第112話 儀式の前夜
アッシュはじっと地面を見つめたまま、長い沈黙に沈んでいた。
さっきのセイフィナの言葉が、まだ頭の中に残響している。
──彼女は、助ける方法を探すと言ってくれた。
だが、たとえそうだとしても……今の自分に、何ができる?
待つのか?
ただ儀式が進行し、すべてが終わるのを黙って見ているのか?
それとも──儀式そのものを、破壊するのか?
(……もし儀式を壊せば、彼女を救える可能性はあるのか?)
胸が締め付けられる。
頭は必死に回るのに、答えは一つも見えてこなかった。
ふと、アッシュは立ち上がり、窓の方へ歩み寄る。
外の中庭は、厚い雪に覆われていた。
数人の作業員が長いブラシで石段の雪を掃いている。
その奥には、大聖堂の尖塔が空を突き刺すようにそびえ、側堂と牢塔の影が雪原に長く伸びていた。
アッシュは手を伸ばして窓を押し開ける。
冷たく乾いた空気が一気に吹き込んできて、思わず身震いする。
セイフィナはすぐさま身構え、手を腰の剣に添えた。
声を低く抑えながら警戒する。
「……まさか、今ここから飛び降りて逃げるつもりじゃないでしょうね?」
アッシュの視線は雪に向けられたまま。
だが、その声は驚くほど落ち着いていた。
「……ここから飛び降りたところで、どうせ死にはしないさ。」
セイフィナは一瞬、言葉を失った。
額にしわを寄せて詰め寄る。
「なに言ってんの。死ぬつもり?──早すぎるわ。」
アッシュはゆっくりと窓を閉じ、再び椅子に戻って腰を下ろす。
そして、卓上のパンを手に取り、無言で一塊を引きちぎって口に放り込む。
セイフィナは呆れたように眉を上げ、まるで変人を見るように彼を見た。
「……今度はパンで自分を詰め殺すつもり?」
アッシュはゆっくりと噛みながら、まるで胸の重苦しさを咀嚼するかのように。
やがて、彼は顔を上げてセイフィナを見た。
その声はかすれていたが、微かに決意を滲ませていた。
「……セイフィナ。いくつか、用意してほしい物がある。」
「……決めたのね。」
セイフィナは腕を組み、柱にもたれかかる。
眉をわずかに上げながら、冷静に応じた。
「ただし、できることとできないことがある。最初に聞いておくわよ。」
アッシュは彼女をまっすぐに見つめ、頷いた。
その眼差しには、諦めることを許さない冷たい覚悟が宿っていた。
「……わかった。」
◆ ◆ ◆
夕暮れ。殿の扉が開かれ、冷たい風と雪の気配が一緒に吹き込んできた。
オズモンドが中へと入ってくる。
肩に雪をまとったままのマントが、彼の無機質な美しさにさらに拍車をかけていた。
入ってくるなり、長椅子に座っているアッシュを見つけて、皮肉な笑みを浮かべる。
「……本当におとなしく座ってたとはね?」
アッシュは一瞥をくれただけで、何も返さない。
オズモンドは鼻を鳴らし、彼の正面の椅子に腰を下ろす。
手袋を外しながら、あっさりと口にした。
「朗報だよ。──儀式は、明日行われることになった。」
アッシュの眉がぴくりと動き、顔をしかめる。
「……明日? そんなに早く?」
胸がぎゅっと締めつけられる。
セイフィナの準備──間に合うだろうか?
