第103話 繰り返しの鐘
……鐘の音。
今度、アッシュはすぐに目を開けなかった。
知っていたのだ。目を開けようが閉じていようが、この先に待っているのは、同じ結末。
見るまでもない。
身体に傷はない。
だが、暴行を受けた痛みだけが骨の奥底にまだ燃え続け、冷たい炎のように意識を蝕んでいた。
外から、かすかな物音。
足音が近づき、何か冷たいものが、そっと彼の額の髪に触れた。
アッシュはゆっくりと目を開ける。
視界に映ったのは、ベッドの脇に立つエルセリアだった。
彼女の指はまだ空中にあり、彼が目覚めているとは思っていなかったのか、わずかに驚いたように固まり――すぐに手を引っ込め、わざとらしく声を出す。
「……目が覚めたのですね」
アッシュは顔を逸らし、その視線は彼女の肩越しに扉の方へ。
やはりセイフィナが立っていたが、前回よりも姿勢が硬直していた。
まるで嵐の訪れを待つ者のように。
アッシュは何も返さず、そのまま身を起こす。
そして低く呟いた。
「もういい……芝居はやめろ」
エルセリアが目を瞬かせた。
その翠の瞳に、一瞬の困惑がよぎる。
「ノアディス殿下……何のことを?」
アッシュは彼女に構わず、裸足のまま、まっすぐ側堂へと向かった。
セイフィナが彼の背に声をかける。
「教皇使節殿は側堂におられます」
アッシュは振り向かず、冷たく言い放つ。
「知ってる」
心の中にあったのは、ただひとつ。
――今度こそ、終わらせる。
側堂の松明は、いつもよりも強く燃えていた。
揺れる炎は壁に刻まれた聖紋を照らし、まるで無言の審判のようだった。
教皇使節は高台に座し、冷たい視線をこちらに向けていた。
まるで、アッシュが現れることを最初から知っていたかのように。
「ノアディス殿下」
また、あの決まり文句が響く。
「あなたが聖遺物を携えていた件、すでに承知しているはずです」
アッシュはもう言い返さず、静かに壇の前まで歩み寄る。
その視線は、箱へと落ちる――
木の表面は相変わらず冷たい光を放っていたが、その一角には小さく黒ずんだ血痕が残っていた。
一瞬、動きが止まる。
目線を横にずらすと、以前箱で殴った騎士がそこに立っていた。
その額には小さな傷跡。だが、目は鋭く、怒りを宿していた。
アッシュは喉を動かし、何も言わず箱を引き寄せる。
「開けなさい」
使節の低い声が響く。
唇には、まるで勝利を確信したような笑みが浮かんでいた。
アッシュの指が震え、関節が白くなるほど力を込める。
脳裏に浮かぶのは、リゼリアが裁きの壇に縛られる光景――
リメアが符文の鎖に繋がれ、苦しみのうちに鳴く姿。
胸が締めつけられるように苦しくなる。
息が詰まり、全身が震える。
(ダメだ……彼女たちに、こんなものを背負わせるわけにはいかない)
アッシュは手を箱の上に置く。
するとすぐに、紋が赤く灯り始めた。
光が縁から滲み出し、脈打つように鼓動し始める。
魔力が吸われる感覚。
額から冷や汗が流れる。
――だが、そのとき。
アッシュの心には、微かな冷笑が浮かんでいた。
思い出す。
以前、箱を開けようとして拒絶されたときの、指先を焼くような痛みを。
しかし今、箱は何の拒絶もなく魔力を吸収していた。
(……最初から、開けることなどできた。だが、させなかった)
それでも手を止めることなく、光は箱全体を包む。
「カチッ」
封印が緩んだ音がした。
アッシュはゆっくりと蓋を開ける。
中にあったのは、掌ほどの深紅の結晶。
その内部には、脈動するような幽かな光が揺れていた。まるで生きているかのように。
使節の目が輝く。
神の奇跡を見たかのような熱に浮かされた眼差しで、呟く。
「やはり……」
そしてすぐに顔を上げ、威厳を込めて宣言した。
「聖遺物、確認。今より、教国がこれを接収し、神の御心に従い封印を強化する――」
だがその言葉の途中で、彼は手を伸ばし箱を自らの側に戻す。
「パタン」と蓋が閉じられ、命運すらも封じられたかのような音を響かせた。
その口元には、冷たい笑みが浮かぶ。
「これで……あなたに利用価値は無くなった」
アッシュの喉がひくりと動いた。
胸が締めつけられるように苦しく、呼吸もままならない。
視界が赤く染まる。それは血ではなく――怒りと恐怖。
耳に、鎖の擦れる音が蘇る。
竜の悲鳴――
骨の奥に焼きついた記憶が、強引に引きずり出される。
「リゼリアたちに、触れるな――!」
アッシュは叫び、使節に向かって身を乗り出した。
だがその動きを、槍の切っ先が止めた。
「押さえろ」
使節の命令が下る。
槍が振り下ろされ、彼の肩に叩きつけられる。
激しい衝撃で石床に倒れ込み、響く鈍い音。
続けざまに拳が、膝が、鉄の靴が容赦なく振り下ろされる。
痛みが波のように押し寄せ、視界が血に染まる。
アッシュは這い上がろうと、片手を伸ばし――
石の上に赤い痕を残しながら、起き上がることができずにいた。
(……駄目だ……こんな所で倒れるわけには……)
使節は高台から降り、アッシュを見下ろす。
その声は、酷薄なまでに冷たい。
「連れて行け」
最後の一撃が背中に打ち込まれ、血の味が喉に広がる。
意識が落ちていく直前、アッシュの耳に微かに届いたのは――
鎖を引く音。
馬の蹄音と、車輪が石を擦る低い響き。
そして、最後にひとつだけ、彼の脳裏をよぎった。
(……馬車……?)




