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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十章:繋がれた記憶と鎖

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第103話 繰り返しの鐘

 ……鐘の音。


 今度、アッシュはすぐに目を開けなかった。

 知っていたのだ。目を開けようが閉じていようが、この先に待っているのは、同じ結末。


 見るまでもない。

 身体に傷はない。

 だが、暴行を受けた痛みだけが骨の奥底にまだ燃え続け、冷たい炎のように意識を蝕んでいた。


 外から、かすかな物音。

 足音が近づき、何か冷たいものが、そっと彼の額の髪に触れた。


 アッシュはゆっくりと目を開ける。

 視界に映ったのは、ベッドの脇に立つエルセリアだった。

 彼女の指はまだ空中にあり、彼が目覚めているとは思っていなかったのか、わずかに驚いたように固まり――すぐに手を引っ込め、わざとらしく声を出す。


 「……目が覚めたのですね」


 アッシュは顔を逸らし、その視線は彼女の肩越しに扉の方へ。

 やはりセイフィナが立っていたが、前回よりも姿勢が硬直していた。

 まるで嵐の訪れを待つ者のように。


 アッシュは何も返さず、そのまま身を起こす。

 そして低く呟いた。

 「もういい……芝居はやめろ」


 エルセリアが目を瞬かせた。

 その翠の瞳に、一瞬の困惑がよぎる。

 「ノアディス殿下……何のことを?」


 アッシュは彼女に構わず、裸足のまま、まっすぐ側堂へと向かった。


 セイフィナが彼の背に声をかける。

 「教皇使節殿は側堂におられます」


 アッシュは振り向かず、冷たく言い放つ。

 「知ってる」


 心の中にあったのは、ただひとつ。

 ――今度こそ、終わらせる。

 



 側堂の松明は、いつもよりも強く燃えていた。

 揺れる炎は壁に刻まれた聖紋を照らし、まるで無言の審判のようだった。


 教皇使節は高台に座し、冷たい視線をこちらに向けていた。

 まるで、アッシュが現れることを最初から知っていたかのように。


 「ノアディス殿下」

 また、あの決まり文句が響く。

 「あなたが聖遺物を携えていた件、すでに承知しているはずです」


 アッシュはもう言い返さず、静かに壇の前まで歩み寄る。

 その視線は、箱へと落ちる――

 木の表面は相変わらず冷たい光を放っていたが、その一角には小さく黒ずんだ血痕が残っていた。


 一瞬、動きが止まる。

 目線を横にずらすと、以前箱で殴った騎士がそこに立っていた。

 その額には小さな傷跡。だが、目は鋭く、怒りを宿していた。


 アッシュは喉を動かし、何も言わず箱を引き寄せる。


 「開けなさい」

 使節の低い声が響く。

 唇には、まるで勝利を確信したような笑みが浮かんでいた。


 アッシュの指が震え、関節が白くなるほど力を込める。

 脳裏に浮かぶのは、リゼリアが裁きの壇に縛られる光景――

 リメアが符文の鎖に繋がれ、苦しみのうちに鳴く姿。

 胸が締めつけられるように苦しくなる。

 息が詰まり、全身が震える。


 (ダメだ……彼女たちに、こんなものを背負わせるわけにはいかない)


 アッシュは手を箱の上に置く。

 するとすぐに、紋が赤く灯り始めた。

 光が縁から滲み出し、脈打つように鼓動し始める。


 魔力が吸われる感覚。

 額から冷や汗が流れる。


 ――だが、そのとき。

 アッシュの心には、微かな冷笑が浮かんでいた。


 思い出す。

 以前、箱を開けようとして拒絶されたときの、指先を焼くような痛みを。

 しかし今、箱は何の拒絶もなく魔力を吸収していた。


 (……最初から、開けることなどできた。だが、させなかった)


 それでも手を止めることなく、光は箱全体を包む。

 「カチッ」

 封印が緩んだ音がした。


 アッシュはゆっくりと蓋を開ける。


 中にあったのは、掌ほどの深紅の結晶。

 その内部には、脈動するような幽かな光が揺れていた。まるで生きているかのように。


 使節の目が輝く。

 神の奇跡を見たかのような熱に浮かされた眼差しで、呟く。


 「やはり……」

 そしてすぐに顔を上げ、威厳を込めて宣言した。

 「聖遺物、確認。今より、教国がこれを接収し、神の御心に従い封印を強化する――」


 だがその言葉の途中で、彼は手を伸ばし箱を自らの側に戻す。

 「パタン」と蓋が閉じられ、命運すらも封じられたかのような音を響かせた。

 その口元には、冷たい笑みが浮かぶ。

 「これで……あなたに利用価値は無くなった」


 アッシュの喉がひくりと動いた。

 胸が締めつけられるように苦しく、呼吸もままならない。


 視界が赤く染まる。それは血ではなく――怒りと恐怖。

 耳に、鎖の擦れる音が蘇る。

 竜の悲鳴――

 骨の奥に焼きついた記憶が、強引に引きずり出される。


 「リゼリアたちに、触れるな――!」

 アッシュは叫び、使節に向かって身を乗り出した。

 だがその動きを、槍の切っ先が止めた。


 「押さえろ」

 使節の命令が下る。


 槍が振り下ろされ、彼の肩に叩きつけられる。

 激しい衝撃で石床に倒れ込み、響く鈍い音。

 続けざまに拳が、膝が、鉄の靴が容赦なく振り下ろされる。

 痛みが波のように押し寄せ、視界が血に染まる。


 アッシュは這い上がろうと、片手を伸ばし――

 石の上に赤い痕を残しながら、起き上がることができずにいた。


 (……駄目だ……こんな所で倒れるわけには……)


 使節は高台から降り、アッシュを見下ろす。

 その声は、酷薄なまでに冷たい。

 「連れて行け」


 最後の一撃が背中に打ち込まれ、血の味が喉に広がる。

 意識が落ちていく直前、アッシュの耳に微かに届いたのは――


 鎖を引く音。

 馬の蹄音と、車輪が石を擦る低い響き。


 そして、最後にひとつだけ、彼の脳裏をよぎった。

 (……馬車……?)

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