第107話 崩れゆく祈り
朝の鐘の音が聖堂のドームに反響し、重く、荘厳に響き渡る。
まるで全ての呼吸を押し潰すように。
アッシュが大広間に連行されたとき、空気には淡い香の煙が漂っていた。
磨かれた床には塵一つなく、壁には聖女たちの壁画が並び、厳かに人々を見下ろしている。
壇上の司教が、低く、ゆっくりとした声で古の裁きを読み上げるように語る。
「──聖女は己の身を器とし、邪悪を封じ、大地に秩序をもたらした。
竜の血は災厄と呪いを呼び、人々は信仰によって再び世界を築いた。
王国が魔と手を取り合えば、やがては堕落へと至るだろう……」
アッシュは膝をつかず、長椅子に座ったまま静かにそれを聞いていた。
心の中で冷ややかに呟く。
(王国の竜騎士に説教するとは……いい度胸だな)
思わず笑いがこみ上げそうになる。
彼らは本気で、いくつかの経文を読み上げれば、彼の信仰が変わり、アエクセリオンのことを忘れるとでも思っているのだろうか。
その声は広い堂内に反響するが、アッシュの耳には次第に遠くなっていく。
指先が無意識に強ばる。
浮かんでくるのは、戦場の記憶ではなかった。
──彼女の顔。
深い湖のような静かな翠の瞳が、彼をすべて映し出していた。
かつて彼女は、無造作な彼の髪に指を通し、静かに、ゆっくりと撫でた。
そしてその手で、彼を抱き寄せた。
あの一瞬だけは、自分が孤独な狼ではなく、「受け止められる存在」なのだと思えた。
今、その記憶を思い出すだけで、胸が痛む。
(彼女も……この道を無理やり歩まされているのか?)
まるで違う檻に閉じ込められた二羽の鳥。
外は嵐でも、彼女もまた自由を渇望しているのではないか──
やがて説教は終わり、会衆は去り、堂内は静寂に包まれた。
騎士たちは誰も連れ戻しに来ず、アッシュは独り、香の燃え尽きる音を聞きながら長椅子に座り続けた。
まるで誰かが意図的に、贖罪として「孤独」と向き合わせようとしているかのように。
聖堂は息を潜めるように静まり返っていた。
焚かれた香の最後の残り火が、わずかな音を立てて燃え尽きていく。
アッシュは長椅子に腰掛けたまま、手錠と鉄環で縛られた両手を膝に置き、鎖が小さく鳴った。
乱れた前髪の下で顔は濡れ、呼吸は浅く、重い。
そのとき、石床に足音が響いた。
顔を上げると──
リゼリアが、聖堂の扉から入ってきた。
純白の聖衣をまとい、淡い紫の髪が肩に流れ、歩みに合わせて揺れていた。
その姿は一瞬、エルセリアと重なり、アッシュは思わず息を呑んだ。
「……どうして、そんな格好を?」
声は枯れ、抑えきれないざらつきが混じっていた。
「ただの服よ。深く考えないで。」
リゼリアの声は淡々としていたが、まるで彼を落ち着かせるように、隣にそっと腰を下ろした。
すぐ隣──彼女の体温が感じられる距離。
薬草の香りが微かに漂う。
「教皇使節が、あなたに会うのを許したの。」
アッシュの喉が詰まり、数秒の沈黙の後にやっと声を出す。
「……連れて行かれるのか。裁きに?」
鎖に縛られた両手をこわばらせ、顔には苦悶が浮かんでいた。
リゼリアは彼の手にそっと触れた。
その手は驚くほど穏やかで、恐れを和らげるように静かだった。
「大丈夫。私は無事よ。」
それ以上は語らなかった。
アッシュは歯を食いしばり、胸の奥に重く冷たい塊を抱えたまま、次の問いをぶつける。
「リゼ……教国と、お前はどういう関係なんだ?
エルセリアが自ら迎えに来た理由は……何なんだ?」
リゼリアの指がわずかに止まる。
しかし答えは返ってこなかった。
「今は、話すときじゃない。」
その瞳には静かな覚悟が宿っていた。
アッシュは心が沈んでいくのを感じた。
ここまで来ても、何も知らされないまま。
彼はもう、追及をやめた。
ただ、胸の奥が重く、息が苦しい。
「リメアは別の場所で保護されてるわ。安心して。無事よ。」
リゼリアの優しい声が、まるで子供をなだめるように届く。
アッシュは目を伏せ、拳を握りしめた。
喉が詰まり、何も言えない。
そのとき、リゼリアは静かに頭を彼の肩に預けた。
アッシュの全身が強張り、心拍が跳ね上がる──
彼女がここまで近づくのは、滅多にない。
その瞬間、アッシュの中にひとつの恐れが芽生えた。
──これが、彼女と最後に会う時間かもしれない。
扉が重く開かれ、鎧のぶつかる音と共に冷たい風が堂内に吹き込んだ。
「時間です。」
「殿下、こちらへ。」
騎士が冷たい声で言う。
リゼリアの手がアッシュの上からそっと離れた。
アッシュはただ、彼女を見つめた。
言葉は何も出ず、ただその表情を深く胸に刻んだ。
鎖が鳴り、彼は立たされる。
光が遠ざかる。聖堂の静寂が、背後で満ちていく。
アッシュが独房に戻された時、外は深い雪に覆われていた。
雪片が風に巻かれ、冷たい石段に降り積もる。すぐに踏み潰され、泥混じりの痕跡へと変わる。
鉄扉が「ガン」と閉じられ、重い音が狭い牢内に長く響いた。
角の薬草も燃え尽き、残るのは焦げた香りとわずかな薬の残香。
彼は壁に寄りかかり、ゆっくりと座り込んだ。
手錠が手首に食い込み、筋肉は長時間の緊張で重く痛む。
冷たい空気が肺を刺す。
思い返すのは、昼間の光景──
すぐ隣で感じた、リゼリアの心音。
それだけが、まだ温もりを感じる記憶。
目を伏せ、拳を握りしめる。
胸の奥がさらに重く沈む。
外では雪が降り続いている。
冷気が骨にまで染みわたる。
(目を覚ますたび、側堂へ連行され、あの箱を……)
同じ場面が何度も繰り返される。
コピーされ、貼り付けられ、再生され──
あの箱が開かれるまで。
(……もし、開けなかったら?)
(また繰り返すのか? 精神が壊れるまで、何度でも……?)
その考えに、背筋が寒くなる。
見えない鎖が首を締めるように。
指が掌に食い込み、呼吸さえ凍る。
浮かんでくるのは、祈りを捧げるエルセリアの姿。
黙って見つめていたリゼリアの瞳。
鎖に引かれるリメアの、か細い鳴き声──
すべてが、彼に「諦めろ」と囁いてくる。
足元に雪が舞い込み、すぐに水となり、石床に染み込んでいく。
その冷たさが、胸まで迫る。
アッシュはそっと息を吐いた。
乱れた髪が、その息に揺れる。
(……負けられない。この茶番に。)
(たとえ這いつくばらされても──俺は最後まで、この目で見届ける。)




