第111話 眠れぬ夜、交わされる決意
鉄の扉が、ギィ……と軋んで開いた。
アッシュは、完全に眠っていたわけではない。
まぶたは鉛のように重く、意識は深い底を漂っていた。
騎士が二人、雪を纏ったままの鎧で中へ入ってきた。
そのまま、刺すような冷気が狭い牢に流れ込む。
「起きろ。」
一人が冷たく言う。
アッシュは抵抗せず、ゆっくりと立ち上がった。
動作に合わせて手首の鉄環が鳴り、狭い牢の中に響くその音はやけに鋭い。
だが今回は、聖堂へ連れて行かれるわけではなかった。
朝の鐘が遠くで鳴り響く中、騎士たちは彼をあの馴染み深い応接の間へと導いた。
部屋にはすでにオズモンドが座っていた。
手元の書類に目を落としながら、机の端にはまだ湯気を立てる茶が置かれている。
彼はアッシュを見るなり、深く眉間にしわを寄せた。
長い指でこめかみを押さえ、まるで頭痛をこらえるかのような仕草をする。
「祭壇を壊して、人を殴って、聖女を落として逃げ出すとは──」
淡々とした口調だが、言葉の一つ一つが鋭く、アッシュの耳に深く突き刺さる。
「教国中に、俺の弟が暴れてるって噂を広める気か?」
アッシュは唇を噛みしめ、低く答える。
「……すまなかった。」
その瞬間、オズモンドの動きが一瞬止まった。
意外そうに眉を上げる。
「……ほう、珍しいな。」
椅子に体を預け、皮肉を込めた口調で続ける。
「いつからそんなに素直になった?」
アッシュは言い返さず、視線を落としたまま黙っている。
目の先には、精巧な絨毯が敷かれていたが、彼の心は昨夜の言葉に縛られていた。
──『聖女は私だけになる。』
オズモンドは彼の様子を見て目を細め、机を指でコツコツと叩いた。
「おい、聞いてんのか。」
「……ああ。」
気のない返事に、オズモンドは冷笑する。
「とぼけるな。俺はもう、教国からの文句は受けたくない。」
そう言うと、机の上のもう一つの茶器をアッシュの前に滑らせた。
どこか苛立ちと諦めの混じった声で、命じるように言う。
「おとなしくしてろ。儀式が終わるまでな。──これ以上問題を起こすな。」
アッシュは少しの間沈黙し、やがて口を開く。
「……封印の儀は、いつ行われる?」
オズモンドはニヤリと笑った。
「どうした、見逃すのが怖いのか?」
ゆっくりと書類を伏せ、さらに雰囲気を張り詰めさせるように言葉を重ねた。
「今の状況を見るに、早まる可能性もあるな。俺としても早く終わらせて、この野猿を連れて帰りたいところだ。」
アッシュはその言葉に反応を示したが、反論はしなかった。
「よく聞け。」
オズモンドの目が鋭くなる。
「おとなしくしてる気がないなら、お前はずっとあの牢に閉じ込めてやる。」
アッシュは目を伏せ、かすかに言った。
「……あそこには戻りたくない。」
そして、少し間を置いてからぽつりと続けた。
「こっちの方が……暖かい。」
オズモンドの眉がぴくりと動く。
明らかに意外そうな反応だった。
「暖かい、だと?」
鼻を鳴らしつつも、しばらくアッシュをじっと見ていた。
「……勝手にしろ。ここにいていい。だが、もう問題は起こすな。」
「……ありがとう。」
オズモンドは視線をそらし、そっけなく返す。
「勘違いするな。面倒が増えるのが嫌なだけだ。お前にはまだ、俺と一緒に国へ帰ってもらわないと困る。」
そのとき、扉の外から侍者の声が響いた。
「オズモンド殿下、要人の皆様が揃われました。お迎えを。」
「……ああ。」
オズモンドは立ち上がり、袖口を整える。
塵一つ許さぬような潔癖な仕草だった。
扉に向かいかけたところで、彼はふと立ち止まり、振り返って騎士に言い放つ。
「こいつを見張れ。逃がすなよ。」
軽い口調ながらも、そこには有無を言わせぬ冷たさがあった。
「何かあったら──お前たちの責任だ。」
「はっ。」
鎧の擦れる音と共に、騎士の返事が返る。
オズモンドはアッシュに最後の一瞥を送り、口元にかすかな笑みを浮かべて言った。
「……おとなしくな。」
扉が重く閉まり、音が部屋に残った。
アッシュはゆっくりと息を吐き、額に手を当てる。
冷たい汗がにじみ、昨夜の記憶がまた胸を締めつけた。
(リゼ……お前に、もう一度会えるのか?)
