声を滑らせた。
「……お前の思いどおりになんて、させない。」
短い沈黙が、刃のように二人の間に立つ。
エルセリアは怒らなかった。
ただ静かに彼を見つめ──表情は、失望なのか哀れみなのか判別できず。
そして一歩下がり、くるりと背を向けて去っていった。
扉が閉まる音が響いた瞬間、
アッシュの指は白くなるほど握り締められ、鉄環が低く鳴る。
──明日がどうなろうと、リゼを必ず救い出す。
自由を失っても構わない。
世界を敵に回しても構わない。
教国の思いどおりには絶対にさせない。
◆ ◆ ◆
鐘の音が広場に鳴り響く。
冬の太陽の下、重く沈んだ響きが胸を押しつぶす。
アッシュは広場中央へと押し出された。
足元には黄金の絨毯が敷かれ、光が雪に反射して目が痛いほど白い。
左右の席には教国の高位聖職者、使節、貴族たちが整然と並び、
まるで彫像のように動かず、彼の一挙手一投足を見下ろしている。
アッシュは白い長衣に身を包み、マントが風に揺れた。
両手は衣の中で手枷に繋がれたまま。
一歩進むたび、鉄環がかすかに鳴った。
騎士に背を押され、階段を上る。
壇上に近づいたとき、彼は目を凝らし──
祭壇中央の黒い箱に安置された「赤い結晶」を見た。
太陽を浴びて、鼓動する心臟のように脈打っていた。
教皇使節が起立し、両手を広げて声を響かせた。
「──本日、我らは聖女の献身を見届ける。
竜の血の罪を浄め、新たなる秩序を迎えんがために。」
白い旗が四方に掲げられ、冬風に激しくはためく。
壮麗な葬送の幕が上がるかのようだった。
アッシュは視線を横に向ける。
リゼリアが、俯いたまま立っている。
瞳は腫れ、足元から伸びた細い鎖が、台の陰へと消えていた。
(リゼ……反抗しようとしたのか?
それとも……もう諦めてしまったのか?)
貴賓席で、オズモンドは無造作に腰を預け、口元に笑みを浮かべていた。
「昼に行う方がいい。
逃げようとしたら、どれほど醜く足掻くか──みんなに見せてやれる。」
そして、祭壇の二人を見て皮肉を呟く。
「並んでいると、まるで殉教者同士だな。
まさか、聖女がもう一人いたとはね。」
教皇使節がまた声を張り上げた。
「彼こそは竜王の代理。
本日ここに立ち、封印の証人となる。」
貴族がざわつく。
「だが王国では叛逆者と……代理など務まるのか?」
オズモンドは眉をひそめ、冷たく言い返した。
「竜王が認める者こそが王国を象徴する。
玉座に座る者が誰であれ、関係ない。」
そのとき。
ざわ……と人々の視線が別の方向へ向いた。
広場の奥の影から──
リメアが引き出された。
巨大な尾が鎖に縛られ、
二人の白衣の神官によって結界の中へ押し込まれる。
結界は淡い光を帯び、彼女を完全に閉じ込めた透明な牢となる。
遠く離れていても、彼女が低く唸り、尾を振り乱し、
必死に抗っているのが見えた。
しかし──声は、一切響かない。
喉が凍りつく。
アッシュは心の中で必死に名を呼んだ。
返事はない。
(……そうか。
この数日、呼んでも返事がなかったのは──
結界で完全に隔てられていたからか。)
指先が震え、鉄環が鋭く鳴る。
太陽に照らされた赤い結晶。
鎖で繋がれたリゼリア。
光の牢に閉じ込められたリメア。
全てが、アッシュをこの壇上に磔にする釘のようだった。
胸の奥で、怒りが熱へと変わる。
耳の奥で血が波打つ。
──行動しろ。
心臟が、そう叫んでいた。




