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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十一章:封印の儀式

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第107話 崩れゆく祈り

 朝の鐘の音が聖堂のドームに反響し、重く、荘厳に響き渡る。

 まるで全ての呼吸を押し潰すように。 


 アッシュが大広間に連行されたとき、空気には淡い香の煙が漂っていた。

 磨かれた床には塵一つなく、壁には聖女たちの壁画が並び、厳かに人々を見下ろしている。 


 壇上の司教が、低く、ゆっくりとした声で古の裁きを読み上げるように語る。

「──聖女は己の身を器とし、邪悪を封じ、大地に秩序をもたらした。

 竜の血は災厄と呪いを呼び、人々は信仰によって再び世界を築いた。

 王国が魔と手を取り合えば、やがては堕落へと至るだろう……」


 アッシュは膝をつかず、長椅子に座ったまま静かにそれを聞いていた。

 心の中で冷ややかに呟く。

(王国の竜騎士に説教するとは……いい度胸だな) 

 思わず笑いがこみ上げそうになる。

 彼らは本気で、いくつかの経文を読み上げれば、彼の信仰が変わり、アエクセリオンのことを忘れるとでも思っているのだろうか。


 その声は広い堂内に反響するが、アッシュの耳には次第に遠くなっていく。 

 指先が無意識に強ばる。 

 浮かんでくるのは、戦場の記憶ではなかった。 

 ──彼女の顔。 


 深い湖のような静かな翠の瞳が、彼をすべて映し出していた。 

 かつて彼女は、無造作な彼の髪に指を通し、静かに、ゆっくりと撫でた。

 そしてその手で、彼を抱き寄せた。 


 あの一瞬だけは、自分が孤独な狼ではなく、「受け止められる存在」なのだと思えた。 

 今、その記憶を思い出すだけで、胸が痛む。

(彼女も……この道を無理やり歩まされているのか?)

 まるで違う檻に閉じ込められた二羽の鳥。

 外は嵐でも、彼女もまた自由を渇望しているのではないか──


 やがて説教は終わり、会衆は去り、堂内は静寂に包まれた。 

 騎士たちは誰も連れ戻しに来ず、アッシュは独り、香の燃え尽きる音を聞きながら長椅子に座り続けた。

 まるで誰かが意図的に、贖罪として「孤独」と向き合わせようとしているかのように。


 聖堂は息を潜めるように静まり返っていた。 

 焚かれた香の最後の残り火が、わずかな音を立てて燃え尽きていく。 

 アッシュは長椅子に腰掛けたまま、手錠と鉄環で縛られた両手を膝に置き、鎖が小さく鳴った。

 乱れた前髪の下で顔は濡れ、呼吸は浅く、重い。 


 そのとき、石床に足音が響いた。 

 顔を上げると── 

 リゼリアが、聖堂の扉から入ってきた。 

 純白の聖衣をまとい、淡い紫の髪が肩に流れ、歩みに合わせて揺れていた。 

 その姿は一瞬、エルセリアと重なり、アッシュは思わず息を呑んだ。 


「……どうして、そんな格好を?」 

 声は枯れ、抑えきれないざらつきが混じっていた。

 

「ただの服よ。深く考えないで。」 

 リゼリアの声は淡々としていたが、まるで彼を落ち着かせるように、隣にそっと腰を下ろした。

 

 すぐ隣──彼女の体温が感じられる距離。

 薬草の香りが微かに漂う。

「教皇使節が、あなたに会うのを許したの。」

 

 アッシュの喉が詰まり、数秒の沈黙の後にやっと声を出す。

「……連れて行かれるのか。裁きに?」 

 鎖に縛られた両手をこわばらせ、顔には苦悶が浮かんでいた。

 

 リゼリアは彼の手にそっと触れた。

 その手は驚くほど穏やかで、恐れを和らげるように静かだった。 

「大丈夫。私は無事よ。」 

 それ以上は語らなかった。

 

 アッシュは歯を食いしばり、胸の奥に重く冷たい塊を抱えたまま、次の問いをぶつける。 

「リゼ……教国と、お前はどういう関係なんだ?

 エルセリアが自ら迎えに来た理由は……何なんだ?」

 

 リゼリアの指がわずかに止まる。

 しかし答えは返ってこなかった。

「今は、話すときじゃない。」

 その瞳には静かな覚悟が宿っていた。

 

 アッシュは心が沈んでいくのを感じた。

 ここまで来ても、何も知らされないまま。 

 彼はもう、追及をやめた。

 ただ、胸の奥が重く、息が苦しい。

 

「リメアは別の場所で保護されてるわ。安心して。無事よ。」 

 リゼリアの優しい声が、まるで子供をなだめるように届く。

 

 アッシュは目を伏せ、拳を握りしめた。

 喉が詰まり、何も言えない。

 そのとき、リゼリアは静かに頭を彼の肩に預けた。

 

 アッシュの全身が強張り、心拍が跳ね上がる──

 彼女がここまで近づくのは、滅多にない。

 その瞬間、アッシュの中にひとつの恐れが芽生えた。

 

 ──これが、彼女と最後に会う時間かもしれない。

 

 扉が重く開かれ、鎧のぶつかる音と共に冷たい風が堂内に吹き込んだ。

「時間です。」

「殿下、こちらへ。」

 騎士が冷たい声で言う。

 

 リゼリアの手がアッシュの上からそっと離れた。 

 アッシュはただ、彼女を見つめた。

 言葉は何も出ず、ただその表情を深く胸に刻んだ。

 

 鎖が鳴り、彼は立たされる。 

 光が遠ざかる。聖堂の静寂が、背後で満ちていく。


 アッシュが独房に戻された時、外は深い雪に覆われていた。

 雪片が風に巻かれ、冷たい石段に降り積もる。すぐに踏み潰され、泥混じりの痕跡へと変わる。

 鉄扉が「ガン」と閉じられ、重い音が狭い牢内に長く響いた。 

 角の薬草も燃え尽き、残るのは焦げた香りとわずかな薬の残香。

 

 彼は壁に寄りかかり、ゆっくりと座り込んだ。

 手錠が手首に食い込み、筋肉は長時間の緊張で重く痛む。 

 冷たい空気が肺を刺す。 

 思い返すのは、昼間の光景──

 すぐ隣で感じた、リゼリアの心音。

 それだけが、まだ温もりを感じる記憶。


 目を伏せ、拳を握りしめる。

 胸の奥がさらに重く沈む。

 外では雪が降り続いている。

 冷気が骨にまで染みわたる。

(目を覚ますたび、側堂へ連行され、あの箱を……)

 

 同じ場面が何度も繰り返される。

 コピーされ、貼り付けられ、再生され──

 あの箱が開かれるまで。

 

(……もし、開けなかったら?)

(また繰り返すのか? 精神が壊れるまで、何度でも……?)

 その考えに、背筋が寒くなる。

 見えない鎖が首を締めるように。

 指が掌に食い込み、呼吸さえ凍る。

 

 浮かんでくるのは、祈りを捧げるエルセリアの姿。

 黙って見つめていたリゼリアの瞳。

 鎖に引かれるリメアの、か細い鳴き声── 

 すべてが、彼に「諦めろ」と囁いてくる。 


 足元に雪が舞い込み、すぐに水となり、石床に染み込んでいく。 

 その冷たさが、胸まで迫る。 

 アッシュはそっと息を吐いた。

 乱れた髪が、その息に揺れる。


(……負けられない。この茶番に。)

(たとえ這いつくばらされても──俺は最後まで、この目で見届ける。)

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