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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十一章:封印の儀式

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第113話 儀式の朝

 浴場の蒸気はとうに消え、アッシュは清潔な衣と外套に着替え、二人の騎士に挟まれて回廊を歩いていた。

 アーチ窓から月光が斜めに差し込み、白い床に細く長い影を落とす。

 両手は外套の下でまだ鉄環に繋がれ、歩くたびに微かな金属音が鳴った。


 回廊の先から、軽やかな足音が響く。

 白い聖衣が月光を受けてほのかに光を放つ。

 エルセリアが歩み寄り、その緑の瞳がまっすぐアッシュを射抜いた。

 彼女の気配は柔らかいのに、アッシュは反射的に肩に力が入る。


「ノアディス殿下。」

 その声は夜を震わせるほど静かで、まるで未来を告げる鐘の音のようだった。

「明日は……記念すべき日です。」


 アッシュは歩みを止める。

 騎士たちは不安げに視線を交わしたが、止めようとはしない。

 エルセリアが二歩ほど近づき、もう目の前に立つ。

 彼女はそっと手を上げ、指先をアッシュの胸元の留め具に触れた。

 埃を払うような、羽のように軽い触れ方。


「姉さまの使命が果たされ、教国も王国も新しい時代を迎えます。」

 その瞳は静かで、だが口元にはどこか愉悦めいた弧が浮かんでいた。

「そしてあなたも……もう逃げなくていい。

 明日が終われば──あなたはわたくしのものになります。」


 アッシュの指先がぎり、と強く握られる。

 鉄環が引きしめられ、低い金属音が鳴った。

 下がろうとしたが、両肩を挟む騎士に遮られ、動けない。

 アッシュは、凍えるほど冷たい目で彼女を見据えた。


「……俺が、お前のもの?」

 声は喉の底から絞るように低く落ち、刃のように鋭い。


 エルセリアは一歩近づき、彼と視線の高さを揃える。

 瞳は澄み切って、どこまでも透明で、逃げ場がない。

「ええ。

 わたくしは、姉さまのすべてを継ぎます。

 使命も、願いも、守るべき人も──すべて。」

 語気は優しいのに、その実、勝利を確信した者の声音だった。


 彼女はそっと手を伸ばし、アッシュの頬を撫でた。

 傷んだ獣を慰めるかのような柔らかさ。

「そうなれば……あなたはもう、苦しまなくてよろしいのです。」

 月光の下、その声は限りなく甘く、限りなく残酷だった。


 アッシュの胸を冷たい痛みが貫く。

 肺が雪で満たされるように息が詰まる。

 彼は長い時間、彼女を見つめた。

 その瞳の内側を、心の奥まで暴くように。


 そして、ゆっくりと身を屈める。

 エルセリアの瞳がぱっと喜びに揺れた──

 まるで彼がようやく折れたと思ったかのように。


 だが。

 アッシュは彼女の耳元へ低い声を滑らせた。

「……お前の思いどおりになんて、させない。」


 短い沈黙が、刃のように二人の間に立つ。


 エルセリアは怒らなかった。

 ただ静かに彼を見つめ──表情は、失望なのか哀れみなのか判別できず。

 そして一歩下がり、くるりと背を向けて去っていった。



 扉が閉まる音が響いた瞬間、

 アッシュの指は白くなるほど握り締められ、鉄環が低く鳴る。


 ──明日がどうなろうと、リゼを必ず救い出す。


 自由を失っても構わない。

 世界を敵に回しても構わない。

 教国の思いどおりには絶対にさせない。


 ◆ ◆ ◆


 鐘の音が広場に鳴り響く。

 冬の太陽の下、重く沈んだ響きが胸を押しつぶす。


 アッシュは広場中央へと押し出された。

 足元には黄金の絨毯が敷かれ、光が雪に反射して目が痛いほど白い。

 左右の席には教国の高位聖職者、使節、貴族たちが整然と並び、

 まるで彫像のように動かず、彼の一挙手一投足を見下ろしている。


 アッシュは白い長衣に身を包み、マントが風に揺れた。

 両手は衣の中で手枷に繋がれたまま。

 一歩進むたび、鉄環がかすかに鳴った。


 騎士に背を押され、階段を上る。

 壇上に近づいたとき、彼は目を凝らし──

 祭壇中央の黒い箱に安置された「赤い結晶」を見た。

 太陽を浴びて、鼓動する心臟のように脈打っていた。


 教皇使節が起立し、両手を広げて声を響かせた。

「──本日、我らは聖女の献身を見届ける。

 竜の血の罪を浄め、新たなる秩序を迎えんがために。」


 白い旗が四方に掲げられ、冬風に激しくはためく。

 壮麗な葬送の幕が上がるかのようだった。


 アッシュは視線を横に向ける。

 リゼリアが、俯いたまま立っている。

 瞳は腫れ、足元から伸びた細い鎖が、台の陰へと消えていた。


(リゼ……反抗しようとしたのか?

 それとも……もう諦めてしまったのか?)


 貴賓席で、オズモンドは無造作に腰を預け、口元に笑みを浮かべていた。

「昼に行う方がいい。

 逃げようとしたら、どれほど醜く足掻くか──みんなに見せてやれる。」


 そして、祭壇の二人を見て皮肉を呟く。

「並んでいると、まるで殉教者同士だな。

 まさか、聖女がもう一人いたとはね。」


 教皇使節がまた声を張り上げた。

「彼こそは竜王の代理。

 本日ここに立ち、封印の証人となる。」


 貴族がざわつく。

「だが王国では叛逆者と……代理など務まるのか?」

 オズモンドは眉をひそめ、冷たく言い返した。

「竜王が認める者こそが王国を象徴する。

 玉座に座る者が誰であれ、関係ない。」


 そのとき。

 ざわ……と人々の視線が別の方向へ向いた。

 広場の奥の影から──

 リメアが引き出された。


 巨大な尾が鎖に縛られ、

 二人の白衣の神官によって結界の中へ押し込まれる。

 結界は淡い光を帯び、彼女を完全に閉じ込めた透明な牢となる。

 遠く離れていても、彼女が低く唸り、尾を振り乱し、

 必死に抗っているのが見えた。


 しかし──声は、一切響かない。

 喉が凍りつく。

 アッシュは心の中で必死に名を呼んだ。

 返事はない。


(……そうか。

 この数日、呼んでも返事がなかったのは──

 結界で完全に隔てられていたからか。)

 指先が震え、鉄環が鋭く鳴る。


 太陽に照らされた赤い結晶。

 鎖で繋がれたリゼリア。

 光の牢に閉じ込められたリメア。

 全てが、アッシュをこの壇上に磔にする釘のようだった。


 胸の奥で、怒りが熱へと変わる。

 耳の奥で血が波打つ。


 ──行動しろ。

 心臟が、そう叫んでいた。

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