第109話 真実の名
アッシュが再び目を開けたとき──最初に感じたのは、肩に触れるかすかな重みと温もりだった。
淡い香りが鼻先をかすめる。焚香ではない。エルセリアの、あの優しい香り。
ゆっくりと顔を向けると、すぐそばに彼女の横顔があった。
湖水のように澄んだ翠の瞳は伏せられ、床を静かに見つめている。まるで、彼の目覚めを長く待っていたかのように。
殿内は驚くほど静かだった。火の揺らめく音まで聞こえるほどに。
少し離れたところには、セイフィナが腕を組んで立ち、まるで護衛のように周囲へ鋭い視線を巡らせている。
アッシュは一瞬だけ呆け、次いで気づいた。
──自分が彼女の肩にもたれたまま眠っていたのだ、と。
いつも張りつめていた体のこわばりが、ほんのわずか緩んでいた。
肩や背中の痛みもまだ残っているが、記憶の中よりずっと軽い。
手首に残っていたはずの蝋の跡も綺麗に拭われ、残っているのは鉄環の冷たい束縛だけだった。
アッシュは上体を起こし、周囲を見渡し、そして彼女へ視線を戻す。
「……どういうことだ?」
かすれた声が漏れた。
「オスモンド殿下が、ノアディス殿下がどうしても私に会いたい、と。」
エルセリアはいつも通り穏やかに答えたが、その睫の影には薄い疲れが滲んでいた。
「だから来ました。殿下は用事があるから先に戻ると。」
「ふん。せっかく呼びつけておいて、当の本人は寝てるし。」
セイフィナが腰の剣を軽く指で叩き、不機嫌そうに言った。
アッシュは手首を見下ろす。皮膚はもう赤くもなく、肩背の痛みもかなり引いている。
「……起こしてくれればよかったのに。」
「とても疲れているように見えましたから。少しくらい休んだほうが、と思って。」
エルセリアはそっと微笑むように言う。その声は、まるで彼を落ち着かせるための魔法のように柔らかかった。
アッシュの眉がわずかに寄った。
──これほど早く回復するはずがない。殴られ、蹴られ、床に叩きつけられたあの痛みが、こんな短時間で消えるはずがない。
だが、今はそれを追及する時ではない。
彼女がふと口を開いた。
「リュミエラのときのこと、覚えていますか? あの時も、あなたはこうして私の腕の中で眠っていました。」
アッシュは息を止めた。
──陽だまり。せせらぎ。彼女の指先が髪を梳いた、あのやわらかな感触。
胸が締めつけられ、思わず問う。
「あの時……俺の身体を探っていた。それは……何を探した?」
エルセリアの目が見開かれ、すぐに視線が伏せられる。頬に手を当て、少し照れたような仕草を見せた。
アッシュの目が細くなる。
「……例の箱だろう。」
ひと呼吸置いて、彼女は小さく頷いた。
「つまり──あの時点で、お前たちは箱の中身を知っていた。」
否定はなく、ただ固く結ばれた唇だけが答えだった。
アッシュは深く息を吸った。
「封印の儀……あれを行えば、聖女は命を落とすんだろ。
──なのに、なぜそこまでして箱を戻そうとした?」
エルセリアの睫毛が揺れ、喉が震える。言いたいことはたくさんあるのに、どこかが塞がれているようだった。
やがて、かすかな声が落ちる。
「それが……聖女の使命だから。」
「使命」と言う瞬間、声がわずかに乱れた。決意ではなく、自己暗示のような響きだった。
アッシュは彼女の指先を見る。
ぎゅっと握りしめた手。白くなるほど力がこもり、ときおり震えている。
「……それで、本当にお前は納得しているのか?」
絞り出すような問いだった。
蝋燭の光が彼の険しい横顔を照らし、同時に彼女の瞳に揺らぎを落とす。
エルセリアはしばらく黙り、やがてセイフィナを見る。
セイフィナは眉根を寄せ、ごくわずかに首を振った。
エルセリアの肩がわずかに落ち、握る指がさらに強くなる。
アッシュの胸が重く沈む。
「……お前たち、何か隠してるな。」
沈黙が落ちた。殿堂には焚香の残り香と蝋の弾ける音だけ。
「なら、質問を変える。
お前とリゼリア……ふたりは、一体どういう関係だ?」
エルセリアより早く、セイフィナが苛立ったように声を荒げた。
「その魔女の名を口にするな!」
エルセリアの肩がびくりと震える。瞳がうるみ、紅く染まる。
そして──震える声で言った。
「リゼ姉さまは──」
「聖下!」
セイフィナが鋭く叫び、慌てて止める。
だが、もう遅かった。
アッシュの視線が鋭く細められる。
「今……姉さま、と言った? 本当の姉なのか?」
エルセリアは唇を噛み、涙が一粒こぼれ落ち、そっと頷いた。
「……彼女は魔女なんかじゃない。
リゼ姉さまこそが──本物の聖女なの。」
アッシュの思考が止まった。
耳鳴りがして、周囲の音が全部遠のいていく。
理解が追いつかない。
心臓だけが、やけに大きく脈打つ。
──純白の聖袍を纏ったリゼリア。
──度々重なって見えたふたりの影。
──異様な治癒の速さ。
全部が一本の線に繋がった。
(じゃあ……儀式で命を落とすのは……)
胸の奥が冷たく掻きむしられ、息が詰まる。
彼は思わず顔を覆おうとして──
ガンッ、と手首の鉄環に引かれた鎖が鳴る。
金属が皮膚を裂き、鋭い痛みが駆け上がる。
「殿下!」
エルセリアが慌てて手を伸ばす。
彼女の掌に触れた瞬間、あたたかな魔力が流れ込み、傷がすっと塞がる。
アッシュは息を呑む。
「……魔法、か?」
「ええ。私は聖女としての力を持っていません。でも……魔力だけは普通の魔導師より強いんです。
治癒や浄化は得意で……軽い傷なら治せます。でも、重傷は……」
彼女は目を伏せ、続ける。
「旅の途中、あなたを治していたのは……リゼ姉さまの聖女の力です。」
アッシュの心臓が大きく跳ねた。
「……ずっと、彼女が……」
「魔力はありません。
あれは『聖女の力』です。」
セイフィナが剣の柄を強く握りしめ、言葉を飲み込む。
アッシュは震える声で問う。
「……なら、なぜ彼女は魔女と呼ばれている?」
エルセリアの睫が震え、静かに目を伏せた。
「姉さまは幼い頃、魔女にさらわれました。
教皇さまは『穢れた者は聖女にはなれない』と……」
「だから、お前が選ばれた。」
「……はい。でも……私はまだ一度も聖女の力を覚醒できていません。」
うなだれた肩が、小さく震えている。
アッシュはその姿を見つめながら、胸の奥で何かが軋むように痛んだ。
怒りと哀しみが混ざった、どうしようもない感情が込み上げる。




