間章 記録官の選択
夜も更け、文書室には一つの揺らめくランプだけが灯っていた。
エミールは長机の奥に座り、一通の報告書を書き終えたところだった。
その時、机の上に置かれた魔導通信器が淡い青光を放ち始める。
これは長距離通信だ。
メリッサの声が静かに響く。
「フィリシア様がこの内容をエミール様にお伝えするようにとのことです――ノアディス殿下は教国に護送されています。止めるなら、セラフィア領に入る前しかありません。」
声が途切れ、光も次第に消えていく。
部屋は再び静寂に包まれた。
エミールはゆっくりと手にしていたペンを置き、指先で机を二度叩いた。
その瞳には深い憂いが宿る。
「……なぜ殿下が教国の手に?」
机の上に散らばっていた書類をまとめ、一枚の地図に重ねる。
目を向けたのは、これまでに集めた情報――
アエクセリオンの遺骨が、北方へと極秘裏に運ばれていたこと。
それが安置されるのではなく、ある禁術の材料として利用されているという噂。
さらに、しばらくして市中に大量の新型魔導符釘が出回り、その出所を追った先も北だった。
エミールの眉間に皺が深まる。
「竜王の遺骨、北方製の符釘、そして今は殿下の護送……偶然で片付けられるものじゃない。」
脳裏に浮かぶのは、北方の小国カルデリア――
かつて竜王が戦死した、あの戦場。
「教国は……遺骨を奪っただけではなく、殿下までも利用しようとしているのか?」
彼は深く息を吸い込み、心中のざわめきを押し殺した。
この件は、上には報告できない。
「第一王子レオネルがこの事実を知れば、即座に身柄の引き渡しを要求するだろう。……最悪の場合、戦争も辞さない。」
だが王国は、まだ内乱からの立て直しの途中にある。
今、教国との争いが始まれば、どちらが勝つかも分からない。
そして、ノアディス殿下はその渦中で政治の駒として――あるいは、犠牲として扱われる可能性が高い。
本来なら、セドリックと相談したいところだが……
二人は所属が異なり、直接連携する機会はほとんどない。
自分は騎士団の記録官、セドリックは宮廷の魔導顧問――
しかも今は非常時。王族はすでにセドリックに疑いの目を向けている。
「……連絡はできない。」
エミールは一枚の白紙を取り出し、素早く密書を書き上げ、封蝋で固める。
それを使者に手渡すと、静かに言った。
「北境にいる古い同志に届けてくれ。
セラフィア領に入る前に、山賊の皮を被った狼どもを使って護送隊を襲撃しろ。
殿下を救えなくとも、生存の確認だけは必ず。」
封蝋が閉じられた瞬間、彼はふと窓の外に目をやる。
漆黒の夜空に、光はなかった。
「殿下……どうか、無事でいてください。」
――十数日後。
密使が戻り、返書を手渡した。
エミールは封蝋を解き、文面を素早く目で追う。
やがて、彼の手が止まり、眉間の皺がさらに深まった。
「……失敗、か。」
文中には、はっきりとこう書かれていた――
彼らが襲撃した護送隊は、厳重な防備体制を敷いており、随行の騎士たちは一個の民兵隊を圧倒できるほどの戦力。
さらに、複数の高位聖職者が同行しており、魔導を封じる結界を展開していた。
「撤退路までも見抜かれていたとは……」
エミールは書簡を静かに閉じ、長く息を吐く。
胸の奥に重い感情が沈殿していく。
「教国がここまで徹底しているとは……予想以上だ。」
彼は再び地図を見上げた。
視線は、北境とセラフィアの国境付近に伸びる道筋に落ちる。
「殿下……ここから先は、あなた自身に託すしかない。」