オズモンドは楽しそうに片眉を上げ、口元にうっすらと嫌味な笑みを浮かべた。
「なに? もう少し閉じ込められてる生活を楽しみたかったか?」
そして、わざとらしく言葉を重ねた。
「……いっそ、王国に戻るときにも鎖でもつけてやろうか? 懐かしくて落ち着くかもな。」
アッシュはそれには答えず、視線を逸らす。
その態度が逆に面白いのか、オズモンドは椅子の背にもたれ、指で肘掛けをリズムよく叩く。
「明日は、お前にも席が用意されてる。儀式を一緒に見届けてもらうよ。」
アッシュは顔を上げた。
その瞳には、怒りを押し殺した冷たさが宿っていた。
「……なぜ、俺を?」
その問いには、「なぜ見せつける?」という怒りが含まれていた。
オズモンドは鼻で笑った。
「教皇の使節団の提案だよ。」
そして、ふっと笑みを引きながらも、目には薄い冷意が浮かぶ。
「……あの連中はな。神の名を口にしながら、お前がもがき苦しむ姿を見たいだけだ。」
指が肘掛けを叩く音が重く鳴る。
「お前が本気で暴れれば、彼らは正当な理由で制裁を下せる。……それに、俺も無関係ではいられなくなる。」
そして、少し間を置いて続ける。
「それから──さっき、聖女騎士がここに来てたそうだな。」
その視線がアッシュに鋭く注がれる。
警戒と探りが混じった目だった。
「……何を企んでる?」
アッシュは黙っていた。
指がかすかに震え、手首の鉄環がカチン、と鳴った。
オズモンドはしばらくその様子を眺めていたが、やがて立ち上がり、無言で袖を整えた。
「とにかく──明日はおとなしくしていろ。」
命令のような声。
感情のない冷たさがそこにあった。
「客人の前で、お前の後始末なんてごめんだからな。」
◆ ◆ ◆
アッシュは、てっきりまた牢に戻されるものと思っていた。
しかし、連れてこられたのは──白い大理石が敷き詰められた浴場だった。
浴槽の中央から、白く薄い蒸気が立ち上る。
高窓から差し込む月光が、空気中の粒子を静かに照らしていた。
ラベンダーとワームウッドの香りが交じり合い、苦く不安な香気が満ちている。
オズモンドはすでに浴槽のそばに立っていた。
手袋を外し、銀の髪が月と灯の光に照らされている。
彼はアッシュを見ると、意味深な笑みを浮かべた。
「驚いたか? てっきりまた牢に戻されると思ったか?」
アッシュは眉をひそめ、本能的に手首の鎖を強く握った。
「……その顔はやめろ。」
オズモンドは落ち着いた口調で、まるで儀式の進行を読み上げるように言った。
「明日はお前も人前に出る。王子が乞食のような見た目では、さすがに体裁が悪い。」
そして、じろじろとアッシュの体を見渡しながら、言葉を続ける。
「脱げ。洗え。きれいにしろ。」
アッシュは歯を食いしばるようにして、黙ってその場に立ち尽くしていた。
やがて、騎士たちが近づき、彼の鉄環を外した。
鎖が床に落ちる音が、鋭く響く。
一瞬の解放──だが、これは自由ではない。
ただ、次の鎖をかけられるまでの猶予にすぎない。
アッシュは静かにシャツを脱ぎ、床に投げる。
指先が胸元で止まるが、そこには何もない。
彼は一瞬、まゆをひそめて、手を下ろした。
オズモンドの視線が、アッシュの傷だらけの体に注がれ、口元に薄い笑みが浮かぶ。
「……これが、王国の英雄か。」
声には僅かな嫉妬と嘲りが混じっていた。
「その傷痕……すべて戦場の勲章だろう? 外の連中が見たら、きっと伝説の戦士として崇めるんだろうな。」
アッシュは無言で湯に入った。
熱が傷を刺激し、鋭い痛みに思わず息を呑む。
湯面には波紋が広がり、彼の影をバラバラに引き裂いていた。
オズモンドは見下ろす位置から、淡々と告げた。
「明日、お前は儀式の中心になる。──倒れるなよ。」
そして、侍者に振り向き、手をひらひらと動かす。
「……ちゃんと整えてやれ。見苦しい囚人じゃなく、ちゃんと舞台に立てる元・第七王子
にしてくれ。」
蒸気が満ちてゆく。
アッシュの目の奥にある怒りを隠しながら──
彼は目を閉じ、水面へ顔を沈めた。
肺が焼けるほどに息を止め、そして一気に浮かび上がる。
水滴が髪から滴り、肩を伝って傷跡に流れていく。
アッシュは月の反射で揺れる水面を見つめながら、ゆっくりと手を握り締めた。
(どんなに侮辱されても、どんなに供物扱いされても──)
(……俺は、リゼを取り戻す。)
呼吸が落ち着くにつれ、その瞳はさらに冷たく、鋭くなる。
蒸気が揺れる蝋燭の光をにじませながら──
その決意を、静かに照らしていた。
──明日、必ず儀式を壊してみせる。
たとえこの世界全てを敵に回しても、
彼女を、死なせはしない。




