第104話 終わらぬ旅の果てに
――揺れ。
車輪の振動が、アッシュを暗闇の底から無理やり引き戻した。
薄暗く狭い空間。破れた布が風に煽られ、その隙間から細かな雪が吹き込み、地面に落ちては冷たい水跡を残していく。
厚布に包まれていても、風の刃のような冷気が容赦なく身体を刺した。
アッシュの頭は、何か柔らかいものの上に乗っていた。
耳元にはかすかな呼吸音。
ひんやりとした指先が頬に触れ、そっと止まる――まるで、彼がまだ生きているかを確かめているかのように。
「……目が覚めた?」
重たい瞼をこじ開けると、まず目に飛び込んできたのは、薄光を映した瞳。
聖堂で何度も見た、あの緑――
(……エルセリア……?)
だが焦点が合うと、それが緑ではなく、見慣れた琥珀色であると気づいた。
――リゼリアだった。
アッシュの喉がわずかに動き、胸の痛みが一瞬、緩んだように感じた。
――彼女は、ここにいる。
リゼリアは身を屈め、指先を彼の頬に添えたまま、目に驚きと安堵を浮かべる。
「やっと、目を覚ましたのね」
アッシュは身を起こそうとした。
だが胸に走った裂けるような痛みで、低く呻く。
「動かないで」
リゼリアが肩に手を当て、静かに言う。「全身が傷だらけなの。まだ治ってないわ」
【アッシュ!】
頭の中にリメアの声が響く。
抑えきれない喜びが込められていた。
すぐに彼の傍らへと寄り、温かい鼻先でアッシュの腕をすり寄せる。
【夢じゃないよね? 本当に、目を覚ましたんだよね?】
アッシュは顔を向け、リメアを見た。
唇がかすかに動き、疲れ切ったような微笑が浮かぶ。
「……ああ……」
彼はゆっくりと手を上げ、リメアに触れようとした。
まるで――この瞬間が現実だと、確認するかのように。
リメアはすぐに額を差し出し、彼の手のひらにそっと頬を寄せた。
呼吸は浅く、吸い込む空気すらも肺を刺すほど冷たかった。
季節も、場所も――すでに変わってしまっていた。
アッシュは周囲を見回した。
そこは、四方を鉄柵に囲まれた囚人輸送車。
外側はボロボロの麻布で覆われ、隙間からは天光と雪が差し込み、手の甲に落ちては水に変わっていく。
車輪が揺れるたび、鎖が軋んで鈍い音を立てた。
ようやく、彼は気づく。
リゼリアとリメアの足首にも鎖が繋がれている。
自分の手首にも、冷たい手錠が固く嵌められていた。
「……俺たち、ずっと移動してたのか?」
かすれた声は、自分に問うているようでもあり、彼女たちに向けた問いでもあった。
リゼリアはしばらく沈黙した後、小さく答えた。
「あなたはずっと昏睡状態だった。
……私は、少なくとも教国に着くまでは、目を覚まさないと思ってた」
彼女は顔を横に向け、破れた布の隙間から外を見つめた。
「……気候が変わったわ。もう数日もすれば、セラフィアの領内に入る」
風に乗って舞い込む雪。
リメアが低く鳴き、尾で地面を叩く。
寒風を防ごうと羽を広げようとするも、鎖に引かれて動きはぎこちなく、焦りだけが募っていく。
アッシュは、その鎖につながれた足爪を見つめたまま、胸の奥が締めつけられた。
指先が自然と丸まり、拳を作る。
「……つまり、もうすぐ教国に着くってことか?」
リゼリアは彼を見つめ直し、目に穏やかな、だが複雑な光を宿して答えた。
「ええ。リュミエラを出てから、もう二十日以上経ってる……
もう少しの辛抱よ。着けば、あなたの治療も――今よりは楽になるかもしれない」
アッシュの瞳孔が微かに収縮した。
しかしすぐには言葉を返せなかった。
冷たい鎖が手首に食い込み、指先が震える。
胸の奥に、言葉では言い表せないほどの痛みが湧き上がる。
――二十日以上?
脳裏が真っ白になる。
(……いつ、俺はここへ連れてこられたんだ?)
それは、自分で選んだ道だったのか?
それとも、最初から誰かに背を押され、引きずられ、ただ流されていただけなのか?
意識の奥で、何かが崩れた。
――どこまでが自分の意志で
――どこからが、他人に決められたものなのか。
リゼリアは小さく鼻歌を口ずさむ。
聞き慣れた旋律だった。それは祈りのようにも、慰めのようにも聞こえた。
アッシュは目を閉じる。
耳に響くのは、石を擦る車輪の音と、鎖の打ち鳴らす低い衝突音。
日と夜が混ざり合い、重なっていく「繰り返し」の記憶――
(まさか……俺はずっと、ここから抜け出せていなかったのか?)
指先が再び握り込まれ、胸に鈍い痛みが走る。
――この旅は、きっと、過酷なものになる。




