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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十一章:封印の儀式

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第110話 ただひとり残る者

 アッシュの指先がぎゅっと丸まり、脳裏にリゼリアとの過去の会話が甦る。


『子どもの頃はね。ずっと聖殿の中にいたの。』

『でも私は、遊びたくてこっそり抜け出したの。そしたら――魔女に攫われたのよ。』

『だから私は魔女に育てられた。魔女って呼ばれても、まあ仕方ないわけ。』


 そして、あの日の光景が浮かぶ。

 彼女が小川のそばでしゃがみ込み、何か哀しげな歌を口ずさんでいた姿。

 琥珀色の瞳が水面の光を映し、静けさの中に哀愁が滲んでいた。


 アッシュは深く息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げてエルセリアを見据える。

 押し殺すような声で、低く問いかけた。

「……じゃあ、なぜ? なぜ、子供の頃に俺と川辺で出会ったのが、お前だと言った?」


 エルセリアは明らかに動揺した。睫毛が揺れ、まるで心の奥の秘密に触れられたかのように。

「気づいてたの……?」


 アッシュは答えず、鋭い視線で彼女を捉え続ける。

 彼女は俯き、小さく震える声で語り始めた。


「……それは、姉さまに聞いたの。姉さまは時々、こっそり教国に戻ってきて私に会いに来てくれて……ある日、言ったの。

 『昔、川辺でノアディスっていう男の子と出会ったことがある』って。」

 彼女は唇を噛み締め、逡巡しながらも顔を上げ、まっすぐにアッシュを見つめた。

「……その人のことが、忘れられないって言ってた。」


 アッシュの胸が強く締めつけられる。

 リゼリアの頑なな眼差し、焚き火のそばで静かに佇む背中が、脳裏に鮮明に蘇る。


 エルセリアの声は震えていたが、そこには確かな意志があった。

「私、その時、知りたくなったの。姉さまがそこまで思う相手が、どんな人なのか。

 ──そして、一年前。北の地であなたに出会った。」


 彼女の瞳がぱっと輝く。


「あの時、私が誰か知らないのに……あなたは私を気にかけて、寒くないかって、マントをかけてくれた。

 ──嬉しかった。」


 エルセリアは大きく息を吸い、再びアッシュを見据える。

 湖のように澄んだ翠の瞳に、揺れる蝋燭の火が映る。その光は、逃げ場を与えてくれないほどまっすぐだった。

「姉さまが好きになった人は、こんな人だったんだ……」

 その声は震えていた。それでも、まるで告白のような決意が込められていた。

「──その時にはもう、あなたのことが好きだった。」


 アッシュの胸に、リゼリアとエルセリアの姿が同時に浮かぶ。

 二人の影が交錯し、重なり合い、彼の胸を裂くような痛みをもたらす。


 その時だった。

 彼女が静かに両手を上げ、指を組み、祈りの形を作った。

 湖水のような瞳がまっすぐ彼を見つめる。そこに映る蝋燭の光が、逃げ場を許さないほど澄んでいた。


「姉さまが、聖女としての使命を果たしたら……残る聖女は私だけになるの。」

 その言葉を口にしたとき、彼女の唇はうっすらと笑っていた。

 哀しみも感じられず、どこか未来への期待すらにじんでいた。


 蝋燭の光が彼女の指の隙間から漏れ、床に長い影を落とす。

 ──まるで、姉の姿を完全に消し去るかのように。

 アッシュの胸が鋭く締めつけられ、耳の奥で轟音が響く。


 彼は、ほとんど反射的に立ち上がった。

 膝が低い卓にぶつかり、「ガンッ」という音とともに脚が傾き、部屋に耳障りな摩擦音が鳴り響く。

 足の痛みが脛を走り抜けるも、彼は一切気にせず、後ろへと一歩引いた。

 ──距離を取りたかった。

 彼女から、香りと灯りに満ちたこの空間から、胸を締めつける現実から。


「ノアディス……?」

 エルセリアが驚いて顔を上げ、何かを言おうとする。

 だがアッシュは、振り返ると同時に扉へと駆け出した。

 殿の外には、二人の騎士が直立不動で立っていた。突然飛び出してきたアッシュを見て、彼らは目を見開く。


「……俺を戻せ。」

 かすれた声は、それでも命令のような鋭さを帯びていた。


 騎士たちは戸惑い、互いに顔を見合わせる。


「聞こえなかったか? 囚室に戻せ!」

 息を切らし、声を荒げる彼に、鉄環が叩きつけられたような音を立てて鳴る。

 ──空気さえも切り裂くような勢いで。

 ようやく正気に返った騎士たちは、迷いながらも彼の両腕を押さえ、引きずるようにして連れて行く。



 長廊下を抜け、吹雪がアーチ窓の隙間から吹き込んでくる。

 その冷気が彼の頬を打ちつけ、皮膚を切るように痛い。だが──その痛みで、ようやく意識が覚醒する。


 エルセリアのあの目。あの声。そして──

 「聖女は私だけになる」──その言葉が何度も脳裏にこだまする。


 あれは純粋な憧れなどではなかった。

 あの瞳には、ある種の「独占」の光が宿っていた。

 ──姉の使命を継ぐのではなく、姉の遺したすべてを奪おうとしていた。


 アッシュの胸が切り裂かれる。

 その未来は、彼のものではない。

 そこにはリゼリアがいない。ただ、エルセリアがいる世界──。


 手首の鉄環が鳴り、重々しく響く。

(……これが、お前の望む世界なのか?)

(俺までも……その中に取り込むつもりか?)


 脳裏に、昨日リゼリアが隣にいた光景がよみがえる。

 距離はわずかで、彼女の温もりさえ感じられた。


 あのとき彼女は何も言わなかった。

 ──だが、すでに別れの覚悟をしていたように見えた。


(誰にも……死んでほしくない。)

(彼女を……リゼを、失いたくない。)


 長廊の風が彼の頬を打ちつけ、脳裏を澄ませる。

 そして、彼の記憶にあの言葉が甦った。

 ──『私たち、似てるよね。どっちも、国に捨てられた人間だから。』


 喉が締めつけられる。アッシュの指先がさらに強く丸まった。

 そうだ、彼も彼女も同じだ。

 この国に捨てられ、逃げ道も与えられず、ただ一つの道を進まされてきた。


 ──そして今。

 もう一人の少女が、彼女の意志までも奪おうとしている。


 手錠が動くたび、皮膚に食い込んで血が滲む。

 アッシュは俯き、重い呼吸を吐いた。

 額の髪は濡れ、汗か雪かもわからないほどだった。


(誰も救えない……)

(俺自身さえ……救えないんだ。)


 彼は目を閉じ、膝を握る手に力を込める。

 ──現実にしがみつこうとするかのように。

 だが、現実は一つの真実しか教えてくれなかった。

 ──どれだけ足掻いても、自分はただの囚われ人でしかないのだ。

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