第110話 ただひとり残る者
アッシュの指先がぎゅっと丸まり、脳裏にリゼリアとの過去の会話が甦る。
『子どもの頃はね。ずっと聖殿の中にいたの。』
『でも私は、遊びたくてこっそり抜け出したの。そしたら――魔女に攫われたのよ。』
『だから私は魔女に育てられた。魔女って呼ばれても、まあ仕方ないわけ。』
そして、あの日の光景が浮かぶ。
彼女が小川のそばでしゃがみ込み、何か哀しげな歌を口ずさんでいた姿。
琥珀色の瞳が水面の光を映し、静けさの中に哀愁が滲んでいた。
アッシュは深く息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げてエルセリアを見据える。
押し殺すような声で、低く問いかけた。
「……じゃあ、なぜ? なぜ、子供の頃に俺と川辺で出会ったのが、お前だと言った?」
エルセリアは明らかに動揺した。睫毛が揺れ、まるで心の奥の秘密に触れられたかのように。
「気づいてたの……?」
アッシュは答えず、鋭い視線で彼女を捉え続ける。
彼女は俯き、小さく震える声で語り始めた。
「……それは、姉さまに聞いたの。姉さまは時々、こっそり教国に戻ってきて私に会いに来てくれて……ある日、言ったの。
『昔、川辺でノアディスっていう男の子と出会ったことがある』って。」
彼女は唇を噛み締め、逡巡しながらも顔を上げ、まっすぐにアッシュを見つめた。
「……その人のことが、忘れられないって言ってた。」
アッシュの胸が強く締めつけられる。
リゼリアの頑なな眼差し、焚き火のそばで静かに佇む背中が、脳裏に鮮明に蘇る。
エルセリアの声は震えていたが、そこには確かな意志があった。
「私、その時、知りたくなったの。姉さまがそこまで思う相手が、どんな人なのか。
──そして、一年前。北の地であなたに出会った。」
彼女の瞳がぱっと輝く。
「あの時、私が誰か知らないのに……あなたは私を気にかけて、寒くないかって、マントをかけてくれた。
──嬉しかった。」
エルセリアは大きく息を吸い、再びアッシュを見据える。
湖のように澄んだ翠の瞳に、揺れる蝋燭の火が映る。その光は、逃げ場を与えてくれないほどまっすぐだった。
「姉さまが好きになった人は、こんな人だったんだ……」
その声は震えていた。それでも、まるで告白のような決意が込められていた。
「──その時にはもう、あなたのことが好きだった。」
アッシュの胸に、リゼリアとエルセリアの姿が同時に浮かぶ。
二人の影が交錯し、重なり合い、彼の胸を裂くような痛みをもたらす。
その時だった。
彼女が静かに両手を上げ、指を組み、祈りの形を作った。
湖水のような瞳がまっすぐ彼を見つめる。そこに映る蝋燭の光が、逃げ場を許さないほど澄んでいた。
「姉さまが、聖女としての使命を果たしたら……残る聖女は私だけになるの。」
その言葉を口にしたとき、彼女の唇はうっすらと笑っていた。
哀しみも感じられず、どこか未来への期待すらにじんでいた。
蝋燭の光が彼女の指の隙間から漏れ、床に長い影を落とす。
──まるで、姉の姿を完全に消し去るかのように。
アッシュの胸が鋭く締めつけられ、耳の奥で轟音が響く。
彼は、ほとんど反射的に立ち上がった。
膝が低い卓にぶつかり、「ガンッ」という音とともに脚が傾き、部屋に耳障りな摩擦音が鳴り響く。
足の痛みが脛を走り抜けるも、彼は一切気にせず、後ろへと一歩引いた。
──距離を取りたかった。
彼女から、香りと灯りに満ちたこの空間から、胸を締めつける現実から。
「ノアディス……?」
エルセリアが驚いて顔を上げ、何かを言おうとする。
だがアッシュは、振り返ると同時に扉へと駆け出した。
殿の外には、二人の騎士が直立不動で立っていた。突然飛び出してきたアッシュを見て、彼らは目を見開く。
「……俺を戻せ。」
かすれた声は、それでも命令のような鋭さを帯びていた。
騎士たちは戸惑い、互いに顔を見合わせる。
「聞こえなかったか? 囚室に戻せ!」
息を切らし、声を荒げる彼に、鉄環が叩きつけられたような音を立てて鳴る。
──空気さえも切り裂くような勢いで。
ようやく正気に返った騎士たちは、迷いながらも彼の両腕を押さえ、引きずるようにして連れて行く。
長廊下を抜け、吹雪がアーチ窓の隙間から吹き込んでくる。
その冷気が彼の頬を打ちつけ、皮膚を切るように痛い。だが──その痛みで、ようやく意識が覚醒する。
エルセリアのあの目。あの声。そして──
「聖女は私だけになる」──その言葉が何度も脳裏にこだまする。
あれは純粋な憧れなどではなかった。
あの瞳には、ある種の「独占」の光が宿っていた。
──姉の使命を継ぐのではなく、姉の遺したすべてを奪おうとしていた。
アッシュの胸が切り裂かれる。
その未来は、彼のものではない。
そこにはリゼリアがいない。ただ、エルセリアがいる世界──。
手首の鉄環が鳴り、重々しく響く。
(……これが、お前の望む世界なのか?)
(俺までも……その中に取り込むつもりか?)
脳裏に、昨日リゼリアが隣にいた光景がよみがえる。
距離はわずかで、彼女の温もりさえ感じられた。
あのとき彼女は何も言わなかった。
──だが、すでに別れの覚悟をしていたように見えた。
(誰にも……死んでほしくない。)
(彼女を……リゼを、失いたくない。)
長廊の風が彼の頬を打ちつけ、脳裏を澄ませる。
そして、彼の記憶にあの言葉が甦った。
──『私たち、似てるよね。どっちも、国に捨てられた人間だから。』
喉が締めつけられる。アッシュの指先がさらに強く丸まった。
そうだ、彼も彼女も同じだ。
この国に捨てられ、逃げ道も与えられず、ただ一つの道を進まされてきた。
──そして今。
もう一人の少女が、彼女の意志までも奪おうとしている。
手錠が動くたび、皮膚に食い込んで血が滲む。
アッシュは俯き、重い呼吸を吐いた。
額の髪は濡れ、汗か雪かもわからないほどだった。
(誰も救えない……)
(俺自身さえ……救えないんだ。)
彼は目を閉じ、膝を握る手に力を込める。
──現実にしがみつこうとするかのように。
だが、現実は一つの真実しか教えてくれなかった。
──どれだけ足掻いても、自分はただの囚われ人でしかないのだ。




