表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第一章:灰燼より始まる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/87

第12話 心に届く声、届かない想い

 夜が更け、林の中に焚き火の爆ぜる音が静かに響き、霜を溶かした。木々の影が炎に揺れた。


 アッシュは火のそばにしゃがみ、切った肉を鉄鍋に入れる。煮立った湯の中から、香ばしい匂いが立ち昇る。


 リメアは素直にそばに座し、頭を下げて乾パンを囓り、耳膜をそっと震わせながら、言葉を発さなかった。


 空気は薄氷のように静かで、張りつめていた。


「彼女のこと、ずいぶんちゃんと面倒見てるのね。」

 沈黙を破ったのは、焚き火から少し離れたところに腰かけているリゼリアだった。手には数個の木の実を持っている。

「思ってた王子様像と違うなぁ。もっと貴族っぽくて優雅で、焚き火もできないような人かと。」


「魔女、黙れ。」

 アッシュは顔も上げずに言った。


 リゼリアは肩をすくめ、気にした様子もない。

 林の小動物たちが何匹か彼女のもとに集まり、木の実を置くと、警戒した目でアッシュを一瞥し、すぐに影へと戻っていった。

 彼女は小さな声で動物たちに礼を言い、そのうちの一つを齧る。


「普段からそんなもん食ってんのか?」

 アッシュがようやく彼女に視線を向けた。


「うん。動物たちが分けてくれるから。」


「寝るときは?」


「ヴァルフロストの胸に抱かれて。温かくて、心安らぐの。でも……今はどこにいるか分からない。」


 アッシュは一瞬黙り、ため息をつくと、鍋から一杯分のスープをよそい、彼女の前に置いた。


「そんなもんじゃ、連邦まで辿り着けない。飲め。」


 彼女は少し目を見開き、湯気の立つスープに視線を落とした。

 一瞬だけ迷いを見せたが、やがて手を伸ばして受け取った。


「……ありがとう。」


 一口飲んでから、彼女は探るような声で口を開いた。

「どこへ行くの? なぜそこまでして、東を目指すの? 国境を越えることがどういう意味を持つか、あなたなら分かってるはず。」


 アッシュは答えなかった。スープを飲み干すと、黙々と片付けに取りかかった。

 寝袋を広げ、結界を展開する準備を始める。


「魔力、無駄にしなくていいわよ。」

 火の外からリゼリアの声がした。

「このあたりの魔獣は、私たちを襲わないから。」


「魔女の言うことなんて信じるか。」

 アッシュは手を止めず、淡々と返す。

「さっさと寝ろ。明日早い。」


「目的地を教えてくれないと、私も協力しようがないのに。」

 リゼリアの声は、事実を述べるように冷静だった。


「お前に頼んでない。」


 リメアはあくびをして、尻尾をふりふりさせながら、当然のようにリゼリアの膝の上へ。

 すっぽり丸くなって、気持ちよさそうに身体を沈めた。


 その光景を見て、アッシュは眉をひそめ、「チッ」と舌打ちをした。

 その音には、呆れだけでなく、微妙な感情がにじんでいた。


 彼は立ち上がり、剣と魔導銃を背負うと、無言で林の奥へと歩き出す。


「どこへ?」

「湖畔だ。」


 リメアはちらりと彼の背中を見て、耳膜を少し閉じたが、追いかけることはしなかった。



 リゼリアはリメアの頭を撫でながら、静かに問いかけた。

〈あなたたち、ふだんはどうやってやり取りしてるの?〉


〈こころで話すの。あたしがアッシュに伝えたいって思ったら、彼に届くんだよ。

 でも、遠すぎると届かないんだよ〉

 リメアの尻尾が左右にゆらゆらと揺れる。


 リゼリアはさらに尋ねる。

〈じゃあ、あなたの方からは彼の気持ちが分かる?〉


〈無理だよ。アッシュが話しかけるには、すごく集中しなきゃいけないって。だから、たいていは声に出して話すの〉


 リゼリアはアッシュが消えていった森の奥を見つめ、ぽつりとつぶやいた。


〈それじゃあ、ずいぶん不便ね……〉

 彼女の声には、何かを見通すような響きがあった。




 湖面は淡い月光を映し、風に揺られて波紋を広げていた。

 アッシュは水辺にしゃがみ込み、鎧と上着を外す。

