表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十章:繋がれた記憶と鎖

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

116/136

第105話 再び、目覚めの鐘

 ……鐘の音。 


 アッシュは再び、あの馴染み深い空気の中で目を覚ました――

 薬草の苦味、焚香の煙、低く響く祈りの声。


 だが、目を開けた瞬間、彼は違和感を覚えた。

 療養室の広さが、以前よりもわずかに広く感じられる。

 壁の曲線や窓の高さも微妙に異なっている。まるで、別の場所に移されたかのようだった。


 身体にはまだ疲労が残っていたが、外傷はすでにすべて癒えていた。これまでと同じように。 

 アッシュは身を起こし、白いシャツと濃色のズボンに身を包まれた自分の姿に目を落とす。

 無意識に胸元に手を伸ばす。竜鱗は、今も静かに首にかけられており、その冷たい感触に、わずかな安堵を覚えた。


 彼は視線を巡らせる。

 だが今回は、扉の前にエルセリアの姿も、壁にもたれるセイフィナの姿もなかった。

 代わりに入ってきたのは、無表情な一人の主教だった。

 彼は軽く頭を下げ、淡々と言った。

「ノアディス殿下。教皇使節殿が、お会いになりたいそうです。」


 アッシュは目を細め、すぐには動かなかった。

「リゼリアは? ……それに、俺の竜は?」

 掠れた声には、鋭い警戒が滲んでいる。


 だが主教の表情は一切変わらず、ただ同じ言葉を繰り返した。

「教皇使節殿が、お待ちです。」 


 アッシュの指先がわずかに震え、額の血管がピクリと跳ねる。

 彼はベッドから立ち上がった。

 足取りは重く、だが確かな意志を秘め、扉へと歩みを進める。

 

 その一歩一歩が、見えない罠へと自ら足を踏み入れていくようだった――

 彼はすでに、これから待ち受ける「裁き」がどういうものかを知っていた。 


 

 側堂の灯火はいつもよりも明るく、

 壁に刻まれた聖紋が、まるで炎のように目を刺す。 


 アッシュは二人の騎士に連れられて堂内に押し込まれ、

 膝を強制的に冷たい石の床に着かされた。 


 高台には教皇使節が端然と腰掛けており、まるでこの時を待っていたかのようだった。 

「ノアディス殿下。」 

 その声は静かでありながら、どこか見えない喜悦を孕んでいた。 

「聖遺物をご覧になった以上、それが意味するものもご理解いただけたでしょう。」

 

 使節はゆっくりと立ち上がり、高台から階段を下りてくる。

 法衣が床を擦り、低く重い音を響かせた。


 アッシュの目前に立ち止まった彼は、わずかに身をかがめ、恩恵でも授けるような口調で言った。

「本来であれば、あなたに説明する必要などない。だが、せっかくここにいるのです。これからあなたが直面する現実を教えて差し上げましょう。」

 彼は一つの木箱を取り出し、戦利品でも見せるように蓋を開いた。

 深紅の結晶が燭光に照らされ、妖しく輝く。

 

「封印の儀には、二つの要素が必要です――聖遺物、そして聖女の魂。」

 その声は低く、そして冷酷な笑みを含んでいた。

「彼女はその命を捧げ、聖遺物――つまり竜王の心臓結晶――と共に封印の核となる。それが、彼女の存在理由です。」


 アッシュの呼吸が一瞬にして荒くなり、胸に重くのしかかる痛みが彼を押し潰す。

 脳裏をよぎるのは、祈りを捧げるエルセリアの横顔。

 そして――あの渓谷。


 陽光のもと、彼女が水辺に立ち、両腕を広げて空と大地を抱こうとしたあの瞬間。

 あの笑顔は、「自由」を心から願った証だった。


(彼女は……知っていたのか?

 それとも、すでに……覚悟していた?

 命をもって、封印を完遂することを――)

 

 アッシュの指が、拳を握り締めたまま掌に深く食い込み、

 胸の奥で怒りと絶望が爆発寸前まで煮えたぎっていた。 


 使節は、その表情の変化を見逃さなかった。

 口元に薄い笑みを浮かべ、低く嘲るように言う。

 

「いい顔だ、殿下。鎖に繋がれた竜……いや、追い詰められた野犬の方が似合っている。」

「忘れるな。お前の居場所は地べただ。跪いているのが、今の貴様に相応しい。」

 

 彼は背を向け、高台へと戻りながら言い放つ。

「その表情を保っておくといい。……すぐに、それを見届ける者が現れる。」

 

 アッシュは顔を上げ、その瞳に冷たい炎を宿しながら言った。 

「誰だ?」

 

 使節は直接答えず、彼の怒りを楽しむように笑った。 

「すぐにわかりますよ。」

 

 アッシュの心に鋭い痛みが走る。

 怒りが頭を駆け巡り、かすれた声が叫びへと変わる。 


「リゼを……エルセリアを……リメアを見せろ!

 今すぐ……会わせろッ!!」

 

 騎士たちが即座に動き、槍の柄がアッシュの体を打ち据える。

 彼は床に叩きつけられ、肩に押し付けられた柄が逃げ場を塞ぐ。


 血が唇から流れ、石の床に点々と落ちる。

 使節は、もはや抵抗する力もない者を見るように彼を見下ろし、静かに命じた。

「連れて行け。」

 


 騎士たちは容赦なくアッシュの両腕を掴み、半ば引きずるようにして引き立てる。

 血は彼の顎と衣の裾を伝い、床に赤い痕を残した。 


 重い扉が開かれ、外の冷風が吹き込む。

 傷口に沁みるその冷たさが、彼を強制的に現実へ引き戻す。

 

 アッシュは息を荒げながらも、次第にその瞳を冷たく沈めていく。

 その眼差しは、まるでこの世界すべてを燃やし尽くさんとするかのようだった。 


 高台の上、使節はそれを見下ろしながら、どこか満足げな表情を浮かべていた――

 まるで、次なる「観客」の到着を待ち構えているように。 




 騎士たちはアッシュを半ば引きずるようにして側堂を出た。

 外の風は鋭く、血の気すら凍るほど冷たい。 


 アッシュは歯を食いしばり、もう抵抗はしなかった。

 ただ、押されるままに歩を進めた。 


 長い回廊を抜け、広々とした聖堂の回廊を通り過ぎ――

 やがて、豪奢な装飾が施された応接の間へと連れて来られる。


 扉が開かれた瞬間、暖かな灯りと香の匂いが彼を包んだ。

 それは先ほどまでの冷気と、あまりにも対照的な空気だった。 


 室内には、すでに一人の男が待っていた。 

 天鵞絨の長椅子に優雅に腰掛け、王国貴族の正装を身に纏い――

 銀髪はアッシュよりもさらに明るく、燭光の下で眩しく輝いていた。

 その瞳は冷たく鋭く、口元にはかすかな笑み。 


「弟、ノアディス。」

 ゆっくりと、そしてはっきりとした口調で彼は言う。

 親しみとも、威圧ともとれるその呼びかけ。 

「やっと来たな。」


 アッシュは騎士に背を押されて部屋の中へと入る。

 ふらつく足取りで顔を上げ、目を見開いた――


 第二王子、オズモンド。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