彼は横を向き、雪に覆われた中庭を見つめた。
手が膝の上でぎゅっと握られる。
この数日、彼は何度もリメアに心の声で呼びかけた。
だが、一度も返答はなかった。
──その沈黙は、まるで新たな鎖のように彼を縛る。
アッシュは、応接間の長椅子にただ座り続けていた。
まるで釘で打ちつけられたように、微動だにせず。
昨夜、ろくに眠っていない。
たまに目を閉じるが、胸の重さにすぐ目を覚ましてしまう。
侍者の足音が近づく。
冷えた茶を新しいものに取り替え、熱々のパンを一籠、静かに置く。
動作はすべて音を立てぬよう、猛獣を起こさぬような慎重さだった。
アッシュはパンに目を落とした。
しかし、食欲は湧かない。麦の香りさえ、胸をつかまれるように感じた。
ただ座っているだけで、時間の感覚も曖昧になっていく。
気がつけば、蝋燭の高さが一段、低くなっていた。
「──ここにいたのか。」
静寂を破る声がした。
冷たく、だがどこか苛立ちを含んでいた。
アッシュが顔を上げると、扉の前に立つセイフィナが見えた。
髪に雪を乗せ、強い足取りで入ってくる。
「牢にも、聖堂にもいないから、探しまわったわよ。やっとここにいるって聞いて。」
彼女は腕を組み、椅子と卓を一瞥し、そしてアッシュに視線を戻す。
眉間にしわを寄せたまま、問いかける。
「……ずっとここで、時間を潰すつもり?」
アッシュはすぐには答えず、ただ目の前の木の卓をじっと見ていた。
その奥に、何かの答えがあるかのように。
喉が小さく動き、やっと言葉が落ちた。
「……静かだから。」
「静か、ね。」
セイフィナの眉がさらに寄る。
「それとも、ただ逃げてるだけ?」
声は冷たいが、彼を引き戻すための強さがあった。
「もうすぐ儀式が始まる。そんな状態じゃ、会いたい人にも会えなくなるわよ。」
アッシュは視線を上げる。
その目は曇り、まるで灰色の霧をまとっていた。
彼は言い返さない。動きもしない。
セイフィナはため息をつき、長椅子の横に立ち、彼を見下ろすように言う。
「……あなたの兄貴、意外と面倒見いいのね。口は悪いけど。」
アッシュは微かに顔を上げ、かすれた声で応えた。
「……そうか? 正直、よく知らない。」
再び視線を落とし、独り言のように続ける。
「小さい頃から、ずっと離れの棟で育てられた。その後はアエクセリオンに連れられて辺境へ。
騎士団に入ってからは戦ばかりで……王都にいた時間なんて、ほんのわずかだった。」
セイフィナは驚いたように目を見開き、口を噤んだ。
「……そうだったの。」
彼女はぽつりと呟き、すぐに首を振る。
「……いや、今日は昔話を聞きに来たんじゃない。」
表情を引き締め、真剣な声に変わる。
「言わなきゃいけないことがある。──リゼリアこそが、本物の聖女だって話。」
アッシュの視線がわずかに動く。
セイフィナは深く息を吸い、強い意志で言葉を継いだ。
「私も最近知ったの。入団当時は、聖女はエルセリア一人だって聞かされてたし……
リゼリアは、ずっと魔女として扱われていた。」
その目が伏せられ、声が少し弱くなる。
「だから……謝りたかったの。」
アッシュはしばらく黙ったまま、かすかに口元を歪める。
「お前に謝られる筋合いはないさ。お前はお前の主に仕えていただけだ。それは……罪じゃない。」
「……違う。」
セイフィナは首を振り、まっすぐに彼を見つめ返す。
「私は、本物の聖女を救いたいの。聖下を裏切る気なんてない。でも……
リゼリアが犠牲になるのは、どうしても見過ごせない。」
声を潜めるようにして言葉を続けた。
「──望みは薄い。でも、もしあなたが諦めてないなら、私は手を貸す。」
その言葉は、慰めではなかった。
炎の灯る薪のように──アッシュの胸に、かすかな熱が戻るのを感じた。




