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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十一章:封印の儀式

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第109話 真実の名

 アッシュが再び目を開けたとき──最初に感じたのは、肩に触れるかすかな重みと温もりだった。

 淡い香りが鼻先をかすめる。焚香ではない。エルセリアの、あの優しい香り。


 ゆっくりと顔を向けると、すぐそばに彼女の横顔があった。

 湖水のように澄んだ翠の瞳は伏せられ、床を静かに見つめている。まるで、彼の目覚めを長く待っていたかのように。

 殿内は驚くほど静かだった。火の揺らめく音まで聞こえるほどに。

 少し離れたところには、セイフィナが腕を組んで立ち、まるで護衛のように周囲へ鋭い視線を巡らせている。


 アッシュは一瞬だけ呆け、次いで気づいた。

 ──自分が彼女の肩にもたれたまま眠っていたのだ、と。

 いつも張りつめていた体のこわばりが、ほんのわずか緩んでいた。

 肩や背中の痛みもまだ残っているが、記憶の中よりずっと軽い。

 手首に残っていたはずの蝋の跡も綺麗に拭われ、残っているのは鉄環の冷たい束縛だけだった。


 アッシュは上体を起こし、周囲を見渡し、そして彼女へ視線を戻す。

「……どういうことだ?」

 かすれた声が漏れた。


「オスモンド殿下が、ノアディス殿下がどうしても私に会いたい、と。」

 エルセリアはいつも通り穏やかに答えたが、その睫の影には薄い疲れが滲んでいた。

「だから来ました。殿下は用事があるから先に戻ると。」


「ふん。せっかく呼びつけておいて、当の本人は寝てるし。」

 セイフィナが腰の剣を軽く指で叩き、不機嫌そうに言った。


 アッシュは手首を見下ろす。皮膚はもう赤くもなく、肩背の痛みもかなり引いている。

「……起こしてくれればよかったのに。」


「とても疲れているように見えましたから。少しくらい休んだほうが、と思って。」

 エルセリアはそっと微笑むように言う。その声は、まるで彼を落ち着かせるための魔法のように柔らかかった。


 アッシュの眉がわずかに寄った。

 ──これほど早く回復するはずがない。殴られ、蹴られ、床に叩きつけられたあの痛みが、こんな短時間で消えるはずがない。

 だが、今はそれを追及する時ではない。


 彼女がふと口を開いた。

「リュミエラのときのこと、覚えていますか? あの時も、あなたはこうして私の腕の中で眠っていました。」


 アッシュは息を止めた。

 ──陽だまり。せせらぎ。彼女の指先が髪を梳いた、あのやわらかな感触。

 胸が締めつけられ、思わず問う。

「あの時……俺の身体を探っていた。それは……何を探した?」


 エルセリアの目が見開かれ、すぐに視線が伏せられる。頬に手を当て、少し照れたような仕草を見せた。


 アッシュの目が細くなる。

「……例の箱だろう。」


 ひと呼吸置いて、彼女は小さく頷いた。

「つまり──あの時点で、お前たちは箱の中身を知っていた。」

 否定はなく、ただ固く結ばれた唇だけが答えだった。


 アッシュは深く息を吸った。

「封印の儀……あれを行えば、聖女は命を落とすんだろ。

 ──なのに、なぜそこまでして箱を戻そうとした?」


 エルセリアの睫毛が揺れ、喉が震える。言いたいことはたくさんあるのに、どこかが塞がれているようだった。

 やがて、かすかな声が落ちる。

「それが……聖女の使命だから。」


 「使命」と言う瞬間、声がわずかに乱れた。決意ではなく、自己暗示のような響きだった。


 アッシュは彼女の指先を見る。

 ぎゅっと握りしめた手。白くなるほど力がこもり、ときおり震えている。

「……それで、本当にお前は納得しているのか?」

 絞り出すような問いだった。

 蝋燭の光が彼の険しい横顔を照らし、同時に彼女の瞳に揺らぎを落とす。


 エルセリアはしばらく黙り、やがてセイフィナを見る。

 セイフィナは眉根を寄せ、ごくわずかに首を振った。

 エルセリアの肩がわずかに落ち、握る指がさらに強くなる。


 アッシュの胸が重く沈む。

「……お前たち、何か隠してるな。」

 沈黙が落ちた。殿堂には焚香の残り香と蝋の弾ける音だけ。

「なら、質問を変える。

 お前とリゼリア……ふたりは、一体どういう関係だ?」


 エルセリアより早く、セイフィナが苛立ったように声を荒げた。

「その魔女の名を口にするな!」


 エルセリアの肩がびくりと震える。瞳がうるみ、紅く染まる。

 そして──震える声で言った。

「リゼ姉さまは──」


「聖下!」

 セイフィナが鋭く叫び、慌てて止める。


 だが、もう遅かった。

 アッシュの視線が鋭く細められる。

「今……姉さま、と言った? 本当の姉なのか?」


 エルセリアは唇を噛み、涙が一粒こぼれ落ち、そっと頷いた。

「……彼女は魔女なんかじゃない。

 リゼ姉さまこそが──本物の聖女なの。」


 アッシュの思考が止まった。


 耳鳴りがして、周囲の音が全部遠のいていく。

 理解が追いつかない。

 心臓だけが、やけに大きく脈打つ。


 ──純白の聖袍を纏ったリゼリア。

 ──度々重なって見えたふたりの影。

 ──異様な治癒の速さ。

 全部が一本の線に繋がった。


(じゃあ……儀式で命を落とすのは……)


 胸の奥が冷たく掻きむしられ、息が詰まる。

 彼は思わず顔を覆おうとして──

 ガンッ、と手首の鉄環に引かれた鎖が鳴る。

 金属が皮膚を裂き、鋭い痛みが駆け上がる。


「殿下!」

 エルセリアが慌てて手を伸ばす。

 彼女の掌に触れた瞬間、あたたかな魔力が流れ込み、傷がすっと塞がる。


 アッシュは息を呑む。

「……魔法、か?」


「ええ。私は聖女としての力を持っていません。でも……魔力だけは普通の魔導師より強いんです。

 治癒や浄化は得意で……軽い傷なら治せます。でも、重傷は……」

 彼女は目を伏せ、続ける。

「旅の途中、あなたを治していたのは……リゼ姉さまの聖女の力です。」


 アッシュの心臓が大きく跳ねた。

「……ずっと、彼女が……」


「魔力はありません。

 あれは『聖女の力』です。」


 セイフィナが剣の柄を強く握りしめ、言葉を飲み込む。

 アッシュは震える声で問う。

「……なら、なぜ彼女は魔女と呼ばれている?」


 エルセリアの睫が震え、静かに目を伏せた。

「姉さまは幼い頃、魔女にさらわれました。

 教皇さまは『穢れた者は聖女にはなれない』と……」

「だから、お前が選ばれた。」

「……はい。でも……私はまだ一度も聖女の力を覚醒できていません。」

 うなだれた肩が、小さく震えている。


 アッシュはその姿を見つめながら、胸の奥で何かが軋むように痛んだ。

 怒りと哀しみが混ざった、どうしようもない感情が込み上げる。

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