第108話 砕かれた静寂
聖堂の鐘が鳴り響き、低く長い余韻を残した。
アッシュは二人の騎士に両側から押さえられ、大広間へと連行される。
今日の聖堂は、ひときわ冷えていた。
焚かれた香の匂いが空間に渦巻き、雪の後の湿った空気と混じり合っている。
儀式の導入はいつもと同じ──聖典の朗読、聖女の献身と犠牲への賛美。
そして、竜族と結託する王国、魔と通じる者への非難。
アッシュは長椅子に座り、両手を前に縛られたまま、指が白くなるほどに拳を握っていた。
昨日と同じ言葉のはずなのに、今日はそのひとつひとつが、骨の奥に響くように重く感じられる。
(聖女の犠牲……封印の完成……)
(彼らは彼女の命を、世界の安寧と引き換えにするつもりか……)
息が乱れる。
脳裏には、祭壇の前で静かに祈りを捧げるエルセリアの姿が浮かぶ。
そしてもう一つ──あの渓流のほとり、両手を広げて笑っていた彼女の笑顔。
(儀式は……いつ行われる?)
(彼女に、もう一度会えるのか?)
やがて儀式が終わり、信者たちは去っていった。
アッシュは、騎士たちが迎えに来るのを待っていた。
だが、誰も来ない。
最後には、広い大殿にアッシュ一人だけが残された。
高い窓の隙間から冷たい風が吹き込み、蝋燭の炎を揺らす。
──今日は、リゼリアの姿も見えない。
アッシュの胸にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がる。
彼はゆっくりと顔を上げ、遠くの祭壇を見つめた。
そこには、聖女の像が立っていた。
両手を組み、優しげで慈悲深い眼差し。
だが、その微笑みはあまりにも遠く、届かない。
息が荒くなる。
彼は立ち上がり、鎖が鋭く鳴った。
足を引きずるようにして祭壇へと歩き出し、膝をつく。
(見ているだけか……)
(俺に、どうしろって言うんだ……)
次の瞬間──彼は手首を振り上げ、鎖を祭壇に叩きつけた。
重い音が大殿に響き渡る。
聖像前の蝋燭が揺れ、火の粉と蝋が散る。
「お前たちの望みは、俺からは得られない!」
声は掠れ、ほとんど叫びに近かった。
「殺すなら殺せ!──彼女たちを脅すな!」
外の騎士たちが騒ぎを聞きつけて駆け込んでくる。
長槍が唸りを上げ、アッシュの胸元を狙う。
だが、彼は鎖でその槍を受け止め、力任せに引き寄せると、膝で腹を突いた。
最初の騎士が呻き声を上げて地面に倒れる。
次の騎士が駆け寄るが、アッシュは鎖を素早く腕に巻きつけ、相手を地面に叩きつけた。
鎖が床を擦り、鋭い音を立てる。
あっという間に、二人を倒した。
アッシュは肩で息をしながら立ち尽くす。
汗が額から流れ、視界がにじむ。
だが、彼の足は一歩も退かなかった。
──両手は鎖に繋がれたまま。
それでも、その姿はまるで壁際に追い詰められた獣。
全身に緊張を漲らせ、視線は氷のように冷たく、鋭い。
──すぐに、次の波がやって来た。
外から続々と騎士たちがなだれ込む。
槍と盾が一斉に襲いかかり、アッシュはついに地面に押さえつけられた。
柄、拳、鋼鉄の靴──あらゆるものが彼の身体に叩きつけられる。
痛みが波のように押し寄せ、視界が赤く染まる。
耳にはもう、轟音しか聞こえない。
最後の一撃が落ちたとき、彼の手から力が抜け、鎖が石床に当たって乾いた音を立てた。
──そして、意識は闇へと沈んでいった。
薄暗い光の中で、アッシュはゆっくりと目を開けた。
眩しい蝋燭の光が瞳を刺し、視界が白んで見える。
──ここは、あの牢ではない。
湿気の染み込んだ壁も、鉄錆の匂いも、薬草の煙もない。
彼は柔らかすぎる長椅子に無造作に横たえられていた。
まるで、自分にはまったく不釣り合いな世界に放り込まれたかのように。
両手はまだ鎖につながれたまま。
金属の冷たさが皮膚に食い込み、まるで刻印のように痛む。
手のひらには、祭壇を砕いた時に触れた蝋がこびりついていた。
乾ききったその跡が、焦げた匂いと共に──
「これは現実だ」と唯一証明してくれる印だった。
全身の筋肉が軋むように痛み、
肩も背中も焼けつくように熱い。
胸には鈍い圧迫感が広がり、脚には重たい疲労が染みていた。
呼吸をするたびに骨の隙間まで痛みが滲み、思わず唸り声が漏れる。
「──目が覚めたか」
馴染んだ、だが冷たい声が響いた。
顔を上げると、向かいの椅子にもたれる男の姿があった。
オズモンド──
完璧に整えられた王族の礼装。
光沢のある長靴、指一本まで無駄のない動き。
アッシュよりもさらに明るい銀髪が蝋燭の光を反射していた。
まるで、「こここそが王族の座である」と言わんばかりに。
「自由を与えたら、今度は聖堂を壊すか?」
オズモンドは、まるで悪戯を叱る教師のように、静かに、皮肉げに言った。
「街中を騒がせたうえ、俺の部下を殺しかけた。」
一拍置いて、口元に意味深な笑みを浮かべる。
「幸い、教国は大目に見てくれたようだ。
そのままお前を俺に引き渡してくれた。
でなければ今頃、お前はこの椅子ではなく、血塗れの裁きの台に縛られていただろうな。」
そう言って、彼は杯を静かに置いた。
陶器がテーブルに当たり、鋭く澄んだ音を立てる。
その音が、まるで判決の鐘のように鳴り響いた。
「──おとなしくしていろ。封印の儀式が終わるまではな。」
アッシュはしばし沈黙し、やがて顔を伏せる。
鎖に繋がれた手の甲で、乱暴に頬をぬぐった。
乾いた傷口が裂け、鋭い痛みが走る。
「……自由?」
苦笑が漏れる。
だがその笑いには、どこまでも冷たい諦念が混じっていた。
「これを……自由と呼ぶのか?」
オズモンドは眉を上げる。
その反応を楽しんでいるように見えたが、何も言わず、続きを待った。
「──エルセリアに会わせろ。」
ついに、アッシュは口を開いた。
声は掠れていたが、言葉のひとつひとつが、魂を込めて絞り出されたように響いた。
「今……お前しかいない」
「エルセリア?」
オズモンドはその名を繰り返し、わずかに驚いたような、だがすぐに冷笑を浮かべる。
「封印の儀式を担う聖女か。そんなに親しかったのか?
……死ぬと分かっていて、それでも会いたいと?」
そう言って、オズモンドは手を振り上げ、侍従に命じた。
「──伝えろ。最後の願いくらい、聞いてやろう。」
それから、アッシュに視線を戻し、低く静かな声で言い放つ。
「だが、これが最後だ。次に暴れたら──
今度こそ、お前を檻に入れたまま、儀が終わるのを待たせることになる。」
アッシュは答えなかった。
ただ、額に張りついた髪を揺らしながら、息を吐いた。
それが「理解した」という沈黙の返答であることは、二人ともわかっていた。




