第101話 二度目の目覚め
……鐘の音がした。
最初にアッシュが聞いたのは、それだった。
低く、遠く、まるで水の底から響くように、耳の奥でゆっくりと反響する。
彼は目を開けた。
視界は再び、白光に呑まれる。
眩しさに目が灼けるようで、さっきまでの現実が嘘のように溶けてゆく。
(……また、ここに?)
鼻先には、草薬と焚香の混じった匂い。
耳には、小さく続く祈りの声。
――どれも、さっき感じたばかりのものと寸分違わない。
アッシュは身を起こし、下を向いた。
そこにあったはずの裂傷は、やはり消えていた。
痛みも、血も、痕跡すら残っていない。
(……側堂で……あいつらに殴り倒されて……)
記憶が冷たい水のように一気に戻る。
指先がひきつる。
しかし、体の内側の虚さだけは残っていた。
失血による倦怠、魔力を絞り取られたような空洞――
重い鉛のように、四肢を沈めていく。
彼は息を吐き、ベッドの縁を掴んで立ち上がった。
「目が覚めたのですね」
平坦な女の声が、思考を断ち割る。
アッシュが顔を向けると、扉のそばにエルセリアが立っていた。
翡翠色の瞳が静かに光り、表情は感情の色を映さない。
その背後には、腕を組んで壁に寄りかかるセイフィナの姿。
「ここは大聖堂の療養室です」
エルセリアは静かに歩み寄り、淡々と告げた。
「あなたは重傷を負っていました。治療がなければ、もう……この世にはいなかったでしょう」
言葉の端々が、あまりにもさっきと同じで、胸がざわつく。
「安心してください」
その声音もまた、既視感と共に落ちてきた。
「あなたの仲間は、皆無事です」
彼女はわずかに言葉を区切り――昨日と同じように告げる。
「……教皇使節が、あなたに会いたがっています。セイフィナが案内します。
他のことは、それからにしましょう」
アッシュは目を細めた。
胸に冷たいものがひたひたと満ちる。
「……俺に会う? つい今しがた、会ったばかりだろう」
エルセリアはわずかに眉を寄せた。
まるで本当に、彼の言葉の意味がわからないというように。
セイフィナが扉を押し開き、短く告げる。
「教皇使節殿は、側堂におられます」
喉が強くしめつけられた。
アッシュは浅く息を吸い、震える指先を握りしめ――それでも足を前に出した。
(……何だ……これは……?)
側堂。
天井は高く、壁には古い聖紋がびっしりと刻まれている。
空気は重く冷え、昨日と寸分違わない。
高座には教皇使節が座り、両脇には銀甲の騎士。
アッシュは足を踏み入れた瞬間、その視線をある一点に奪われた。
――箱が、やはりそこにあった。
全く同じ位置、同じ角度で、沈黙を放って。
「ノアディス殿下」
使節の声もまた、昨日と同じ響きを持って降ってくる。
「あなたが聖遺物を携えていた件、すでに承知しているはずです」
アッシュは眉をひそめる。
胸の奥で、理解を拒む感覚が蠢く。
(……同じだ。まったく同じだ)
使節は箱を押し出し、静かに言った。
「開けなさい。自分の目で確かめるのです」
アッシュは動かない。
使節はゆっくり立ち上がり、高所から見下ろす。
「千年前の霊火災戦争――人と竜が七年戦い、世界が崩れかけた時代を知らぬとは言わせません」
アッシュは息を呑む。
(……また、その話だ)
「そのとき――」
言葉が続こうとした、その瞬間。
アッシュは反射的に踵を返し、出口へと走り出していた。
騎士たちが即座に動き、槍が交差して行く手を塞ぐ。
アッシュは身を低くしてすり抜けようとする――が、
扉の取っ手は固く閉ざされ、びくともしない。
「……ッ!」
刹那、横から槍の柄がうなりを上げた。
腹部に鈍い衝撃が走り、体が床に弾き飛ばされる。
冷汗が背中を濡らす。
二人の騎士が彼を挟むように拘束した。
教皇使節は静かな足音で高座を降り、
倒れた彼を見下ろして言う。
「無理をするな、ノアディス殿下。あなたは逃げられません」
箱が目の前に突き出される。
その声は冷たい刃のようだった。
「――開けなさい」
アッシュは歯を食いしばり、返答しない。
使節は表情を変えず、軽く指を振った。
次の瞬間――
鉄靴が石床を打ち、槍の柄が振り下ろされる。
「が……ッ!」
一撃で息が奪われ、胸が焼けるように痛む。
続く二撃、三撃が容赦なく降り、意識が揺らぐ。
視界の端に、箱の冷たい光が揺れ――
世界が深い闇に沈んでいった。
「連れて行け」
使節の声は驚くほど無慈悲で静かだった。
騎士たちが彼を抱え上げ、物のように引きずっていく。
その最中、遠くで――
リメアの押し殺した鳴き声と、誰かが彼の名を呼ぶ声が、
水の向こう側のように聞こえた。
だが、そのすべては闇に溶けた。
◆ ◆ ◆
……鐘が鳴る。
アッシュが再び意識を取り戻した時、
耳に届いたのは同じ鐘の音だった。
低く、深く、水底から響くような、変わらない音。
彼は跳ねるように目を開ける――
白光が視界を満たし、世界がぼやける。
(…………ここ、は)
身を起こした瞬間、全身に冷たい汗が滲む。
触れたシーツの感触も、草薬と焚香の香りも、祈りの声も――
ぜんぶ、まったく同じ。
彼は胸元を見下ろし、かすれた声を漏らした。
「……治ってる……また……?」
ついさっき癒されたはずの傷が、
また最初から存在しなかったかのように消えている。
(……ありえない。さっき俺は――)
槍、痛み、倒れる瞬間。
それらが鮮烈に蘇り、呼吸が詰まる。
だが身体の中の虚しさだけは、依然として重く残っていた。
その時――
「目が覚めたのですね」
同じ声が、同じ調子で響いた。
アッシュは振り返る。
エルセリアが扉の前に佇み、静かに彼を見つめていた。
セイフィナは腕を組んだまま、昨日、そしてさっきと同じ姿勢で壁にもたれている。
「ここは大聖堂の療養室です」
彼女は変わらない声で告げる。
「あなたは重傷を負っていました。治療がなければ、もう……」
アッシュの心臓が大きく跳ねた。
(……同じだ。言葉まで全部……)
「安心してください。あなたの仲間は、皆無事です」
「教皇使節が、あなたに会いたがっています。セイフィナが案内します。
他のことは、それからにしましょう」
アッシュは息を呑み、彼女を凝視した。
「……会いたがってる? たった今会ったばかりだろう」
エルセリアは小さく眉をひそめる。
本当に意味がわからない、というように。
セイフィナが扉を押し開け、言う。
「――側堂へ」
アッシュの喉が音を立ててひきつった。
胸が、重く沈む。
(おかしい……何かが……おかしい……)
それでも、彼は歩き出すしかなかった。




