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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十一章:封印の儀式

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第112話 儀式の前夜

 アッシュはじっと地面を見つめたまま、長い沈黙に沈んでいた。

 さっきのセイフィナの言葉が、まだ頭の中に残響している。


 ──彼女は、助ける方法を探すと言ってくれた。


 だが、たとえそうだとしても……今の自分に、何ができる?

 待つのか?

 ただ儀式が進行し、すべてが終わるのを黙って見ているのか?

 それとも──儀式そのものを、破壊するのか?


(……もし儀式を壊せば、彼女を救える可能性はあるのか?)

 胸が締め付けられる。

 頭は必死に回るのに、答えは一つも見えてこなかった。


 ふと、アッシュは立ち上がり、窓の方へ歩み寄る。

 外の中庭は、厚い雪に覆われていた。

 数人の作業員が長いブラシで石段の雪を掃いている。

 その奥には、大聖堂の尖塔が空を突き刺すようにそびえ、側堂と牢塔の影が雪原に長く伸びていた。


 アッシュは手を伸ばして窓を押し開ける。

 冷たく乾いた空気が一気に吹き込んできて、思わず身震いする。


 セイフィナはすぐさま身構え、手を腰の剣に添えた。

 声を低く抑えながら警戒する。

「……まさか、今ここから飛び降りて逃げるつもりじゃないでしょうね?」


 アッシュの視線は雪に向けられたまま。

 だが、その声は驚くほど落ち着いていた。

「……ここから飛び降りたところで、どうせ死にはしないさ。」


 セイフィナは一瞬、言葉を失った。

 額にしわを寄せて詰め寄る。

「なに言ってんの。死ぬつもり?──早すぎるわ。」


 アッシュはゆっくりと窓を閉じ、再び椅子に戻って腰を下ろす。

 そして、卓上のパンを手に取り、無言で一塊を引きちぎって口に放り込む。

 セイフィナは呆れたように眉を上げ、まるで変人を見るように彼を見た。

「……今度はパンで自分を詰め殺すつもり?」


 アッシュはゆっくりと噛みながら、まるで胸の重苦しさを咀嚼するかのように。

 やがて、彼は顔を上げてセイフィナを見た。

 その声はかすれていたが、微かに決意を滲ませていた。

「……セイフィナ。いくつか、用意してほしい物がある。」


「……決めたのね。」

 セイフィナは腕を組み、柱にもたれかかる。

 眉をわずかに上げながら、冷静に応じた。

「ただし、できることとできないことがある。最初に聞いておくわよ。」


 アッシュは彼女をまっすぐに見つめ、頷いた。

 その眼差しには、諦めることを許さない冷たい覚悟が宿っていた。

「……わかった。」


 ◆ ◆ ◆


 夕暮れ。殿の扉が開かれ、冷たい風と雪の気配が一緒に吹き込んできた。


 オズモンドが中へと入ってくる。

 肩に雪をまとったままのマントが、彼の無機質な美しさにさらに拍車をかけていた。

 入ってくるなり、長椅子に座っているアッシュを見つけて、皮肉な笑みを浮かべる。

「……本当におとなしく座ってたとはね?」


 アッシュは一瞥をくれただけで、何も返さない。


 オズモンドは鼻を鳴らし、彼の正面の椅子に腰を下ろす。

 手袋を外しながら、あっさりと口にした。

「朗報だよ。──儀式は、明日行われることになった。」


 アッシュの眉がぴくりと動き、顔をしかめる。

「……明日? そんなに早く?」

 胸がぎゅっと締めつけられる。

 セイフィナの準備──間に合うだろうか?


 オズモンドは楽しそうに片眉を上げ、口元にうっすらと嫌味な笑みを浮かべた。

「なに? もう少し閉じ込められてる生活を楽しみたかったか?」

 そして、わざとらしく言葉を重ねた。

「……いっそ、王国に戻るときにも鎖でもつけてやろうか? 懐かしくて落ち着くかもな。」


 アッシュはそれには答えず、視線を逸らす。

 その態度が逆に面白いのか、オズモンドは椅子の背にもたれ、指で肘掛けをリズムよく叩く。

「明日は、お前にも席が用意されてる。儀式を一緒に見届けてもらうよ。」


 アッシュは顔を上げた。

 その瞳には、怒りを押し殺した冷たさが宿っていた。

「……なぜ、俺を?」

 その問いには、「なぜ見せつける?」という怒りが含まれていた。


 オズモンドは鼻で笑った。

「教皇の使節団の提案だよ。」

 そして、ふっと笑みを引きながらも、目には薄い冷意が浮かぶ。

「……あの連中はな。神の名を口にしながら、お前がもがき苦しむ姿を見たいだけだ。」

 指が肘掛けを叩く音が重く鳴る。

「お前が本気で暴れれば、彼らは正当な理由で制裁を下せる。……それに、俺も無関係ではいられなくなる。」


 そして、少し間を置いて続ける。

「それから──さっき、聖女騎士がここに来てたそうだな。」

 その視線がアッシュに鋭く注がれる。

 警戒と探りが混じった目だった。

「……何を企んでる?」


 アッシュは黙っていた。

 指がかすかに震え、手首の鉄環がカチン、と鳴った。


 オズモンドはしばらくその様子を眺めていたが、やがて立ち上がり、無言で袖を整えた。

「とにかく──明日はおとなしくしていろ。」

 命令のような声。

 感情のない冷たさがそこにあった。

「客人の前で、お前の後始末なんてごめんだからな。」


 ◆ ◆ ◆


 アッシュは、てっきりまた牢に戻されるものと思っていた。

 しかし、連れてこられたのは──白い大理石が敷き詰められた浴場だった。


 浴槽の中央から、白く薄い蒸気が立ち上る。

 高窓から差し込む月光が、空気中の粒子を静かに照らしていた。

 ラベンダーとワームウッドの香りが交じり合い、苦く不安な香気が満ちている。


 オズモンドはすでに浴槽のそばに立っていた。

 手袋を外し、銀の髪が月と灯の光に照らされている。

 彼はアッシュを見ると、意味深な笑みを浮かべた。

「驚いたか? てっきりまた牢に戻されると思ったか?」


 アッシュは眉をひそめ、本能的に手首の鎖を強く握った。


「……その顔はやめろ。」

 オズモンドは落ち着いた口調で、まるで儀式の進行を読み上げるように言った。

「明日はお前も人前に出る。王子が乞食のような見た目では、さすがに体裁が悪い。」


 そして、じろじろとアッシュの体を見渡しながら、言葉を続ける。

「脱げ。洗え。きれいにしろ。」


 アッシュは歯を食いしばるようにして、黙ってその場に立ち尽くしていた。

 やがて、騎士たちが近づき、彼の鉄環を外した。

 鎖が床に落ちる音が、鋭く響く。


 一瞬の解放──だが、これは自由ではない。

 ただ、次の鎖をかけられるまでの猶予にすぎない。


 アッシュは静かにシャツを脱ぎ、床に投げる。

 指先が胸元で止まるが、そこには何もない。

 彼は一瞬、まゆをひそめて、手を下ろした。


 オズモンドの視線が、アッシュの傷だらけの体に注がれ、口元に薄い笑みが浮かぶ。

「……これが、王国の英雄か。」

 声には僅かな嫉妬と嘲りが混じっていた。

「その傷痕……すべて戦場の勲章だろう? 外の連中が見たら、きっと伝説の戦士として崇めるんだろうな。」


 アッシュは無言で湯に入った。

 熱が傷を刺激し、鋭い痛みに思わず息を呑む。

 湯面には波紋が広がり、彼の影をバラバラに引き裂いていた。


 オズモンドは見下ろす位置から、淡々と告げた。

「明日、お前は儀式の中心になる。──倒れるなよ。」

 そして、侍者に振り向き、手をひらひらと動かす。

「……ちゃんと整えてやれ。見苦しい囚人じゃなく、ちゃんと舞台に立てる元・第七王子

 にしてくれ。」


 蒸気が満ちてゆく。

 アッシュの目の奥にある怒りを隠しながら──

 彼は目を閉じ、水面へ顔を沈めた。

 肺が焼けるほどに息を止め、そして一気に浮かび上がる。

 水滴が髪から滴り、肩を伝って傷跡に流れていく。


 アッシュは月の反射で揺れる水面を見つめながら、ゆっくりと手を握り締めた。

(どんなに侮辱されても、どんなに供物扱いされても──)

(……俺は、リゼを取り戻す。)

 呼吸が落ち着くにつれ、その瞳はさらに冷たく、鋭くなる。


 蒸気が揺れる蝋燭の光をにじませながら──

 その決意を、静かに照らしていた。


 ──明日、必ず儀式を壊してみせる。


 たとえこの世界全てを敵に回しても、

 彼女を、死なせはしない。

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