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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十章:繋がれた記憶と鎖

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第104話 終わらぬ旅の果てに

 ――揺れ。

 車輪の振動が、アッシュを暗闇の底から無理やり引き戻した。


 薄暗く狭い空間。破れた布が風に煽られ、その隙間から細かな雪が吹き込み、地面に落ちては冷たい水跡を残していく。

 厚布に包まれていても、風の刃のような冷気が容赦なく身体を刺した。


 アッシュの頭は、何か柔らかいものの上に乗っていた。

 耳元にはかすかな呼吸音。

 ひんやりとした指先が頬に触れ、そっと止まる――まるで、彼がまだ生きているかを確かめているかのように。


 「……目が覚めた?」

 重たい瞼をこじ開けると、まず目に飛び込んできたのは、薄光を映した瞳。

 聖堂で何度も見た、あの緑――


 (……エルセリア……?)


 だが焦点が合うと、それが緑ではなく、見慣れた琥珀色であると気づいた。

 ――リゼリアだった。


 アッシュの喉がわずかに動き、胸の痛みが一瞬、緩んだように感じた。

 ――彼女は、ここにいる。


 リゼリアは身を屈め、指先を彼の頬に添えたまま、目に驚きと安堵を浮かべる。

 「やっと、目を覚ましたのね」


 アッシュは身を起こそうとした。

 だが胸に走った裂けるような痛みで、低く呻く。


 「動かないで」

 リゼリアが肩に手を当て、静かに言う。「全身が傷だらけなの。まだ治ってないわ」


 【アッシュ!】

 頭の中にリメアの声が響く。

 抑えきれない喜びが込められていた。


 すぐに彼の傍らへと寄り、温かい鼻先でアッシュの腕をすり寄せる。

 【夢じゃないよね? 本当に、目を覚ましたんだよね?】


 アッシュは顔を向け、リメアを見た。

 唇がかすかに動き、疲れ切ったような微笑が浮かぶ。


 「……ああ……」

 彼はゆっくりと手を上げ、リメアに触れようとした。

 まるで――この瞬間が現実だと、確認するかのように。


 リメアはすぐに額を差し出し、彼の手のひらにそっと頬を寄せた。

 

 呼吸は浅く、吸い込む空気すらも肺を刺すほど冷たかった。

 季節も、場所も――すでに変わってしまっていた。


 アッシュは周囲を見回した。

 そこは、四方を鉄柵に囲まれた囚人輸送車。

 外側はボロボロの麻布で覆われ、隙間からは天光と雪が差し込み、手の甲に落ちては水に変わっていく。


 車輪が揺れるたび、鎖が軋んで鈍い音を立てた。

 ようやく、彼は気づく。

 リゼリアとリメアの足首にも鎖が繋がれている。

 自分の手首にも、冷たい手錠が固く嵌められていた。


 「……俺たち、ずっと移動してたのか?」

 かすれた声は、自分に問うているようでもあり、彼女たちに向けた問いでもあった。


 リゼリアはしばらく沈黙した後、小さく答えた。

 「あなたはずっと昏睡状態だった。

 ……私は、少なくとも教国に着くまでは、目を覚まさないと思ってた」

 彼女は顔を横に向け、破れた布の隙間から外を見つめた。

 「……気候が変わったわ。もう数日もすれば、セラフィアの領内に入る」


 風に乗って舞い込む雪。

 リメアが低く鳴き、尾で地面を叩く。

 寒風を防ごうと羽を広げようとするも、鎖に引かれて動きはぎこちなく、焦りだけが募っていく。


 アッシュは、その鎖につながれた足爪を見つめたまま、胸の奥が締めつけられた。

 指先が自然と丸まり、拳を作る。

 「……つまり、もうすぐ教国に着くってことか?」


 リゼリアは彼を見つめ直し、目に穏やかな、だが複雑な光を宿して答えた。

 「ええ。リュミエラを出てから、もう二十日以上経ってる……

 もう少しの辛抱よ。着けば、あなたの治療も――今よりは楽になるかもしれない」


 アッシュの瞳孔が微かに収縮した。

 しかしすぐには言葉を返せなかった。


 冷たい鎖が手首に食い込み、指先が震える。

 胸の奥に、言葉では言い表せないほどの痛みが湧き上がる。


 ――二十日以上?


 脳裏が真っ白になる。

 (……いつ、俺はここへ連れてこられたんだ?)

 それは、自分で選んだ道だったのか?

 それとも、最初から誰かに背を押され、引きずられ、ただ流されていただけなのか?


 意識の奥で、何かが崩れた。

 ――どこまでが自分の意志で

 ――どこからが、他人に決められたものなのか。

 

 リゼリアは小さく鼻歌を口ずさむ。

 聞き慣れた旋律だった。それは祈りのようにも、慰めのようにも聞こえた。


 アッシュは目を閉じる。


 耳に響くのは、石を擦る車輪の音と、鎖の打ち鳴らす低い衝突音。

 日と夜が混ざり合い、重なっていく「繰り返し」の記憶――


 (まさか……俺はずっと、ここから抜け出せていなかったのか?)


 指先が再び握り込まれ、胸に鈍い痛みが走る。

 ――この旅は、きっと、過酷なものになる。

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