 首元のペンダントが月明かりを受け、銀青の光を反射した――二枚の鱗を銀の細紐で交差させて繋いだ、簡素だが特別な飾りだった。


 乾いた血で汚れた布を湖に浸すと、ひやりとした水が指先を包む。

 腰の傷をそっとなぞれば、止血魔法の痕跡はまだあるものの、周囲の皮膚は赤く腫れ上がっている。

 その動きはとてもゆっくりで、湖面を乱さぬように、あるいは思考が溢れ出すのを抑えるかのようだった。


『彼女のこと、ずいぶんちゃんと面倒見てるのね。』

 その一言が、頭の中で何度もこだまする。


 アッシュは視線を落とし、水面を指でそっとなぞった。

 記憶が静かに波紋を広げる。


 あの頃、彼はまだ十歳だった。

 焼き加減の微妙な獣肉を手にしていると、アエクセリオンが静かに巨体をかがめ、爪先で焚き火に近づけるよう網を押した。


「……遅いって言いたいのかよ。」

 ぶつぶつ文句を言ったこともある。

 だが竜王は何も言わず、尾でほどよく焼けた肉を彼の足元へと投げて寄越した。


 迷子になった山道では、その銀青の翼が風や飛石から彼を守り、蒼い瞳は常に正しい道を指し示していた――まるで、「ついてこい」と言うように。

 危険を抜けるまで、アエクセリオンはいつも彼の隣を歩き、やがて静かに翼を畳むのだった。


 ……放任しつつ、確かに守ってくれていた。

 今の自分がリメアにしていることと、どこか似ていた。


 水音に現実へ引き戻される。

 リゼリア――。


 アッシュは知っている。

 彼女がアエクセリオンを殺した犯人ではないことを。

 ただ、「歌」によって魔獣を操る力を持った存在に過ぎない。

 だが、彼女の背後にある何か――誰が彼女を利用し、あの戦争に竜の血を流させたのか、それを知る必要がある。


 指から滴る水が湖面に落ち、静かに夜の闇へと溶けていく。

 彼は森の暗がりを見つめた。


 今は、問い詰めることも、遠ざけることもできない。

 彼女の力が必要だ。

 リメアを、あの場所まで送り届けるために――アエクセリオンが最期に目を向けていた、あの地へ。


 たとえそれが、仇と肩を並べて進む道だとしても。


 アッシュは服の裾を絞り、肩に羽織る。

 湿った風が傷口を刺すように冷たいが、ただ静かに息を吐き、立ち上がる。

 揺れた動きに、二枚の鱗がカチリと音を立てた。




 焚き火の炎は赤く燃え上がり、木々や顔に暖かな光を投げかける。

 アッシュが戻ったとき、リメアはすでにリゼリアの膝で丸くなって眠っていた。

 小さな尾が時折ぴくりと動き、夢の中で何かを追いかけているかのようだ。


 リゼリアは彼を一瞥し、何も言わず、そっとリメアの上に毛布をかけ直した。


 アッシュは結界の外縁を一周し、周囲の異変を確認する。

 ……異常なし。

 内心では認めたくないが、これも彼女の影響なのかもしれない。


 火の傍に戻ると、アッシュは枯れ枝を手に取り、短剣で削り始めた。

 その横で、リゼリアは小さな果実をいくつか岩の上に並べている。

 森の小動物たちへの「分け前」だろう。


 夜は深まり、地面からは冷気が静かに這い上がる。

 アッシュは倒れた倒木に背を預け、まぶたを閉じようとした――そのとき、耳に微かな旋律が届いた。


 ……歌だ。


 昼間のような呪文めいたものではなく、低く、焚き火の爆ぜる音に紛れるほどの、優しい調べ。


 眉をひそめ、声を止めようとした。

 だが、次の瞬間には、倦怠が波のように押し寄せる。


 旋律は何の敵意もなく、ただ静かに、彼の心を遠く、懐かしい場所へと導いた。


 アッシュのまぶたは次第に重くなり、手は剣の柄にかかったままだが、その呼吸は徐々に緩やかになっていく。


 最後に耳に届いたのは、火の中で木が崩れる音、そして――

 誰に向けたのかもわからない、あの歌だった。


 リゼリアは腕の中のリメアに目を落とし、その額の小さな角にそっと触れる。


 炎が彼女の銀青の鱗を照らし、その反射に、リゼリアの目が微かに揺れた。


 ――昔、頭を垂れて自分を見つめていた、あの竜に……よく似ている。


 彼女はそっと目を閉じる。

 そして再び、静かに歌い始めた。


 異なる二つの魂に、同じ子守唄を捧げるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