第12話 心に届く声、届かない想い
夜が更け、林の中に焚き火の爆ぜる音が静かに響き、霜を溶かした。木々の影が炎に揺れた。
アッシュは火のそばにしゃがみ、切った肉を鉄鍋に入れる。煮立った湯の中から、香ばしい匂いが立ち昇る。
リメアは素直にそばに座し、頭を下げて乾パンを囓り、耳膜をそっと震わせながら、言葉を発さなかった。
空気は薄氷のように静かで、張りつめていた。
「彼女のこと、ずいぶんちゃんと面倒見てるのね。」
沈黙を破ったのは、焚き火から少し離れたところに腰かけているリゼリアだった。手には数個の木の実を持っている。
「思ってた王子様像と違うなぁ。もっと貴族っぽくて優雅で、焚き火もできないような人かと。」
「魔女、黙れ。」
アッシュは顔も上げずに言った。
リゼリアは肩をすくめ、気にした様子もない。
林の小動物たちが何匹か彼女のもとに集まり、木の実を置くと、警戒した目でアッシュを一瞥し、すぐに影へと戻っていった。
彼女は小さな声で動物たちに礼を言い、そのうちの一つを齧る。
「普段からそんなもん食ってんのか?」
アッシュがようやく彼女に視線を向けた。
「うん。動物たちが分けてくれるから。」
「寝るときは?」
「ヴァルフロストの胸に抱かれて。温かくて、心安らぐの。でも……今はどこにいるか分からない。」
アッシュは一瞬黙り、ため息をつくと、鍋から一杯分のスープをよそい、彼女の前に置いた。
「そんなもんじゃ、連邦まで辿り着けない。飲め。」
彼女は少し目を見開き、湯気の立つスープに視線を落とした。
一瞬だけ迷いを見せたが、やがて手を伸ばして受け取った。
「……ありがとう。」
一口飲んでから、彼女は探るような声で口を開いた。
「どこへ行くの? なぜそこまでして、東を目指すの? 国境を越えることがどういう意味を持つか、あなたなら分かってるはず。」
アッシュは答えなかった。スープを飲み干すと、黙々と片付けに取りかかった。
寝袋を広げ、結界を展開する準備を始める。
「魔力、無駄にしなくていいわよ。」
火の外からリゼリアの声がした。
「このあたりの魔獣は、私たちを襲わないから。」
「魔女の言うことなんて信じるか。」
アッシュは手を止めず、淡々と返す。
「さっさと寝ろ。明日早い。」
「目的地を教えてくれないと、私も協力しようがないのに。」
リゼリアの声は、事実を述べるように冷静だった。
「お前に頼んでない。」
リメアはあくびをして、尻尾をふりふりさせながら、当然のようにリゼリアの膝の上へ。
すっぽり丸くなって、気持ちよさそうに身体を沈めた。
その光景を見て、アッシュは眉をひそめ、「チッ」と舌打ちをした。
その音には、呆れだけでなく、微妙な感情がにじんでいた。
彼は立ち上がり、剣と魔導銃を背負うと、無言で林の奥へと歩き出す。
「どこへ?」
「湖畔だ。」
リメアはちらりと彼の背中を見て、耳膜を少し閉じたが、追いかけることはしなかった。
リゼリアはリメアの頭を撫でながら、静かに問いかけた。
〈あなたたち、ふだんはどうやってやり取りしてるの?〉
〈こころで話すの。あたしがアッシュに伝えたいって思ったら、彼に届くんだよ。
でも、遠すぎると届かないんだよ〉
リメアの尻尾が左右にゆらゆらと揺れる。
リゼリアはさらに尋ねる。
〈じゃあ、あなたの方からは彼の気持ちが分かる?〉
〈無理だよ。アッシュが話しかけるには、すごく集中しなきゃいけないって。だから、たいていは声に出して話すの〉
リゼリアはアッシュが消えていった森の奥を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
〈それじゃあ、ずいぶん不便ね……〉
彼女の声には、何かを見通すような響きがあった。
湖面は淡い月光を映し、風に揺られて波紋を広げていた。
アッシュは水辺にしゃがみ込み、鎧と上着を外す。
首元のペンダントが月明かりを受け、銀青の光を反射した――二枚の鱗を銀の細紐で交差させて繋いだ、簡素だが特別な飾りだった。
乾いた血で汚れた布を湖に浸すと、ひやりとした水が指先を包む。
腰の傷をそっとなぞれば、止血魔法の痕跡はまだあるものの、周囲の皮膚は赤く腫れ上がっている。
その動きはとてもゆっくりで、湖面を乱さぬように、あるいは思考が溢れ出すのを抑えるかのようだった。
『彼女のこと、ずいぶんちゃんと面倒見てるのね。』
その一言が、頭の中で何度もこだまする。
アッシュは視線を落とし、水面を指でそっとなぞった。
記憶が静かに波紋を広げる。
あの頃、彼はまだ十歳だった。
焼き加減の微妙な獣肉を手にしていると、アエクセリオンが静かに巨体をかがめ、爪先で焚き火に近づけるよう網を押した。
「……遅いって言いたいのかよ。」
ぶつぶつ文句を言ったこともある。
だが竜王は何も言わず、尾でほどよく焼けた肉を彼の足元へと投げて寄越した。
迷子になった山道では、その銀青の翼が風や飛石から彼を守り、蒼い瞳は常に正しい道を指し示していた――まるで、「ついてこい」と言うように。
危険を抜けるまで、アエクセリオンはいつも彼の隣を歩き、やがて静かに翼を畳むのだった。
……放任しつつ、確かに守ってくれていた。
今の自分がリメアにしていることと、どこか似ていた。
水音に現実へ引き戻される。
リゼリア――。
アッシュは知っている。
彼女がアエクセリオンを殺した犯人ではないことを。
ただ、「歌」によって魔獣を操る力を持った存在に過ぎない。
だが、彼女の背後にある何か――誰が彼女を利用し、あの戦争に竜の血を流させたのか、それを知る必要がある。
指から滴る水が湖面に落ち、静かに夜の闇へと溶けていく。
彼は森の暗がりを見つめた。
今は、問い詰めることも、遠ざけることもできない。
彼女の力が必要だ。
リメアを、あの場所まで送り届けるために――アエクセリオンが最期に目を向けていた、あの地へ。
たとえそれが、仇と肩を並べて進む道だとしても。
アッシュは服の裾を絞り、肩に羽織る。
湿った風が傷口を刺すように冷たいが、ただ静かに息を吐き、立ち上がる。
揺れた動きに、二枚の鱗がカチリと音を立てた。
焚き火の炎は赤く燃え上がり、木々や顔に暖かな光を投げかける。
アッシュが戻ったとき、リメアはすでにリゼリアの膝で丸くなって眠っていた。
小さな尾が時折ぴくりと動き、夢の中で何かを追いかけているかのようだ。
リゼリアは彼を一瞥し、何も言わず、そっとリメアの上に毛布をかけ直した。
アッシュは結界の外縁を一周し、周囲の異変を確認する。
……異常なし。
内心では認めたくないが、これも彼女の影響なのかもしれない。
火の傍に戻ると、アッシュは枯れ枝を手に取り、短剣で削り始めた。
その横で、リゼリアは小さな果実をいくつか岩の上に並べている。
森の小動物たちへの「分け前」だろう。
夜は深まり、地面からは冷気が静かに這い上がる。
アッシュは倒れた倒木に背を預け、まぶたを閉じようとした――そのとき、耳に微かな旋律が届いた。
……歌だ。
昼間のような呪文めいたものではなく、低く、焚き火の爆ぜる音に紛れるほどの、優しい調べ。
眉をひそめ、声を止めようとした。
だが、次の瞬間には、倦怠が波のように押し寄せる。
旋律は何の敵意もなく、ただ静かに、彼の心を遠く、懐かしい場所へと導いた。
アッシュのまぶたは次第に重くなり、手は剣の柄にかかったままだが、その呼吸は徐々に緩やかになっていく。
最後に耳に届いたのは、火の中で木が崩れる音、そして――
誰に向けたのかもわからない、あの歌だった。
リゼリアは腕の中のリメアに目を落とし、その額の小さな角にそっと触れる。
炎が彼女の銀青の鱗を照らし、その反射に、リゼリアの目が微かに揺れた。
――昔、頭を垂れて自分を見つめていた、あの竜に……よく似ている。
彼女はそっと目を閉じる。
そして再び、静かに歌い始めた。
異なる二つの魂に、同じ子守唄を捧げるように。




